好きだと、云ってみたことがある。
榎木津自身、どうしてそんな事を口にしてみる気になったのかは解らない。特に云うぞと決めた訳でも、意を決して
声に出した訳でも無いのだ。「今日は良い天気だ」とか「ご飯が美味しい」とか、そう云う日常的な深い意味の無い呟きにも似ていた。
其の日、ばたばたと忙しそうに動き回っていたのは和寅だけで、榎木津は退屈を持て余していた。探偵机の上に投げ出した両足の間から、下僕の横顔が見えていた。書棚に詰まった本の背表紙をつらつらと眺めている。彼も退屈だったのかもしれない。
「――おい、益山」
呼びかけると、益田は声を出さずにふっと榎木津に振り向いた。顔の前に落ちた前髪の一筋を、慣れた仕草で耳に掛ける。遮るものの無い視界で榎木津を認めた彼は、「はい」だとか「なんですか」とか云ったような気がする。榎木津はちゃんと聞いていなかった。ぽろりと零れた言葉が、益田の相槌を遮るように飛んだ所為で。
「すきだ」
浴室の方から水を流す音がする。和寅が風呂掃除でもしているのだろう。注意していなければ気づかないほどの何気無い生活音は榎木津の声をかき消すはずもなく、益田の耳にも届いた筈だ。薄い眉の下で、瞼が2,3度瞬いて。
「―――はぁ」
同じ距離を通って榎木津の元に返ってきたものは、ひどく間の抜けた返事だった。声も気が抜けたと云うか、何の感情も入っていない。靴の間から覗く益田の顔も似たようなものだった。怒るでもなく、顔を赤らめるでもなく、只黒い瞳が自分を見ている。
榎木津は自分から誰かに好きだと云ってみたことが無かったし、益田に何かを期待していた訳でも無かったので、特に落胆も苛立ちもしなかった。ただ、待っていた。これで終わりでは無いだろうと。
益田は少し考えるように視線を宙に泳がせ、頬を指先でかりかりと掻いてから、また榎木津に向き直った。
「…ええと、其れは」
「其れは?」
「従業員としてと云う意味ですか?それとも――其の、れ、恋愛感情として」
今度宙を見るのは榎木津の方だった。何時もながら此の男は変な事を聞く。
執拗いようだが、特に意図があって云った訳では無いのだ。好きだから好きだと云ったので、其れだけ受け止めておけば良いものを、逐一意味まで求めてくる。持て成しのつもりで焼き魚を出してやったら、箸をつける前に、此の魚は何時何処で獲れたどういう由来のものですかと聞かれたような気分だ。無礼千万にも程が或る。いい加減其れ位の事は解っても良いものだと、榎木津は此処に来てようやく苛立ちを覚えた。
仮に、恋愛感情としての好きだと噛んで含めるように云ってやったら。この物分りの悪い男はどんな顔をするのだろうかと、少しだけ興味は湧いたけれど。
益田の眼がじっと答えを待っている。
「……さぁ?」
「さ、さぁって!榎木津さんが云ったんでしょうよ」
「僕が知るものか、そんな事」
「本人が解らない物が僕に解る訳無いじゃないですかもう、なんなんですかぁ。急に云われたら吃驚するじゃないですか!」
けらけらという益田の笑い声を聞きつけたか、和寅が戻ってきた。
「なんだなんだ、馬鹿笑いして」
「ちょっともう聞いてくださいよ和寅さァん、榎木津さんが良く解らないんですよ」
益田は手振りを交えて和寅に話しかけている。榎木津は机上から足を下ろして、くるりと窓に向き直った。薄手のカーテンの向こうに、神保町の空が見える。
「空が青いなァ」
言葉がまた、ぽろりと零れた。当たり前の事を当たり前に云っただけだ。空が青く雲が白い事と、彼が好きだと云う事は、いつの間にか榎木津の中で同じ所に収まっていた。もはや疑う事も無い。
(僕はあの、物分りの悪い男が好きなのだ)
革張りの椅子の向こうから、いつも通りの硬質な笑い声が聞こえる。好きだと云われて泣き出されるよりは面倒が無くて良いのだけれど、気に入らない事が一つ或る。
「さぁ?」と首を傾げてみせた時、あからさまにほっとしたような顔をしたから。
(二度と云ってやるものか)
当たり前の事を当たり前に受け止めない愚か者に、特別を欲しがる資格は無い。
―――
なんともはや。
榎木津自身、どうしてそんな事を口にしてみる気になったのかは解らない。特に云うぞと決めた訳でも、意を決して
声に出した訳でも無いのだ。「今日は良い天気だ」とか「ご飯が美味しい」とか、そう云う日常的な深い意味の無い呟きにも似ていた。
其の日、ばたばたと忙しそうに動き回っていたのは和寅だけで、榎木津は退屈を持て余していた。探偵机の上に投げ出した両足の間から、下僕の横顔が見えていた。書棚に詰まった本の背表紙をつらつらと眺めている。彼も退屈だったのかもしれない。
「――おい、益山」
呼びかけると、益田は声を出さずにふっと榎木津に振り向いた。顔の前に落ちた前髪の一筋を、慣れた仕草で耳に掛ける。遮るものの無い視界で榎木津を認めた彼は、「はい」だとか「なんですか」とか云ったような気がする。榎木津はちゃんと聞いていなかった。ぽろりと零れた言葉が、益田の相槌を遮るように飛んだ所為で。
「すきだ」
浴室の方から水を流す音がする。和寅が風呂掃除でもしているのだろう。注意していなければ気づかないほどの何気無い生活音は榎木津の声をかき消すはずもなく、益田の耳にも届いた筈だ。薄い眉の下で、瞼が2,3度瞬いて。
「―――はぁ」
同じ距離を通って榎木津の元に返ってきたものは、ひどく間の抜けた返事だった。声も気が抜けたと云うか、何の感情も入っていない。靴の間から覗く益田の顔も似たようなものだった。怒るでもなく、顔を赤らめるでもなく、只黒い瞳が自分を見ている。
榎木津は自分から誰かに好きだと云ってみたことが無かったし、益田に何かを期待していた訳でも無かったので、特に落胆も苛立ちもしなかった。ただ、待っていた。これで終わりでは無いだろうと。
益田は少し考えるように視線を宙に泳がせ、頬を指先でかりかりと掻いてから、また榎木津に向き直った。
「…ええと、其れは」
「其れは?」
「従業員としてと云う意味ですか?それとも――其の、れ、恋愛感情として」
今度宙を見るのは榎木津の方だった。何時もながら此の男は変な事を聞く。
執拗いようだが、特に意図があって云った訳では無いのだ。好きだから好きだと云ったので、其れだけ受け止めておけば良いものを、逐一意味まで求めてくる。持て成しのつもりで焼き魚を出してやったら、箸をつける前に、此の魚は何時何処で獲れたどういう由来のものですかと聞かれたような気分だ。無礼千万にも程が或る。いい加減其れ位の事は解っても良いものだと、榎木津は此処に来てようやく苛立ちを覚えた。
仮に、恋愛感情としての好きだと噛んで含めるように云ってやったら。この物分りの悪い男はどんな顔をするのだろうかと、少しだけ興味は湧いたけれど。
益田の眼がじっと答えを待っている。
「……さぁ?」
「さ、さぁって!榎木津さんが云ったんでしょうよ」
「僕が知るものか、そんな事」
「本人が解らない物が僕に解る訳無いじゃないですかもう、なんなんですかぁ。急に云われたら吃驚するじゃないですか!」
けらけらという益田の笑い声を聞きつけたか、和寅が戻ってきた。
「なんだなんだ、馬鹿笑いして」
「ちょっともう聞いてくださいよ和寅さァん、榎木津さんが良く解らないんですよ」
益田は手振りを交えて和寅に話しかけている。榎木津は机上から足を下ろして、くるりと窓に向き直った。薄手のカーテンの向こうに、神保町の空が見える。
「空が青いなァ」
言葉がまた、ぽろりと零れた。当たり前の事を当たり前に云っただけだ。空が青く雲が白い事と、彼が好きだと云う事は、いつの間にか榎木津の中で同じ所に収まっていた。もはや疑う事も無い。
(僕はあの、物分りの悪い男が好きなのだ)
革張りの椅子の向こうから、いつも通りの硬質な笑い声が聞こえる。好きだと云われて泣き出されるよりは面倒が無くて良いのだけれど、気に入らない事が一つ或る。
「さぁ?」と首を傾げてみせた時、あからさまにほっとしたような顔をしたから。
(二度と云ってやるものか)
当たり前の事を当たり前に受け止めない愚か者に、特別を欲しがる資格は無い。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
―――
なんともはや。
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