『1.結婚適齢期』の続きです。未読の方はそちらからお願い致します。
「あのう」
薔薇の意匠を施したカップに唇を寄せたまま、榎木津は目だけで声のする方を見やった。長い前髪の間からこちらを伺う2つの瞳。その手は胸の前で組み合わされていて、嗚呼また下僕が下らない事を云うのだとすぐに解った。
「なぁに」
「結婚するぞ、って何ですか」
榎木津はガチャリと音がする程乱暴に、カップをソーサーに置いた。幾分か冷めた紅茶が波を打って零れる。申し訳なさげに放たれた質問は榎木津の予想通り、否、予想以上に下らなかった。
「―――マスヤマ、何時の話をしてるんだ?」
丁度益田が立っている辺りで、彼の尖った鼻先に顔を近づけ、面食らった所に「結婚するぞ」と云ってやったのは、昨日の朝の話だ。
「第一何ですかってどういうことだ。お前ハイって云ったじゃないか」
「いやあの時はそう云ったんですけど、榎木津さんががぶり寄りで来たもんですから僕ぁもう吃驚しちゃって、つい」
「人生の一大事に『つい』たぁ、益田君絶対女の子にモテないだろう」
いつの間にか現れた和寅が、ソーサーに溜まった紅茶を拭き取りながら云う。話題の中心となっている電撃的な出来事の時も彼は背景に溶け込むように其処に居て、一部始終を見守っていたのだ。
益田が思いのほか元気良く「ハイ!」と答えた途端、榎木津はならば良し、と笑って、気が済んだのか何事も無かったかのように探偵机に腰掛けた。益田も首を傾げながら仕事に戻る。眉間に軽い皺を寄せてはいるが特に動揺の様子も見せない彼を見て、すっかり榎木津に慣らされた物だと感心すらしたものを。
本来ならば其の日に見られるべきだった光景が、一昼夜を越えて今繰り広げられている。榎木津は片肘をついたままで、益田を見上げた。鳶色の瞳に見据えられ、背が引き攣る。
「と、とにかく。悪い冗談ですよう。今度は何の遊びなんですかもう」
「冗談?遊び?」
子供のような鸚鵡返し。益田は長く垂れた前髪の先を指先で捏ねた。
「幾ら最初に僕を見てなかったからって、まさかまだ僕を女性だと思ってる訳じゃないでしょう」
「そんなもん見れば解るぞ、カマオロカ」
「カマでもないです、歴とした男です。僕だって榎木津さんが男だって事くらい見て知ってますからね」
「そんな当たり前の事もいちいち確認しないと解らないのかお前は、見下げたオロカだな。これ以上見下げたらこのビル突き抜けてブラジルまで行っちゃうぞ」
「ですからもう、からかわないでくださいっ!」
じだんだを踏んだ右足が思いのほか大きな音を立てたので、益田は一瞬たじろいだものの、勢い任せに顔を上げる。わあ、と声を上げた榎木津の楽しげな微笑が、何だか妙に癇に障って。
「結婚ごっこがなさりたいなら、余所のお嬢さんとでもやってください!」
気づけば叫んでしまっていた。自分で出した声が、耳の奥でわあんと響く。頭に血が昇った所為かも知れなかった。
しんと静まったフロアで、ぽつりと「…あーあ」と云う溜息だけが聞こえ、益田ははっとした。和寅の声だ。意識の外にあった景色が一気に戻ってくる。其処にあったのは相変わらずの姿勢で自分を見上げている神だった。天板に肘をつき、白い掌で顎を支えている。端正な貌に嵌め込まれた瞳に映った益田の顔が、狼狽に歪んだ。彼が見ているものは、蝋人形よりもまだ冷たい、氷像のような表情。
針の如く尖った睫を瞬かせ、榎木津は視線を動かさぬまま、口元だけで「そう」と云った。そして傀儡子に引き立てられる操り人形を思わせるゆらりとした動きで立ち上がる。
「な、なんですよ」
「―――お前なんか男でも、女でも、どうでもいいよ」
そんな乾いた台詞だけを残して、榎木津は益田の脇をすり抜けた。交わす動きはゆっくりとして、優雅とも云えた。フロアを横切る足取りからは何の感情も伺えない。怒りも、失望も、本当に益田を「どうでもいい」と思っているのかすらも。外へ通じるドアに吸い込まれていくその背を、益田はただ見送っていた。驚くほど静かに鳴るカウベルに交じって、榎木津の声が耳に届く。
「もういいよ、婚約解消」
声は、そう云っていた気がした。
未練がましく揺れていたベルが静まると、薔薇十字探偵社に沈黙が戻る。和寅が歩を進め、凍りついた背中に声をかけた。
「益田君や」
「は…ははは。もう困っちゃいますよねェ、婚約解消ですって。最初から婚約なんかしてないって云うんですよ」
頬が引き攣っているのが自分でも解っていたが、益田は乾いた笑いを止める事が出来なかった。和寅が珍しく怪訝そうな顔をして益田を見上げている。掌に帯びた汗が冷えてきて、上滑りする笑いを溢したまま、益田はズボンで其れを拭った。
ねぇ、と誰に同意を求めるでもなく呟いて、先程まで神が座っていた場所を眺める。遮る影が無くなった天板もカップも日光を浴びて明るく照っていたが、何処かくすんでいるように見えた。
(マスヤマ、結婚するぞ!)
(お前なんか、男でも、女でも、どうでもいいよ)
同じ場所で見て聞いた2つの言葉が、交互に益田の脳を揺さぶってくる。振動は神経を伝わって、気がつけば益田は弱弱しいカウベルの音を背中で聴いていた。
階段を降りて見渡した街並には、当然ながら榎木津の姿は既に無い。益田は当て所なく歩を進めた。行き先は勿論の事、榎木津を探したいのか、榎木津から逃れたいのか、それすらも解らなかった。
「―――榎木津さん」
呟いた声に答える者は無く、益田はただ、足元に伸びている道ばかりを見ていた。
そうして辿り着いた場所で、益田はさわさわという葉ずれの音を聴いた。
竹薮に取り巻かれた蕎麦屋の隣、「骨休め」の札が彼を招くように揺れている。
――――
続きました。ギャグなのかシリアスなのか解らない展開のまま、まだ続きます…。
薔薇の意匠を施したカップに唇を寄せたまま、榎木津は目だけで声のする方を見やった。長い前髪の間からこちらを伺う2つの瞳。その手は胸の前で組み合わされていて、嗚呼また下僕が下らない事を云うのだとすぐに解った。
「なぁに」
「結婚するぞ、って何ですか」
榎木津はガチャリと音がする程乱暴に、カップをソーサーに置いた。幾分か冷めた紅茶が波を打って零れる。申し訳なさげに放たれた質問は榎木津の予想通り、否、予想以上に下らなかった。
「―――マスヤマ、何時の話をしてるんだ?」
丁度益田が立っている辺りで、彼の尖った鼻先に顔を近づけ、面食らった所に「結婚するぞ」と云ってやったのは、昨日の朝の話だ。
「第一何ですかってどういうことだ。お前ハイって云ったじゃないか」
「いやあの時はそう云ったんですけど、榎木津さんががぶり寄りで来たもんですから僕ぁもう吃驚しちゃって、つい」
「人生の一大事に『つい』たぁ、益田君絶対女の子にモテないだろう」
いつの間にか現れた和寅が、ソーサーに溜まった紅茶を拭き取りながら云う。話題の中心となっている電撃的な出来事の時も彼は背景に溶け込むように其処に居て、一部始終を見守っていたのだ。
益田が思いのほか元気良く「ハイ!」と答えた途端、榎木津はならば良し、と笑って、気が済んだのか何事も無かったかのように探偵机に腰掛けた。益田も首を傾げながら仕事に戻る。眉間に軽い皺を寄せてはいるが特に動揺の様子も見せない彼を見て、すっかり榎木津に慣らされた物だと感心すらしたものを。
本来ならば其の日に見られるべきだった光景が、一昼夜を越えて今繰り広げられている。榎木津は片肘をついたままで、益田を見上げた。鳶色の瞳に見据えられ、背が引き攣る。
「と、とにかく。悪い冗談ですよう。今度は何の遊びなんですかもう」
「冗談?遊び?」
子供のような鸚鵡返し。益田は長く垂れた前髪の先を指先で捏ねた。
「幾ら最初に僕を見てなかったからって、まさかまだ僕を女性だと思ってる訳じゃないでしょう」
「そんなもん見れば解るぞ、カマオロカ」
「カマでもないです、歴とした男です。僕だって榎木津さんが男だって事くらい見て知ってますからね」
「そんな当たり前の事もいちいち確認しないと解らないのかお前は、見下げたオロカだな。これ以上見下げたらこのビル突き抜けてブラジルまで行っちゃうぞ」
「ですからもう、からかわないでくださいっ!」
じだんだを踏んだ右足が思いのほか大きな音を立てたので、益田は一瞬たじろいだものの、勢い任せに顔を上げる。わあ、と声を上げた榎木津の楽しげな微笑が、何だか妙に癇に障って。
「結婚ごっこがなさりたいなら、余所のお嬢さんとでもやってください!」
気づけば叫んでしまっていた。自分で出した声が、耳の奥でわあんと響く。頭に血が昇った所為かも知れなかった。
しんと静まったフロアで、ぽつりと「…あーあ」と云う溜息だけが聞こえ、益田ははっとした。和寅の声だ。意識の外にあった景色が一気に戻ってくる。其処にあったのは相変わらずの姿勢で自分を見上げている神だった。天板に肘をつき、白い掌で顎を支えている。端正な貌に嵌め込まれた瞳に映った益田の顔が、狼狽に歪んだ。彼が見ているものは、蝋人形よりもまだ冷たい、氷像のような表情。
針の如く尖った睫を瞬かせ、榎木津は視線を動かさぬまま、口元だけで「そう」と云った。そして傀儡子に引き立てられる操り人形を思わせるゆらりとした動きで立ち上がる。
「な、なんですよ」
「―――お前なんか男でも、女でも、どうでもいいよ」
そんな乾いた台詞だけを残して、榎木津は益田の脇をすり抜けた。交わす動きはゆっくりとして、優雅とも云えた。フロアを横切る足取りからは何の感情も伺えない。怒りも、失望も、本当に益田を「どうでもいい」と思っているのかすらも。外へ通じるドアに吸い込まれていくその背を、益田はただ見送っていた。驚くほど静かに鳴るカウベルに交じって、榎木津の声が耳に届く。
「もういいよ、婚約解消」
声は、そう云っていた気がした。
未練がましく揺れていたベルが静まると、薔薇十字探偵社に沈黙が戻る。和寅が歩を進め、凍りついた背中に声をかけた。
「益田君や」
「は…ははは。もう困っちゃいますよねェ、婚約解消ですって。最初から婚約なんかしてないって云うんですよ」
頬が引き攣っているのが自分でも解っていたが、益田は乾いた笑いを止める事が出来なかった。和寅が珍しく怪訝そうな顔をして益田を見上げている。掌に帯びた汗が冷えてきて、上滑りする笑いを溢したまま、益田はズボンで其れを拭った。
ねぇ、と誰に同意を求めるでもなく呟いて、先程まで神が座っていた場所を眺める。遮る影が無くなった天板もカップも日光を浴びて明るく照っていたが、何処かくすんでいるように見えた。
(マスヤマ、結婚するぞ!)
(お前なんか、男でも、女でも、どうでもいいよ)
同じ場所で見て聞いた2つの言葉が、交互に益田の脳を揺さぶってくる。振動は神経を伝わって、気がつけば益田は弱弱しいカウベルの音を背中で聴いていた。
階段を降りて見渡した街並には、当然ながら榎木津の姿は既に無い。益田は当て所なく歩を進めた。行き先は勿論の事、榎木津を探したいのか、榎木津から逃れたいのか、それすらも解らなかった。
「―――榎木津さん」
呟いた声に答える者は無く、益田はただ、足元に伸びている道ばかりを見ていた。
そうして辿り着いた場所で、益田はさわさわという葉ずれの音を聴いた。
竹薮に取り巻かれた蕎麦屋の隣、「骨休め」の札が彼を招くように揺れている。
お題提供:『BLUE TEARS』様
――――
続きました。ギャグなのかシリアスなのか解らない展開のまま、まだ続きます…。
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