適度な睡眠と適度な食事、それらが安心して摂取できる住処。日々の糧を得るための職場。そこでの憂さを晴らしてくれる数人の友人。世界の中心を支えるあの人の影。其れさえあれば。
「なんですかこれ」
「見て判らないのか、ケーキだ。ケ・エ・キ」
何の用かは知らないが不承不承実家に帰っていた榎木津が戻った午後、薔薇十字探偵社の一角は甘い香りに満たされた。
こってりと塗られた雪のように白いクリーム、ふりかけられた粉砂糖はさらに白い。円く大きな土台の天辺にぐるりと王冠のように戴く赤い苺は、まだ濡れているような瑞々しさだ。
見るからに繊細そうなこの菓子を壊すことなく榎木津が持ち帰っただけでも、益田には奇跡のように思えた。
心なしか恭しい手つきで紅茶を淹れた和寅が、傷ひとつない表面にせっせとナイフを入れている。
「お土産に持たせて下さったそうで」
子供の使いじゃないんだと榎木津は不機嫌そうだったが、ふわふわのスポンジ台の隙間から赤い苺の断面が顔を出した時は手を叩いて喜んだ。
真っ白な皿に、倒れてしまわぬようにそっと盛り付ける。
「なかなか庶民の口には入らん高級品ですぜ、私ゃ値段を聞いて腰が抜けるかと思いました」
いやはや、と軽く首を振った和寅は自分の分の皿を持って立ち上がった。
「此処で一緒に食べればいいじゃないですか」
「こんなものお喋りしながら食べたらバチが当たる、自分の部屋でゆっくり頂きますよ」
では先生、ごゆっくり。
そう言い残して和寅は自室へと消えていった。後には探偵机につく榎木津と、ソファに腰掛けた益田、切り分けられたケーキが残される。
ちらりと様子を伺うと、榎木津は既にさくさくとケーキをフォークで切り出していた。益田も「いただきます」と手を合わせ、新雪のようなクリームに手をつける。最初は抵抗無く突き刺さったが、スポンジの弾力が心地よい抵抗を益田の手に伝えてきた。
ケーキは美味だった。上品な甘さと、遅れてやってくる苺の酸味が交じり合って疲労した身体にじんわり広がる。クリームはこってりしているかと思ったがそれは一瞬のことで、呆気ないほどさらりと溶けて快い余韻だけが残る。ぼそぼそした菓子を嫌う榎木津の為にか、スポンジにはシロップが染み込んでいた。予想を裏切る滑らかな舌触りにしばし陶然となる。
暖かな紅茶を口に含めば、知らず柔らかな吐息が胸の底から零れた。
「美味しい」
適度な食事に加え、こういうのも偶には悪くない。悪くない所か、大歓迎だ。
(榎木津さんもおとなしいし)
ふと探偵机に目をやれば、榎木津はケーキを食べるのを止めていた。頬杖をついて、こちらを見ている。逆光ではっきりと顔は見えないが、どうも益田を見ているらしかった。
「? 榎木津さん…?」
目が合った――と思う――ところで首がこきりと傾いて、「旨いか」と問いかけてきた。
「え。ええ、旨いですよ。流石ですね、いつもこんないいもの食べてるんですか」
「もっと食べるといい」
予想外の発言に、益田は紅茶を噴き出しそうになった。食べるなと言われることはあるかと思ったが。
「ええっ、結構ですよ。榎木津さんのお土産じゃないですか」
「そうだぼくの土産だ。だからぼくが良いと思ったように使う!」
颯爽と立ち上がり、すたすたと歩き出したかと思えば益田の真横に腰掛けた。その手には半分ほど残ったカットケーキが乗った皿がある。苺は先に食べてしまったのか、残っていなかった。
優雅ではあるが何処か性急な手つきで、榎木津のフォークがスポンジを切り取った。それがぬっと口元に差し出され、益田は仰け反った。
「ホラ、食べなさい」
「ええぇ!?」
二度吃驚。
蟲惑的な香りが鼻腔を擽るが、益田はそれ処ではなかった。単純に意味が判らない。気まぐれにしても、度が過ぎている。油断して口に入れた瞬間、鋭利な先端で喉を一突きにされるのではないかとすら思った。
「いいですいいです、結構です。僕ぁこういったものは食べつけなくて、胃がもたれるというか」
「良く言う」
榎木津らしからぬ平板な声にはっとした。金属の柄に似た光が、榎木津の瞳から放たれている。
「あんな顔をしておいて」
笑みの失せた顔は、益田の抵抗力を削ぎ落とす。
「そんな」
物欲しそうな眼でもしていたというのか。誰が?僕が?
……まさか。
眼前に突きつけられた銀の食器は、益田の心臓を貫く槍のようで。
益田は言葉を忘れたように、それでも首をひたすら横に振った。
その顎を取られる。顎骨に直に伝わる指の感触が痛いほどだ。
思わず戦慄いた唇に、しっとりしたクリームが触れる。
「ぼくが、くれてやると言っているんだ!」
半ば無理やりに口内に含まされた。
舌の上に感じるフォークの冷たさと、柔らかなスポンジのコントラストに、頭が眩む。砂糖の味の奥から湧き上がる、焼け付くような甘さ。
上目遣いで見上げた榎木津の顔は、まるで溶かすような熱を含んでいて。見てはいけないものを見たと思いながらも、益田は眼を逸らすことが出来なかった。
勘違いしてしまいそうだ。
現状で満足しているなんて、全くの嘘なのだと。
貴方が僕を、――――――なのだと。
ケーキの欠片を飲み込んだ後も、どうしたものか判らず銀食器を咥えたままの益田に榎木津の声がかかる。
「マスヤマ」
「うぐ、ふぁい」
「お前外でケーキ食べるな。食べるなら此処にしなさい」
「ええっ!?」
無茶苦茶な命令を下す榎木津はいつものように笑っているので、益田はまた何も判らなくなった。
――――
甘いものは別腹。
王道BL展開に挑戦→そして失敗を繰り返すブログです。
「なんですかこれ」
「見て判らないのか、ケーキだ。ケ・エ・キ」
何の用かは知らないが不承不承実家に帰っていた榎木津が戻った午後、薔薇十字探偵社の一角は甘い香りに満たされた。
こってりと塗られた雪のように白いクリーム、ふりかけられた粉砂糖はさらに白い。円く大きな土台の天辺にぐるりと王冠のように戴く赤い苺は、まだ濡れているような瑞々しさだ。
見るからに繊細そうなこの菓子を壊すことなく榎木津が持ち帰っただけでも、益田には奇跡のように思えた。
心なしか恭しい手つきで紅茶を淹れた和寅が、傷ひとつない表面にせっせとナイフを入れている。
「お土産に持たせて下さったそうで」
子供の使いじゃないんだと榎木津は不機嫌そうだったが、ふわふわのスポンジ台の隙間から赤い苺の断面が顔を出した時は手を叩いて喜んだ。
真っ白な皿に、倒れてしまわぬようにそっと盛り付ける。
「なかなか庶民の口には入らん高級品ですぜ、私ゃ値段を聞いて腰が抜けるかと思いました」
いやはや、と軽く首を振った和寅は自分の分の皿を持って立ち上がった。
「此処で一緒に食べればいいじゃないですか」
「こんなものお喋りしながら食べたらバチが当たる、自分の部屋でゆっくり頂きますよ」
では先生、ごゆっくり。
そう言い残して和寅は自室へと消えていった。後には探偵机につく榎木津と、ソファに腰掛けた益田、切り分けられたケーキが残される。
ちらりと様子を伺うと、榎木津は既にさくさくとケーキをフォークで切り出していた。益田も「いただきます」と手を合わせ、新雪のようなクリームに手をつける。最初は抵抗無く突き刺さったが、スポンジの弾力が心地よい抵抗を益田の手に伝えてきた。
ケーキは美味だった。上品な甘さと、遅れてやってくる苺の酸味が交じり合って疲労した身体にじんわり広がる。クリームはこってりしているかと思ったがそれは一瞬のことで、呆気ないほどさらりと溶けて快い余韻だけが残る。ぼそぼそした菓子を嫌う榎木津の為にか、スポンジにはシロップが染み込んでいた。予想を裏切る滑らかな舌触りにしばし陶然となる。
暖かな紅茶を口に含めば、知らず柔らかな吐息が胸の底から零れた。
「美味しい」
適度な食事に加え、こういうのも偶には悪くない。悪くない所か、大歓迎だ。
(榎木津さんもおとなしいし)
ふと探偵机に目をやれば、榎木津はケーキを食べるのを止めていた。頬杖をついて、こちらを見ている。逆光ではっきりと顔は見えないが、どうも益田を見ているらしかった。
「? 榎木津さん…?」
目が合った――と思う――ところで首がこきりと傾いて、「旨いか」と問いかけてきた。
「え。ええ、旨いですよ。流石ですね、いつもこんないいもの食べてるんですか」
「もっと食べるといい」
予想外の発言に、益田は紅茶を噴き出しそうになった。食べるなと言われることはあるかと思ったが。
「ええっ、結構ですよ。榎木津さんのお土産じゃないですか」
「そうだぼくの土産だ。だからぼくが良いと思ったように使う!」
颯爽と立ち上がり、すたすたと歩き出したかと思えば益田の真横に腰掛けた。その手には半分ほど残ったカットケーキが乗った皿がある。苺は先に食べてしまったのか、残っていなかった。
優雅ではあるが何処か性急な手つきで、榎木津のフォークがスポンジを切り取った。それがぬっと口元に差し出され、益田は仰け反った。
「ホラ、食べなさい」
「ええぇ!?」
二度吃驚。
蟲惑的な香りが鼻腔を擽るが、益田はそれ処ではなかった。単純に意味が判らない。気まぐれにしても、度が過ぎている。油断して口に入れた瞬間、鋭利な先端で喉を一突きにされるのではないかとすら思った。
「いいですいいです、結構です。僕ぁこういったものは食べつけなくて、胃がもたれるというか」
「良く言う」
榎木津らしからぬ平板な声にはっとした。金属の柄に似た光が、榎木津の瞳から放たれている。
「あんな顔をしておいて」
笑みの失せた顔は、益田の抵抗力を削ぎ落とす。
「そんな」
物欲しそうな眼でもしていたというのか。誰が?僕が?
……まさか。
眼前に突きつけられた銀の食器は、益田の心臓を貫く槍のようで。
益田は言葉を忘れたように、それでも首をひたすら横に振った。
その顎を取られる。顎骨に直に伝わる指の感触が痛いほどだ。
思わず戦慄いた唇に、しっとりしたクリームが触れる。
「ぼくが、くれてやると言っているんだ!」
半ば無理やりに口内に含まされた。
舌の上に感じるフォークの冷たさと、柔らかなスポンジのコントラストに、頭が眩む。砂糖の味の奥から湧き上がる、焼け付くような甘さ。
上目遣いで見上げた榎木津の顔は、まるで溶かすような熱を含んでいて。見てはいけないものを見たと思いながらも、益田は眼を逸らすことが出来なかった。
勘違いしてしまいそうだ。
現状で満足しているなんて、全くの嘘なのだと。
貴方が僕を、――――――なのだと。
ケーキの欠片を飲み込んだ後も、どうしたものか判らず銀食器を咥えたままの益田に榎木津の声がかかる。
「マスヤマ」
「うぐ、ふぁい」
「お前外でケーキ食べるな。食べるなら此処にしなさい」
「ええっ!?」
無茶苦茶な命令を下す榎木津はいつものように笑っているので、益田はまた何も判らなくなった。
――――
甘いものは別腹。
王道BL展開に挑戦→そして失敗を繰り返すブログです。
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