とっくに煩悩を打ち払う鐘の音も静まり、残響すらも闇に溶けた刻限。
薔薇十字探偵社にはモダンな内装に似合わぬ量の酒瓶やら空の皿が転がっている。
更には、申し訳程度に毛布を被せられた2つの影。
1つは何の前触れも無くカッと双眸を見開いたかと思うと、飛び上がるようにして――否、彼は正しく飛び上がっていた――立ち上がる。眠りを守る用を失った毛布がずるりと滑り、長い脚が邪魔だと云わんばかりに其れを蹴り上げる。
「初日の出だッ!!」
朗々とした声は、冷えた夜気と闇に広がってふっと消えた。答える者は無い。
榎木津は酒瓶を蹴散らしつつ、手探りで電気を点した。日の出よりもずっと白く人工的な光が室内を照らす。
姿の見えない和寅は、私室で眠っているのだろう。本家に戻り損ねる程の激務から束の間開放されて。
榎木津が目を止めたのは、ソファの上で飲みかけの杯も其のままに力尽きている下僕の方だった。
やや緩んだ襟元を掴み、遠慮会釈無く揺さぶってやる。頭ががくがくと揺れ、長い髪が踊った。
「そぅらマスヤマ起きろ!神の目覚めだ!ご来光だぞ!」
「う、うう」
反射のような、単純に苦悶のような声が上がったのを確かめ、榎木津はぱっと手を放す。抵抗無く落ちた益田の頭が肘掛にぶつかって、ごつりと重い音を立てた。馬乗りになったままで、じっと下僕の様子を確かめる。鳶色の瞳が、薄い瞼が震えるのを注視している。
今にも開かれるかと思われた瞳の代わりに、唇がむにゃむにゃと不明瞭な言葉を呟き、そして。
「―――え、のきづ、さぁん……」
思いのほかはっきりと聞こえた声に面食らっている榎木津の目の前で、益田の表情が緩む。眉からも瞼からもふっと力が抜け、口元をぽかりと開いて。
締まりの無い、緩みきった、だらしの無い―――なんの憂いも無さそうな貌。
「…………」
榎木津は暫く其れを眺めていたが、やがて自分の顎に指先をやって、何にとも無く頷いた。
■
橙色に包み込まれ何処か神聖な気配漂う景色の中、百年の眠りを妨げられたような不機嫌面をした中禅寺が立っている。
大きすぎる「荷物」を抱えた早すぎる来客を前に、機嫌良く微笑む方が無理というものだ。
「うはははは!初日の出だぞ!」
「ああまぁ其れは良いんですがね――「其れ」はどうした事だね?お年賀にしては巨大すぎるように見えるのだが」
骨ばった指先が示した物は、榎木津の右肩に引っかかっている。毛布で簀巻きにされて、丈が足りない分飛び出した足先には靴すら履かされていない。
榎木津は無抵抗な身体を抱えなおすと、赤子を見せる時のようにずいと益田の顔を差し出す。
「叩き起こして車を出させる予定だったが、どうも凄ォく楽しい夢を見てるらしい。見たまえ、此のだらんとした下僕面を」
「あまり元旦の朝から見たい物では無いね。――結局自分で運転して来たんだろう?益田君は置いてくれば良かったものを」
「折角楽しい夢を見てるのに、起きたら全部幻じゃあ気の毒だろう。寝ても覚めても神が居ると云うのが僕からのお年玉だ!」
「其れは其れは……」
「どうだ羨ましかろう。あげないよ。うふふふふ」
仏頂面の中禅寺を差し置いて、榎木津だけが、さも機嫌が良さそうに益田の頬を突いている。
薄い眉は其の都度迷惑そうに歪んだが、直ぐにへなりと幸せそうな顔に戻ってしまう。幾度か繰り返して見せると、榎木津は何故か自慢げに笑って見せた。
数時間後。
京極堂の座敷で目を覚ました益田は、はて自分は探偵事務所で酔いつぶれていたのではと思い、余程変な夢を見ているような気分にさせられたと云う。
―――
除夜の鐘も初日の出も初夢も遅刻ですが、マスヤマの幸せは365日有効なので問題ありません。
薔薇十字探偵社にはモダンな内装に似合わぬ量の酒瓶やら空の皿が転がっている。
更には、申し訳程度に毛布を被せられた2つの影。
1つは何の前触れも無くカッと双眸を見開いたかと思うと、飛び上がるようにして――否、彼は正しく飛び上がっていた――立ち上がる。眠りを守る用を失った毛布がずるりと滑り、長い脚が邪魔だと云わんばかりに其れを蹴り上げる。
「初日の出だッ!!」
朗々とした声は、冷えた夜気と闇に広がってふっと消えた。答える者は無い。
榎木津は酒瓶を蹴散らしつつ、手探りで電気を点した。日の出よりもずっと白く人工的な光が室内を照らす。
姿の見えない和寅は、私室で眠っているのだろう。本家に戻り損ねる程の激務から束の間開放されて。
榎木津が目を止めたのは、ソファの上で飲みかけの杯も其のままに力尽きている下僕の方だった。
やや緩んだ襟元を掴み、遠慮会釈無く揺さぶってやる。頭ががくがくと揺れ、長い髪が踊った。
「そぅらマスヤマ起きろ!神の目覚めだ!ご来光だぞ!」
「う、うう」
反射のような、単純に苦悶のような声が上がったのを確かめ、榎木津はぱっと手を放す。抵抗無く落ちた益田の頭が肘掛にぶつかって、ごつりと重い音を立てた。馬乗りになったままで、じっと下僕の様子を確かめる。鳶色の瞳が、薄い瞼が震えるのを注視している。
今にも開かれるかと思われた瞳の代わりに、唇がむにゃむにゃと不明瞭な言葉を呟き、そして。
「―――え、のきづ、さぁん……」
思いのほかはっきりと聞こえた声に面食らっている榎木津の目の前で、益田の表情が緩む。眉からも瞼からもふっと力が抜け、口元をぽかりと開いて。
締まりの無い、緩みきった、だらしの無い―――なんの憂いも無さそうな貌。
「…………」
榎木津は暫く其れを眺めていたが、やがて自分の顎に指先をやって、何にとも無く頷いた。
■
橙色に包み込まれ何処か神聖な気配漂う景色の中、百年の眠りを妨げられたような不機嫌面をした中禅寺が立っている。
大きすぎる「荷物」を抱えた早すぎる来客を前に、機嫌良く微笑む方が無理というものだ。
「うはははは!初日の出だぞ!」
「ああまぁ其れは良いんですがね――「其れ」はどうした事だね?お年賀にしては巨大すぎるように見えるのだが」
骨ばった指先が示した物は、榎木津の右肩に引っかかっている。毛布で簀巻きにされて、丈が足りない分飛び出した足先には靴すら履かされていない。
榎木津は無抵抗な身体を抱えなおすと、赤子を見せる時のようにずいと益田の顔を差し出す。
「叩き起こして車を出させる予定だったが、どうも凄ォく楽しい夢を見てるらしい。見たまえ、此のだらんとした下僕面を」
「あまり元旦の朝から見たい物では無いね。――結局自分で運転して来たんだろう?益田君は置いてくれば良かったものを」
「折角楽しい夢を見てるのに、起きたら全部幻じゃあ気の毒だろう。寝ても覚めても神が居ると云うのが僕からのお年玉だ!」
「其れは其れは……」
「どうだ羨ましかろう。あげないよ。うふふふふ」
仏頂面の中禅寺を差し置いて、榎木津だけが、さも機嫌が良さそうに益田の頬を突いている。
薄い眉は其の都度迷惑そうに歪んだが、直ぐにへなりと幸せそうな顔に戻ってしまう。幾度か繰り返して見せると、榎木津は何故か自慢げに笑って見せた。
数時間後。
京極堂の座敷で目を覚ました益田は、はて自分は探偵事務所で酔いつぶれていたのではと思い、余程変な夢を見ているような気分にさせられたと云う。
―――
除夜の鐘も初日の出も初夢も遅刻ですが、マスヤマの幸せは365日有効なので問題ありません。
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