『2.Marriage blue』の続きです。未読の方はそちらからお願い致します。
そっと覗き込んだ玄関には、揃えた下駄と女物の靴が並んでいるばかりで、益田はほっと息を吐いた。見慣れたサイズの革靴が無いだけで、益田の足はふらふらと座敷へと向かってしまう。
庭に出ると、靴を脱いだ爪先に外気が少し冷たい。縁側伝いに見える古書店主の横顔は相変わらず俯いており、手元は見えなくとも書物に向けられているのだと知れた。
「中禅寺さん、こんにちは」
中禅寺はちらりと目を上げたが、また直ぐに活字に目を落としてしまった。
「あれぇ」
「君がそんな顔で現れる時は、大方碌な話では無いからね」
「酷いですよう」
とは云え、拒まれている訳では無さそうだ。益田は座布団を取って尻の下に敷き、文机の前にぺたりと腰掛けた。招かれざる客を嫌ってか、飼い猫がするりと益田を避けて出て行く。
「碌な話でないだけならともかく、あの男の話だ。そうだろう?」
ぎくり、と肩をひくつかせ、反射的に益田は室内を見渡した。座敷は古書にぎっしりと埋め尽くされて、ほかに人影は無い。
「あの…榎木津さん居ませんよね?」
「居るように見えるかい」
なら良いんですが、と益田は胸を下ろした。榎木津から逃げたかった訳では無いと思うが、やはりまだ顔は合わせづらい。
しばらく益田は座り込んだままで本の頁が捲れる乾いた音だけを聞いていたが、ぽつりぽつりと口を開き始めた。中禅寺には子細を隠し立てしても仕方が無い。やぶれかぶれだ。その間も頭の奥では、榎木津が最後に残した言葉が響き続けていた。
一通り話し終え、沈黙が支配した室内に、中禅寺の「…ところで」という声が響いた。
「君は結婚など『出来ない』…そう云ったね」
「だ、だってそうでしょ。僕も榎木津さんも男ですよ」
「そうかな。今生では有り得ない事だろうが、君か榎木津のどちらかが女性だったとしても、君は同じ事を云うね。間違い無く」
栗色の髪を持つ深窓の令嬢に結婚を申し込まれる、うだつの上がらない男。
誰もが羨む美貌の男に結婚を申し込まれる、特筆すべきところのない女。
益田は想像だけして、溜息を吐いた。ぞっとしないことだが、どう頑張ってもやはり釣り合いが取れそうに無かった。
中禅寺が茶を啜る音がする。
「君が恐れているのは制度では無い、制度の所為にしているだけだ」
「うう…そうは云いましても」
「神と人間、或いは異形の者が結びつく異類婚姻譚なども幾らだって在る。聞きたいなら話してやろうか」
「いえ、結構です―――もう、なんとなく解ってますから」
益田は肩を竦め、猫のように背を丸めた。
其れ以外にも畏れる事は幾らもある。が―――結局のところ全ては同じところに帰結するのだ。益田は薄暗い場所からただ、光の中に立つその背を見ている。光の中に、と云うよりも、榎木津自身が白い光を放っているのだ。まばゆいまでのその場所に立たされたら、触れた場所から益田は溶けてしまいそうだった。溶けて消えてしまえるならばまだしも、身体を残したままに目が瞑れてしまい、一生その姿を見る事が出来なくなる。それだけは耐え難いことだった。
「僕ぁ、榎木津さんの隣に立てないんです。そんな事榎木津さんだってご存知の癖に、冗談でもなんでも、僕を連れ出そうとするから、つい、カッとなって」
「だが、君は来てしまった」
眩い光の粒を辿って。遠く遥かに見える、憧れを追って。足元が少し明るくなったところで安心して、足を止めたのが今の益田だ。
そうして榎木津は益田を視認する。薄暗がりの中から、眩しそうに自分を見ている。
其処が寒そうだったから、榎木津は手を伸ばした。此処は暖かいと。2人で居ればもっと暖かいのだと。
(マスヤマ、結婚するぞ!)
触れてきた掌は、いつでも暖かかったのに。
「榎木津さんは、僕なんかと居たって幸せになれないのに、どうして」
「幸せかどうかは本人が決めることだ。未来の事など誰にも解らない。現に君は榎木津のもとでしなくてもいい苦労を散々しているはずだが、探偵社を辞める心算があるかね?」
「僕は―――」
ぎゅ、と握り締めた拳に、柔らかな日差しが注ぐ。光の中に踏み出す覚悟。
「僕は、榎木津さんに、今よりもっと幸せになってほしいんです」
彼はそうなるべき人間だ。誰よりも、光の中に居るべき人間だ。益田はそう思っている。
「そのために僕に出来る事があるなら、僕は、何だってしたいんです。それだけは、確かなんです」
中禅寺は答えなかった。紙が触れ合う音も止み、ただ座敷の中を、重い静寂が包んでいた。固く身を固めた益田の耳に、くしゃん、と慣れた声が届き、飛び上がる。ばっと顔を上げれば、一度も開けられることのなかった障子の白さが目についた。
「―――だとさ、榎さん」
益田の前で、すらり、と障子が開かれる。靴下に覆われた爪先が、不穏当に長い脚が、しなやかな背が、栗色の髪が、顕わになっていった。今や完全に開け放たれた襖の向こうに、背を向けて横たわる榎木津が居る。
「え、榎木津さん」
「責任」
むくりと身を起こした榎木津が、不機嫌そうに半分目を閉じたままでぽいぽいと何か投げてきた。とっさに交わした一つは益田の頭上をすり抜けて、もう一つは腹に当たる。思いのほか重い一撃に、「うっ」と声が漏れた。しかも益田の背後でばさばさと音がして、中禅寺の眉間に刻まれた皺が一層深くなる。拾い上げてみれば、其れは玄関に無かった榎木津の靴であった。
「こんな板の間で寝かされて、最初は日向ぼっこで良かったけど、お前が何時までも来ないからすごぉく寒かった。来てからもうじうじうじうじするばっかりで全然話に入らない!責任取れ!」
「えええ、なんでそんな事…僕が来ないかも知れないじゃないですか」
発条仕掛けの人形のように跳ね上がった榎木津が、益田に歩み寄る。座り込んだままの益田を見下ろして、にやりと笑った。
「でも、来たじゃないか」
涼しさの中に春の温もりを含んだ風が、柔らかな栗毛と水のような黒髪を弄る。薄茶の瞳の中心で光を集める瞳孔に、益田までも吸い込まれそうになる。気がつけば、自然に差し出されたその手を取っていた。
「責任、取ります」
「結婚しないって云った癖に」
「いや結婚は出来るか解りませんが、幸せにしま……出来ますかね?僕に」
またへらへらと笑ってしまった益田の脇腹に榎木津の爪先が食い込んで、気づけば畳に転がされていた。そうでも無ければ、また中禅寺が怜悧な視線を向けていなければ、今にも白いその手の甲に口付けてしまいそうだった。
できちゃったのは覚悟。次回は結婚式です。
庭に出ると、靴を脱いだ爪先に外気が少し冷たい。縁側伝いに見える古書店主の横顔は相変わらず俯いており、手元は見えなくとも書物に向けられているのだと知れた。
「中禅寺さん、こんにちは」
中禅寺はちらりと目を上げたが、また直ぐに活字に目を落としてしまった。
「あれぇ」
「君がそんな顔で現れる時は、大方碌な話では無いからね」
「酷いですよう」
とは云え、拒まれている訳では無さそうだ。益田は座布団を取って尻の下に敷き、文机の前にぺたりと腰掛けた。招かれざる客を嫌ってか、飼い猫がするりと益田を避けて出て行く。
「碌な話でないだけならともかく、あの男の話だ。そうだろう?」
ぎくり、と肩をひくつかせ、反射的に益田は室内を見渡した。座敷は古書にぎっしりと埋め尽くされて、ほかに人影は無い。
「あの…榎木津さん居ませんよね?」
「居るように見えるかい」
なら良いんですが、と益田は胸を下ろした。榎木津から逃げたかった訳では無いと思うが、やはりまだ顔は合わせづらい。
しばらく益田は座り込んだままで本の頁が捲れる乾いた音だけを聞いていたが、ぽつりぽつりと口を開き始めた。中禅寺には子細を隠し立てしても仕方が無い。やぶれかぶれだ。その間も頭の奥では、榎木津が最後に残した言葉が響き続けていた。
一通り話し終え、沈黙が支配した室内に、中禅寺の「…ところで」という声が響いた。
「君は結婚など『出来ない』…そう云ったね」
「だ、だってそうでしょ。僕も榎木津さんも男ですよ」
「そうかな。今生では有り得ない事だろうが、君か榎木津のどちらかが女性だったとしても、君は同じ事を云うね。間違い無く」
栗色の髪を持つ深窓の令嬢に結婚を申し込まれる、うだつの上がらない男。
誰もが羨む美貌の男に結婚を申し込まれる、特筆すべきところのない女。
益田は想像だけして、溜息を吐いた。ぞっとしないことだが、どう頑張ってもやはり釣り合いが取れそうに無かった。
中禅寺が茶を啜る音がする。
「君が恐れているのは制度では無い、制度の所為にしているだけだ」
「うう…そうは云いましても」
「神と人間、或いは異形の者が結びつく異類婚姻譚なども幾らだって在る。聞きたいなら話してやろうか」
「いえ、結構です―――もう、なんとなく解ってますから」
益田は肩を竦め、猫のように背を丸めた。
其れ以外にも畏れる事は幾らもある。が―――結局のところ全ては同じところに帰結するのだ。益田は薄暗い場所からただ、光の中に立つその背を見ている。光の中に、と云うよりも、榎木津自身が白い光を放っているのだ。まばゆいまでのその場所に立たされたら、触れた場所から益田は溶けてしまいそうだった。溶けて消えてしまえるならばまだしも、身体を残したままに目が瞑れてしまい、一生その姿を見る事が出来なくなる。それだけは耐え難いことだった。
「僕ぁ、榎木津さんの隣に立てないんです。そんな事榎木津さんだってご存知の癖に、冗談でもなんでも、僕を連れ出そうとするから、つい、カッとなって」
「だが、君は来てしまった」
眩い光の粒を辿って。遠く遥かに見える、憧れを追って。足元が少し明るくなったところで安心して、足を止めたのが今の益田だ。
そうして榎木津は益田を視認する。薄暗がりの中から、眩しそうに自分を見ている。
其処が寒そうだったから、榎木津は手を伸ばした。此処は暖かいと。2人で居ればもっと暖かいのだと。
(マスヤマ、結婚するぞ!)
触れてきた掌は、いつでも暖かかったのに。
「榎木津さんは、僕なんかと居たって幸せになれないのに、どうして」
「幸せかどうかは本人が決めることだ。未来の事など誰にも解らない。現に君は榎木津のもとでしなくてもいい苦労を散々しているはずだが、探偵社を辞める心算があるかね?」
「僕は―――」
ぎゅ、と握り締めた拳に、柔らかな日差しが注ぐ。光の中に踏み出す覚悟。
「僕は、榎木津さんに、今よりもっと幸せになってほしいんです」
彼はそうなるべき人間だ。誰よりも、光の中に居るべき人間だ。益田はそう思っている。
「そのために僕に出来る事があるなら、僕は、何だってしたいんです。それだけは、確かなんです」
中禅寺は答えなかった。紙が触れ合う音も止み、ただ座敷の中を、重い静寂が包んでいた。固く身を固めた益田の耳に、くしゃん、と慣れた声が届き、飛び上がる。ばっと顔を上げれば、一度も開けられることのなかった障子の白さが目についた。
「―――だとさ、榎さん」
益田の前で、すらり、と障子が開かれる。靴下に覆われた爪先が、不穏当に長い脚が、しなやかな背が、栗色の髪が、顕わになっていった。今や完全に開け放たれた襖の向こうに、背を向けて横たわる榎木津が居る。
「え、榎木津さん」
「責任」
むくりと身を起こした榎木津が、不機嫌そうに半分目を閉じたままでぽいぽいと何か投げてきた。とっさに交わした一つは益田の頭上をすり抜けて、もう一つは腹に当たる。思いのほか重い一撃に、「うっ」と声が漏れた。しかも益田の背後でばさばさと音がして、中禅寺の眉間に刻まれた皺が一層深くなる。拾い上げてみれば、其れは玄関に無かった榎木津の靴であった。
「こんな板の間で寝かされて、最初は日向ぼっこで良かったけど、お前が何時までも来ないからすごぉく寒かった。来てからもうじうじうじうじするばっかりで全然話に入らない!責任取れ!」
「えええ、なんでそんな事…僕が来ないかも知れないじゃないですか」
発条仕掛けの人形のように跳ね上がった榎木津が、益田に歩み寄る。座り込んだままの益田を見下ろして、にやりと笑った。
「でも、来たじゃないか」
涼しさの中に春の温もりを含んだ風が、柔らかな栗毛と水のような黒髪を弄る。薄茶の瞳の中心で光を集める瞳孔に、益田までも吸い込まれそうになる。気がつけば、自然に差し出されたその手を取っていた。
「責任、取ります」
「結婚しないって云った癖に」
「いや結婚は出来るか解りませんが、幸せにしま……出来ますかね?僕に」
またへらへらと笑ってしまった益田の脇腹に榎木津の爪先が食い込んで、気づけば畳に転がされていた。そうでも無ければ、また中禅寺が怜悧な視線を向けていなければ、今にも白いその手の甲に口付けてしまいそうだった。
お題提供:『BLUE TEARS』様
――――できちゃったのは覚悟。次回は結婚式です。
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