辛うじて明かり取り程度の役目を果たす小さな窓から、欠けた月の光が降りている。
事務所に戻る階段の途中で、榎木津は足を止めた。踊り場に何かが居る。近づけば、殆ど見えない目で見るよりも直ぐに何であるかは知れた。下僕がくたばっているのだ。顔を寄せると強い酒の匂いがして、榎木津は眉をすがめる。
猫のように丸まっているその腹を軽く蹴り上げれば、抵抗も無くごろりと仰向けに転がった。ばらりと崩れた前髪が顔を殆ど覆ってしまい、蒼い闇の中で幽鬼じみて見えている。
瞼がゆっくりと開き、黒い両の瞳が榎木津を捉えた。
「あぁ、榎木津さん」
「ああえのきづさんじゃない、こんな所で死ぬな。僕が通れないじゃないか」
「だぁいじょうぶですよ、長いおみ足で跨いで通れば良いじゃないすか。僕のことはお構いなく」
呟くその声は、酒精で曇っている。榎木津を見ていたはずの目は、今はもう開いているのかいないのかと言った風情でただぼんやりと宙を泳いでいた。
もう一度靴先でこづいてやっても、反応が無い。榎木津は暫くそれを見下ろしていたが、おもむろに身を屈め薄い胴体を抱え上げた。常ならば「うわぁ止めてくださいよう」等の無駄な抵抗をする筈の手足はただ成すがままにぶら下がり、虚脱した全身は木偶人形さながらだ。酔いで火照った身体と、熱い息が吐き出された事でようやく人間である事を確認すると、榎木津は一段飛ばしで事務所を目指した。肩に益田を引っ掛けたまま手探りで鍵を開け、身体ごとぶつかるように扉を開く。
月光を浴びて艶を帯びるソファは、益田がいつも寝床として使っているものだ。榎木津は一旦其処で立ち止まったが、踵を返し寝室のドアを開けた。留守中和寅が換えたらしい、洗いざらしのシーツが張られた寝台に投げ落とされても、益田は何の応答もしなかった。
「おい、マスカマ」
既に大分緩んだタイを引き抜き、シャツのボタンを外していく。じわりと汗ばんだ肌が少しずつ顕わになった。全て外してしまっても、益田の薄く開いた唇が言葉を発することはない。それどころか十指の先すら、是とも否とも云わず、ただ並んで其処にあるだけだった。
榎木津はその上に乗り上げて、心臓に耳を近づけた。伝わる鼓動は少し速いが、程度としては許容範囲だ。酔っ払っているらしい事を除けば、何処か身体に異常がある訳でも無さそうだ。掌でぺちぺちと頬を張り、「マスヤマ」と呼んでやる。添わせた自分の手と比べると、益田の肌は明らかに熱く、赤かった。髪の隙間から除く耳も同様だ。
覆い隠す前髪が不快で、榎木津はそれらを鷲掴み、一思いに捲り上げた。尖った鼻と薄く開いた目、薄い眉が一度に現れる。生え際まで真っ赤だ。
「マスヤマ」
何も映していなかった益田の瞳がきょろりと動いたかと思うと、じわりと水気を滲ませ、たちまち決壊するように涙を溢れさせた。止めるものもなく流れ、頬を伝い耳の辺りまで濡らしている。突然の事に、前髪を掴んだ手に力が入った。
呼吸をするばかりだった薄い唇が、ようやくかすかに動作する。
―――ずるい。
そんな形を取ったように、榎木津には見えた。
「ずるいって何だ」
「榎木津さんは、気安く触るじゃあないですか」
その度に僕が、どれだけ。
酔っている筈の益田は、やけにはっきりとそう云った。暴かれた額に月の光が落ちている。階段の窓よりも大きな寝室の窓から降る其れは、はらはらと流れる涙の一筋まで照らし出した。
長く華奢な指が力無く寝具に埋まっているのに、自然と目が行く。
「お前僕に触りたいのか」
「触りたいって云ったら、触らせてくれるんですかぁ?神様が、僕なんかに」
そう云ってうっすらと浮かべた笑みは、諦めに満ち、卑屈で、それでいて傲慢であった。
榎木津もふっと笑いを溢す。面白くも無いのに。
「オロカだな」
その声に答える者は無かった。益田の瞳は今や完全に閉じられ、意識すらも眠りの淵に落ちたようだ。清潔なシーツに涙を飲み込んだ暗い染みが出来ている。
前髪を握った拳を解き、くしゃりとかき混ぜると、幾筋かが水のようにさらりと零れ落ちる。指先でついと流せば、黒髪の束が少し血色の収まった頬にかかった。益田の上から身体をずらし、仰向けになる。吐息に交じっていた安っぽい酒の匂いが鼻について仕方ない。
「どんな悪い酒を飲んだんだ」
ぐでんぐでんに酔っ払ってでも、此処に帰ってきた癖に。冷たい床にうずくまって、偏執に酔った頭で何を考えて。
掌に食い込ませた髪の感触を思い出す。榎木津の猫っ毛とは全く異質な其れは、益田の狭い世界を守る結界だ。
「切り落としてやろうかな」
その案は実行されず、榎木津は布団に潜り込んだ。冷たいシーツから少しずつ、今は眠る益田の熱が伝わってきて、榎木津もいつの間にか眠ってしまった。
榎木津が目を覚ました時、寝台は空っぽだった。枕の形まで整えられて、人が寝ていた形跡すら無い。寝起きの不機嫌さを一気に加速させ、榎木津は寝室を飛び出した。
其処に居たのはいつも通り掃除をしている和寅と、不届き者。
「おはようございます、榎木津さん」
何事も無いかのように顔を上げた益田を見て、榎木津は硬直した。尖った顎のあたりを残して、長い前髪がぞろりと覆っている。
昨夜の出来事を何も知らない和寅が、溜息混じりに不平を溢す。
「陰気臭いから止めろと云ったんですがこれが聞かないんですわ」
へらりと笑った口元から覗く八重歯が、此れが益田である事を示す数少ない記号だ。
「酷い顔なんですよもう浮腫んじゃって。瞼とか特に凄くってもう、目のお化けみたいなんですよ。まぁ僕の場合そんなに見られた顔でもないんで気にしないっちゃ気にしないんですがこうしておけば目立たないでしょ?」
榎木津はそれには応えず、益田の頭上に視線を固定した。前髪で隠せない筈の記憶。
しかし其処に視える景色には幾つもの黒い筋が入り込み、取り払われたと思ったら、今度は水底から見上げた水面のように揺らめいている。
榎木津は自分がどんな顔をしていたのか、ついに知る事が出来なかった。
――――
檜扇様リクエスト「榎木津に前髪をくしゃっとかき上げられる益田」でした。ありがとうございました。
前髪萌えを詰め込んだ結果、陰気な話になってしまい申し訳ないことに…
事務所に戻る階段の途中で、榎木津は足を止めた。踊り場に何かが居る。近づけば、殆ど見えない目で見るよりも直ぐに何であるかは知れた。下僕がくたばっているのだ。顔を寄せると強い酒の匂いがして、榎木津は眉をすがめる。
猫のように丸まっているその腹を軽く蹴り上げれば、抵抗も無くごろりと仰向けに転がった。ばらりと崩れた前髪が顔を殆ど覆ってしまい、蒼い闇の中で幽鬼じみて見えている。
瞼がゆっくりと開き、黒い両の瞳が榎木津を捉えた。
「あぁ、榎木津さん」
「ああえのきづさんじゃない、こんな所で死ぬな。僕が通れないじゃないか」
「だぁいじょうぶですよ、長いおみ足で跨いで通れば良いじゃないすか。僕のことはお構いなく」
呟くその声は、酒精で曇っている。榎木津を見ていたはずの目は、今はもう開いているのかいないのかと言った風情でただぼんやりと宙を泳いでいた。
もう一度靴先でこづいてやっても、反応が無い。榎木津は暫くそれを見下ろしていたが、おもむろに身を屈め薄い胴体を抱え上げた。常ならば「うわぁ止めてくださいよう」等の無駄な抵抗をする筈の手足はただ成すがままにぶら下がり、虚脱した全身は木偶人形さながらだ。酔いで火照った身体と、熱い息が吐き出された事でようやく人間である事を確認すると、榎木津は一段飛ばしで事務所を目指した。肩に益田を引っ掛けたまま手探りで鍵を開け、身体ごとぶつかるように扉を開く。
月光を浴びて艶を帯びるソファは、益田がいつも寝床として使っているものだ。榎木津は一旦其処で立ち止まったが、踵を返し寝室のドアを開けた。留守中和寅が換えたらしい、洗いざらしのシーツが張られた寝台に投げ落とされても、益田は何の応答もしなかった。
「おい、マスカマ」
既に大分緩んだタイを引き抜き、シャツのボタンを外していく。じわりと汗ばんだ肌が少しずつ顕わになった。全て外してしまっても、益田の薄く開いた唇が言葉を発することはない。それどころか十指の先すら、是とも否とも云わず、ただ並んで其処にあるだけだった。
榎木津はその上に乗り上げて、心臓に耳を近づけた。伝わる鼓動は少し速いが、程度としては許容範囲だ。酔っ払っているらしい事を除けば、何処か身体に異常がある訳でも無さそうだ。掌でぺちぺちと頬を張り、「マスヤマ」と呼んでやる。添わせた自分の手と比べると、益田の肌は明らかに熱く、赤かった。髪の隙間から除く耳も同様だ。
覆い隠す前髪が不快で、榎木津はそれらを鷲掴み、一思いに捲り上げた。尖った鼻と薄く開いた目、薄い眉が一度に現れる。生え際まで真っ赤だ。
「マスヤマ」
何も映していなかった益田の瞳がきょろりと動いたかと思うと、じわりと水気を滲ませ、たちまち決壊するように涙を溢れさせた。止めるものもなく流れ、頬を伝い耳の辺りまで濡らしている。突然の事に、前髪を掴んだ手に力が入った。
呼吸をするばかりだった薄い唇が、ようやくかすかに動作する。
―――ずるい。
そんな形を取ったように、榎木津には見えた。
「ずるいって何だ」
「榎木津さんは、気安く触るじゃあないですか」
その度に僕が、どれだけ。
酔っている筈の益田は、やけにはっきりとそう云った。暴かれた額に月の光が落ちている。階段の窓よりも大きな寝室の窓から降る其れは、はらはらと流れる涙の一筋まで照らし出した。
長く華奢な指が力無く寝具に埋まっているのに、自然と目が行く。
「お前僕に触りたいのか」
「触りたいって云ったら、触らせてくれるんですかぁ?神様が、僕なんかに」
そう云ってうっすらと浮かべた笑みは、諦めに満ち、卑屈で、それでいて傲慢であった。
榎木津もふっと笑いを溢す。面白くも無いのに。
「オロカだな」
その声に答える者は無かった。益田の瞳は今や完全に閉じられ、意識すらも眠りの淵に落ちたようだ。清潔なシーツに涙を飲み込んだ暗い染みが出来ている。
前髪を握った拳を解き、くしゃりとかき混ぜると、幾筋かが水のようにさらりと零れ落ちる。指先でついと流せば、黒髪の束が少し血色の収まった頬にかかった。益田の上から身体をずらし、仰向けになる。吐息に交じっていた安っぽい酒の匂いが鼻について仕方ない。
「どんな悪い酒を飲んだんだ」
ぐでんぐでんに酔っ払ってでも、此処に帰ってきた癖に。冷たい床にうずくまって、偏執に酔った頭で何を考えて。
掌に食い込ませた髪の感触を思い出す。榎木津の猫っ毛とは全く異質な其れは、益田の狭い世界を守る結界だ。
「切り落としてやろうかな」
その案は実行されず、榎木津は布団に潜り込んだ。冷たいシーツから少しずつ、今は眠る益田の熱が伝わってきて、榎木津もいつの間にか眠ってしまった。
榎木津が目を覚ました時、寝台は空っぽだった。枕の形まで整えられて、人が寝ていた形跡すら無い。寝起きの不機嫌さを一気に加速させ、榎木津は寝室を飛び出した。
其処に居たのはいつも通り掃除をしている和寅と、不届き者。
「おはようございます、榎木津さん」
何事も無いかのように顔を上げた益田を見て、榎木津は硬直した。尖った顎のあたりを残して、長い前髪がぞろりと覆っている。
昨夜の出来事を何も知らない和寅が、溜息混じりに不平を溢す。
「陰気臭いから止めろと云ったんですがこれが聞かないんですわ」
へらりと笑った口元から覗く八重歯が、此れが益田である事を示す数少ない記号だ。
「酷い顔なんですよもう浮腫んじゃって。瞼とか特に凄くってもう、目のお化けみたいなんですよ。まぁ僕の場合そんなに見られた顔でもないんで気にしないっちゃ気にしないんですがこうしておけば目立たないでしょ?」
榎木津はそれには応えず、益田の頭上に視線を固定した。前髪で隠せない筈の記憶。
しかし其処に視える景色には幾つもの黒い筋が入り込み、取り払われたと思ったら、今度は水底から見上げた水面のように揺らめいている。
榎木津は自分がどんな顔をしていたのか、ついに知る事が出来なかった。
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檜扇様リクエスト「榎木津に前髪をくしゃっとかき上げられる益田」でした。ありがとうございました。
前髪萌えを詰め込んだ結果、陰気な話になってしまい申し訳ないことに…
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Web拍手お返事です。ありがとうございます。
>3月25日 12:35の方
リクエストまだ大丈夫でしたので、確かに承りました。
人妻に手篭めに(?)されかける益田は浪漫ですよね。それに怒る榎木津は公式なので(京極先生ありがとう)もう心置きなく。頑張ります。ありがとうございました。
>いか様
『5.おもひのいろ』お読み頂いてありがとうございます。
榎木津→益田団(変な団出来た)のいか様にお褒め頂けるとは思っていなかったので嬉しいです。新興宗教を立ち上げる予定は今のところありませんが、榎木津を神として崇める益田をさらに崇める感じではあります。
名乗る程の者では本当に無いのですが、こうして二次創作を通していか様と接点が持てた事を光栄に思います。いつもありがとうございます。いか様の日記おもしろすぎます。
リクエストして頂いた方々と、読んでくださる皆様への感謝を込めて頑張ります。
叩いてくださった方も、ありがとうございました。
「返信不要」の方もありがとうございます。返信したいです。
リクエスト募集締め切りました。何の反応も無いことを想定していたので驚いています。本当にありがとうございました。
お題小説ばかり書いていることからお分かり頂けるかと思いますが、私の活動は原作の奥深さに加えてお題の言葉選びに助けられている所が本当に大きいです。
今回のリクエストで、ひとりでやってたら一生思いつかなかっただろうなぁっていう萌えを沢山分けて頂きました。
「これ私じゃなくてもっと上手い人がやるべき」とハラハラしつつも、全力で向かいます。
リクエストくださった方はもちろん、皆様に楽しんでいただけたら嬉しいです。
>3月25日 12:35の方
リクエストまだ大丈夫でしたので、確かに承りました。
人妻に手篭めに(?)されかける益田は浪漫ですよね。それに怒る榎木津は公式なので(京極先生ありがとう)もう心置きなく。頑張ります。ありがとうございました。
>いか様
『5.おもひのいろ』お読み頂いてありがとうございます。
榎木津→益田団(変な団出来た)のいか様にお褒め頂けるとは思っていなかったので嬉しいです。新興宗教を立ち上げる予定は今のところありませんが、榎木津を神として崇める益田をさらに崇める感じではあります。
名乗る程の者では本当に無いのですが、こうして二次創作を通していか様と接点が持てた事を光栄に思います。いつもありがとうございます。いか様の日記おもしろすぎます。
リクエストして頂いた方々と、読んでくださる皆様への感謝を込めて頑張ります。
叩いてくださった方も、ありがとうございました。
「返信不要」の方もありがとうございます。返信したいです。
リクエスト募集締め切りました。何の反応も無いことを想定していたので驚いています。本当にありがとうございました。
お題小説ばかり書いていることからお分かり頂けるかと思いますが、私の活動は原作の奥深さに加えてお題の言葉選びに助けられている所が本当に大きいです。
今回のリクエストで、ひとりでやってたら一生思いつかなかっただろうなぁっていう萌えを沢山分けて頂きました。
「これ私じゃなくてもっと上手い人がやるべき」とハラハラしつつも、全力で向かいます。
リクエストくださった方はもちろん、皆様に楽しんでいただけたら嬉しいです。
益田は我が耳を疑った。昨夜もちゃんと掃除をしたはずの耳を疑った。
「えっ榎木津さん、今なんて仰いました?」
「仕事に行くぞと云ったんだ!」
やはり聞き間違いでは無かったが、何かの間違いでは無いか。榎木津が仕事に行くと云っている。しかも探偵助手の自分を伴ってだ。雨が、いや槍が降るかと思ったが、天候は快晴だった。
益田が調査時に被るものと良く似た形の帽子を被った榎木津は、片手に革の鞄を携えている。探偵小説でもあるまいし大きな期待はするまいが、七つ道具の類でも仕込まれているのではと益田はワクワクしてしまった。
それにしても榎木津がここまで準備万端整えて臨む仕事とは一体どんなものか。帝都に跳梁跋扈する悪の怪人をすわ退治するものか、港で夜な夜な執り行われる闇のシンジケートの類を一網打尽か。何にしても大きな仕事になりそうである。益田は乗馬鞭を握る手に力を込めた。
「では行くぞ、マスヤマ!僕についてこい!」
「はい!」
カウベルの音に急かされて、2人して薔薇十字探偵社を飛び出した。
これこそが神たる探偵榎木津礼二郎と有能なる探偵助手益田龍一による、華麗なる事件の幕開け。
―――になる筈も無く。
2人が辿り着いたのは港でも、帝都ですら無い、ただただ広い野原であった。遮る物もなく、のびのびと風が横切るたびに柔らかい野草がさわさわと揺れる。草を食む牛の群れが遠くに点々と見えていた。
益田も来る途中から薄々おかしいなとは思っていた。草を踏みながら辿り着いた木陰で、恐る恐る榎木津にかねてからの疑問をぶつけてみる。
「あの、榎木津さん」
「なに」
「こっちの台詞ですよ。僕ぁ仕事に行くって聞いてきたんですが、このとってものどかな光景は一体なんなんですかぁ」
「そのとオリだっ。僕達の仕事はこれから始まるんだぞマスヤマ。僕は今から準備をするんだ、其処を空けなさい」
榎木津は油断ない動きで片膝を付き、革の鞄に手をかける。口金がぱちんと音を立てて開いた。大きく開いた鞄は、何やら地獄の口のようにものものしいものに見える。榎木津の白い手の甲が吸い込まれていくのを見て、益田は恐る恐る中を覗き込んだ。
果たして中から取り出されたのは、折りたたまれた麻の布だった。榎木津はさっと立ち上がると布をばさりと広げる。緑の絨毯の上に、淡いクリーム色の色彩が覆い被さる。あっけに取られている益田に目もくれず、靴を脱ぎ捨てた榎木津はその上にごろりと横たわった。
「ふう」
「ふう、じゃないでしょう!何やってるんですかぁ」
「何を突っ立っているんだマスカマオロカ。お前もこっちに来て、横になるの。早くする」
ちょいちょい、と指先だけで招かれる。益田は逡巡したが、仕方なく麻布の上に足を踏み入れた。布の隙間を通して飛び出した葉の感触がちくちくする。そっと横たわると、振り仰ぐ大樹の葉陰から落ちる日光がきらめいて美しい。榎木津が歌うように、やっぱり昼寝は麻に限るなぁ、と云ったので益田は飛び起きた。
「昼寝!? 今、昼寝って」
「昼間寝るんだから昼寝に決まっているだろう。解ったらオロカな質問をしない、僕はもう眠いんだから。もう寝るぞ。すぐ寝るぞ。はい寝た」
その言葉を最後に、榎木津は本当に何も云わなくなった。薄く開いた口元からすやすやと零れる吐息。吹く風が枝を揺らせばかき消えるほど儚く安らかなものだ。
「えぇー…」
手を伸ばして、革の鞄を覗き込む。人の頭ほどもある其の中身は、闇を飲み込んだかのように底知れず暗かった筈だが、何のことはない。中には何も入っていなかったのだ。そう思ってみると秘密も何も無い。ただのつまらない、何処にでもある鞄だ。失望を埋めるように、益田はとりあえず乗馬鞭を差し込んでみた。支えも無くぱたりと倒れた鞭が、逆に物悲しい。
益田の心中も知らず、榎木津は眠り続けている。髪に頬に木漏れ日を受けて輝く美貌が恨めしかった。
「しょうがないなぁ、もう…」
麻に覆われて背中に伝わる大地はふかふかとして、けれど瑞々しく冷たい。光の粒を撒き散らしながらさやさやと響く葉ずれの音色は遠い昔に聴いた懐かしさだ。眠る探偵の横顔を盗み見れば、冗談のように長い睫が萌える草に似た健全さで其処にあった。風が止んだ時にふと耳に届く榎木津の寝息が、益田をも眠りへと誘いこむ。
(仕事って何だったんだろう、やっぱり方便だったのかなぁ)
榎木津と共に探偵としての仕事が出来なかったことへの落胆と、そんな事など最初からどうでも良かったと思わせるほどのしみじみとした喜びに包まれて、益田の意識はゆっくりゆっくりと沈んでいった。
―――何だか腹が暖かい。
触れているのは腹だけなのに、其処から全身を優しく温めてくれる。なんだかふわふわと柔らかい。夢から覚めきらない頭が、ただ幸せだけを知覚する。
「うふふ、止めてくださいよぅ榎木津さん…」
「何だマスヤマ、気持ち悪いぞ」
はっと目を開けば、すぐ近くに鳶色の瞳があった。飛び起きようとしたが、榎木津の腕に肩を押えられる。
「馬鹿、動くな。逃げちゃうだろ」
「うぇ、逃げるって何が…あっ」
益田の薄い腹にくっついて、何か丸いものが居る。白と茶の毛並みに映える赤いリボン。榎木津はゆっくりと起き上がり、そっと其の毛玉めいたものを持ち上げた。毛玉からは手足が生え、三角の耳が飛び出している。眠りを阻まれ、不機嫌そうに揺れる尻尾をなだめながら、榎木津は其れをからっぽの鞄に仕舞いこんだ。分厚い革越しに、にゃあおう、と間延びした声が聞こえてくる。
「猫…」
「お仕事終わり!帰るぞマスヤマ!」
両腕で鞄を抱きかかえて進む榎木津に、寝ぼけた頭で付いていく。いつしか陽は傾き、牛の群れも居なくなっていた。
探偵社に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
「お帰りなさい先生、依頼人がお待ちですぜ」
「えっ、依頼人?」
和寅の肩越しにソファを覗き込むと、陰から赤いエナメルの靴が見えた。
榎木津はソファの前に膝をつき、鞄を開けて中を見せてやっている。
「やぁやぁ遅くなったね、でもこの通りちゃあんと連れて来たぞ」
「わぁ、私のにゃんこ!」
エナメル靴の少女は、鞄から猫を引きずり出した。猫は一瞬眩しそうに目を細め、少女の腕の中でごろごろと喉を鳴らしている。状況についていけずただ唖然としている益田に、和寅が囁いた。
「家族でピクニックに出かけた時に飼い猫が逃げちまったそうで。探しに行こうにも女の子の足には遠いし、詳しい場所も解らない。其処で先生が連れて来てやろうって息巻きましてね」
猫を重そうに抱きかかえた少女は、ぴょこりと頭を下げた。猫と揃いの赤いリボンが、柔らかい髪の根元で跳ねる。
「探偵のおじさん、どうもありがとう!」
少女は顔中を笑顔にして、益田の脇をすり抜け、事務所の扉から出て行った。弾む靴音が遠ざかっていく。
榎木津は窓に張り付いて彼女を見送っていたが、やがて顔を上げた。
「どうだマスヤマ、コソコソ他人のいざこざを嗅ぎまわるよりよっぽど健全な仕事だっただろう!」
「そうですねえ…女の子も喜んでましたし。まぁこんな仕事ばっかりじゃ僕ぁ食っていけませんけども」
「そう云うと思ってちゃんと報酬も貰ってあるのだ。そら、口を開けろ」
反射的に口を開けると、榎木津の指先が唇を掠めた。何か放り込まれた。苺ミルクの味が口中を甘く染めていく。
「でもそうならそうと早く云ってくださいよぅ。僕ぁ公然とサボタージュしてるみたいで気が気じゃなかったんですから」
「本当は僕ひとりで十分な仕事だったんだけど、マスヤマが行きたいかと思ったんだ。神の慈悲だぞ、有難く受けなさい」
榎木津も「報酬」を口に含んで笑っている。
同じ風を浴びて、同じ場所に横たわり、同じ夢を見て、同じ甘さを感じる。終わってみれば、なかなかに幸福な一日だ。
――――
蒼月様リクエスト「外で昼寝する榎木津と益田」でした。ありがとうございました。
「えっ榎木津さん、今なんて仰いました?」
「仕事に行くぞと云ったんだ!」
やはり聞き間違いでは無かったが、何かの間違いでは無いか。榎木津が仕事に行くと云っている。しかも探偵助手の自分を伴ってだ。雨が、いや槍が降るかと思ったが、天候は快晴だった。
益田が調査時に被るものと良く似た形の帽子を被った榎木津は、片手に革の鞄を携えている。探偵小説でもあるまいし大きな期待はするまいが、七つ道具の類でも仕込まれているのではと益田はワクワクしてしまった。
それにしても榎木津がここまで準備万端整えて臨む仕事とは一体どんなものか。帝都に跳梁跋扈する悪の怪人をすわ退治するものか、港で夜な夜な執り行われる闇のシンジケートの類を一網打尽か。何にしても大きな仕事になりそうである。益田は乗馬鞭を握る手に力を込めた。
「では行くぞ、マスヤマ!僕についてこい!」
「はい!」
カウベルの音に急かされて、2人して薔薇十字探偵社を飛び出した。
これこそが神たる探偵榎木津礼二郎と有能なる探偵助手益田龍一による、華麗なる事件の幕開け。
―――になる筈も無く。
2人が辿り着いたのは港でも、帝都ですら無い、ただただ広い野原であった。遮る物もなく、のびのびと風が横切るたびに柔らかい野草がさわさわと揺れる。草を食む牛の群れが遠くに点々と見えていた。
益田も来る途中から薄々おかしいなとは思っていた。草を踏みながら辿り着いた木陰で、恐る恐る榎木津にかねてからの疑問をぶつけてみる。
「あの、榎木津さん」
「なに」
「こっちの台詞ですよ。僕ぁ仕事に行くって聞いてきたんですが、このとってものどかな光景は一体なんなんですかぁ」
「そのとオリだっ。僕達の仕事はこれから始まるんだぞマスヤマ。僕は今から準備をするんだ、其処を空けなさい」
榎木津は油断ない動きで片膝を付き、革の鞄に手をかける。口金がぱちんと音を立てて開いた。大きく開いた鞄は、何やら地獄の口のようにものものしいものに見える。榎木津の白い手の甲が吸い込まれていくのを見て、益田は恐る恐る中を覗き込んだ。
果たして中から取り出されたのは、折りたたまれた麻の布だった。榎木津はさっと立ち上がると布をばさりと広げる。緑の絨毯の上に、淡いクリーム色の色彩が覆い被さる。あっけに取られている益田に目もくれず、靴を脱ぎ捨てた榎木津はその上にごろりと横たわった。
「ふう」
「ふう、じゃないでしょう!何やってるんですかぁ」
「何を突っ立っているんだマスカマオロカ。お前もこっちに来て、横になるの。早くする」
ちょいちょい、と指先だけで招かれる。益田は逡巡したが、仕方なく麻布の上に足を踏み入れた。布の隙間を通して飛び出した葉の感触がちくちくする。そっと横たわると、振り仰ぐ大樹の葉陰から落ちる日光がきらめいて美しい。榎木津が歌うように、やっぱり昼寝は麻に限るなぁ、と云ったので益田は飛び起きた。
「昼寝!? 今、昼寝って」
「昼間寝るんだから昼寝に決まっているだろう。解ったらオロカな質問をしない、僕はもう眠いんだから。もう寝るぞ。すぐ寝るぞ。はい寝た」
その言葉を最後に、榎木津は本当に何も云わなくなった。薄く開いた口元からすやすやと零れる吐息。吹く風が枝を揺らせばかき消えるほど儚く安らかなものだ。
「えぇー…」
手を伸ばして、革の鞄を覗き込む。人の頭ほどもある其の中身は、闇を飲み込んだかのように底知れず暗かった筈だが、何のことはない。中には何も入っていなかったのだ。そう思ってみると秘密も何も無い。ただのつまらない、何処にでもある鞄だ。失望を埋めるように、益田はとりあえず乗馬鞭を差し込んでみた。支えも無くぱたりと倒れた鞭が、逆に物悲しい。
益田の心中も知らず、榎木津は眠り続けている。髪に頬に木漏れ日を受けて輝く美貌が恨めしかった。
「しょうがないなぁ、もう…」
麻に覆われて背中に伝わる大地はふかふかとして、けれど瑞々しく冷たい。光の粒を撒き散らしながらさやさやと響く葉ずれの音色は遠い昔に聴いた懐かしさだ。眠る探偵の横顔を盗み見れば、冗談のように長い睫が萌える草に似た健全さで其処にあった。風が止んだ時にふと耳に届く榎木津の寝息が、益田をも眠りへと誘いこむ。
(仕事って何だったんだろう、やっぱり方便だったのかなぁ)
榎木津と共に探偵としての仕事が出来なかったことへの落胆と、そんな事など最初からどうでも良かったと思わせるほどのしみじみとした喜びに包まれて、益田の意識はゆっくりゆっくりと沈んでいった。
―――何だか腹が暖かい。
触れているのは腹だけなのに、其処から全身を優しく温めてくれる。なんだかふわふわと柔らかい。夢から覚めきらない頭が、ただ幸せだけを知覚する。
「うふふ、止めてくださいよぅ榎木津さん…」
「何だマスヤマ、気持ち悪いぞ」
はっと目を開けば、すぐ近くに鳶色の瞳があった。飛び起きようとしたが、榎木津の腕に肩を押えられる。
「馬鹿、動くな。逃げちゃうだろ」
「うぇ、逃げるって何が…あっ」
益田の薄い腹にくっついて、何か丸いものが居る。白と茶の毛並みに映える赤いリボン。榎木津はゆっくりと起き上がり、そっと其の毛玉めいたものを持ち上げた。毛玉からは手足が生え、三角の耳が飛び出している。眠りを阻まれ、不機嫌そうに揺れる尻尾をなだめながら、榎木津は其れをからっぽの鞄に仕舞いこんだ。分厚い革越しに、にゃあおう、と間延びした声が聞こえてくる。
「猫…」
「お仕事終わり!帰るぞマスヤマ!」
両腕で鞄を抱きかかえて進む榎木津に、寝ぼけた頭で付いていく。いつしか陽は傾き、牛の群れも居なくなっていた。
探偵社に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
「お帰りなさい先生、依頼人がお待ちですぜ」
「えっ、依頼人?」
和寅の肩越しにソファを覗き込むと、陰から赤いエナメルの靴が見えた。
榎木津はソファの前に膝をつき、鞄を開けて中を見せてやっている。
「やぁやぁ遅くなったね、でもこの通りちゃあんと連れて来たぞ」
「わぁ、私のにゃんこ!」
エナメル靴の少女は、鞄から猫を引きずり出した。猫は一瞬眩しそうに目を細め、少女の腕の中でごろごろと喉を鳴らしている。状況についていけずただ唖然としている益田に、和寅が囁いた。
「家族でピクニックに出かけた時に飼い猫が逃げちまったそうで。探しに行こうにも女の子の足には遠いし、詳しい場所も解らない。其処で先生が連れて来てやろうって息巻きましてね」
猫を重そうに抱きかかえた少女は、ぴょこりと頭を下げた。猫と揃いの赤いリボンが、柔らかい髪の根元で跳ねる。
「探偵のおじさん、どうもありがとう!」
少女は顔中を笑顔にして、益田の脇をすり抜け、事務所の扉から出て行った。弾む靴音が遠ざかっていく。
榎木津は窓に張り付いて彼女を見送っていたが、やがて顔を上げた。
「どうだマスヤマ、コソコソ他人のいざこざを嗅ぎまわるよりよっぽど健全な仕事だっただろう!」
「そうですねえ…女の子も喜んでましたし。まぁこんな仕事ばっかりじゃ僕ぁ食っていけませんけども」
「そう云うと思ってちゃんと報酬も貰ってあるのだ。そら、口を開けろ」
反射的に口を開けると、榎木津の指先が唇を掠めた。何か放り込まれた。苺ミルクの味が口中を甘く染めていく。
「でもそうならそうと早く云ってくださいよぅ。僕ぁ公然とサボタージュしてるみたいで気が気じゃなかったんですから」
「本当は僕ひとりで十分な仕事だったんだけど、マスヤマが行きたいかと思ったんだ。神の慈悲だぞ、有難く受けなさい」
榎木津も「報酬」を口に含んで笑っている。
同じ風を浴びて、同じ場所に横たわり、同じ夢を見て、同じ甘さを感じる。終わってみれば、なかなかに幸福な一日だ。
――――
蒼月様リクエスト「外で昼寝する榎木津と益田」でした。ありがとうございました。
Web拍手お返事です。ありがとうございます。
>シロ様
こんにちは!その節は急なお話にもかかわらずお付き合い頂きましてありがとうございました。
シロ様と益田の話が出来た嬉しさのあまり物凄く朝までお付き合いさせてしまい、申し訳ない気持ちもあります。自重出来ずすみませんでした。
4月4日のマスカマチャットも、ご都合に合わせて遊びに来てやってください。
行き急ぐ更新速度にはお暇な時にでも付き合っていただければ嬉しいです。
リクエストもありがとうございます!承りました。ワタシガンバル。
エチオピヤ人かわいいですよね!
>3月25日 1:19の方
『4.天上に咲く~』へのご感想ありがとうございます。
蓮華草が食べられることはwikipedia先生に聞きました。おひたしにしたりするそうです。
余った惣菜は益田が京極堂におすそ分けに行けば良いと思っています。
榎木津が悪い意味でトレンディですみません…。頭がお花畑なのは私です。
リクエスト了解致しました。書いた事のない題材なので今から緊張しますが、鋭意努力します。ありがとうございました。
叩いてくださった方も、ありがとうございました。
返信不要の方もありがとうございます!榎木津→益田(→榎木津)の永久機関が好きです。
益田文50本達成しました(現在拍手にある文章を含めたら51本だってさっき気づきました…)リクエスト企画は今日いっぱい受付中です。もっともっとー!@JAM
小説でリクエストとか扱いに困る企画をやってすみませんでした。日頃の感謝をお返しする方法が他に思いつかなくて…。
頂いたリクエストを並べてニコニコする作業に戻ります。見てるだけで嬉しいです。皆様の発想力に脱帽。
感謝の企画の筈が、またエネルギーを頂いてしまいました。
>シロ様
こんにちは!その節は急なお話にもかかわらずお付き合い頂きましてありがとうございました。
シロ様と益田の話が出来た嬉しさのあまり物凄く朝までお付き合いさせてしまい、申し訳ない気持ちもあります。自重出来ずすみませんでした。
4月4日のマスカマチャットも、ご都合に合わせて遊びに来てやってください。
行き急ぐ更新速度にはお暇な時にでも付き合っていただければ嬉しいです。
リクエストもありがとうございます!承りました。ワタシガンバル。
エチオピヤ人かわいいですよね!
>3月25日 1:19の方
『4.天上に咲く~』へのご感想ありがとうございます。
蓮華草が食べられることはwikipedia先生に聞きました。おひたしにしたりするそうです。
余った惣菜は益田が京極堂におすそ分けに行けば良いと思っています。
榎木津が悪い意味でトレンディですみません…。頭がお花畑なのは私です。
リクエスト了解致しました。書いた事のない題材なので今から緊張しますが、鋭意努力します。ありがとうございました。
叩いてくださった方も、ありがとうございました。
返信不要の方もありがとうございます!榎木津→益田(→榎木津)の永久機関が好きです。
益田文50本達成しました(現在拍手にある文章を含めたら51本だってさっき気づきました…)リクエスト企画は今日いっぱい受付中です。もっともっとー!@JAM
小説でリクエストとか扱いに困る企画をやってすみませんでした。日頃の感謝をお返しする方法が他に思いつかなくて…。
頂いたリクエストを並べてニコニコする作業に戻ります。見てるだけで嬉しいです。皆様の発想力に脱帽。
感謝の企画の筈が、またエネルギーを頂いてしまいました。
『2.命の熱』の続きです。未読の方は、先ずそちらからお願い致します。