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2024/11/23 03:52 |
最終夜.題名の要らない物語
飢える事がこんなに怖いと思ったのは、生まれて初めてだ。





「待てッ!この…往生際が悪いぞッ!」

榎木津が益田を捕らえたのは狭く暗い踊り場で、掴んだ腕は勢いのまま石造りの壁に叩き付けた。三階の扉は半開きのままで、頼りなく響いていたカウベルの残響音もやがて止んでしまうと、聞こえるものは互いの息遣いばかりだ。益田は見上げた榎木津の双眸が爛々と瞬いているのを恐れていたし、榎木津は見下ろした益田の青白い顔をとめどなく伝う涙を睨んでいた。

「こらッ!」
「す……すみません……ッすみませんご免なさい」

だらだらと涙を零しながら、九官鳥のようにひたすらご免なさいご免なさいと呟く益田を見ていると、手首を掴む力が強まる。僅かな肉と皮だけで守られた骨がぎしりと音を立てそうだったが、益田の震えは収まるどころか酷くなる一方だ。抑え付けて居るというよりは、くず折れてしまわないように辛うじて縫い止めていると云った方が近いだろう。
恐慌状態にありながらそれでも謝罪を繰り返す益田の頬に張り付いた濡れて張り付いた前髪を取り除きたいと榎木津は思ったが、益田を捕まえるのに両腕を使っているのでそれもままならない。

「マスヤマ、しっかりしなさい」

掴んだ腕を僅かに浮かせて、もう一度壁にぶつけてやる。ごつんと重い音がして、ようやく益田は聊か正気に戻ったような顔をして榎木津の顔を見上げてきた。小さな明かり取りから落ちる月明かりが、二人の影を床に伸ばしている。長い影は階段に掛かって降りて行き、階下に蟠る闇に紛れた。

「逃げたのを赦した訳じゃ無いけど、それは今に始まった事じゃあ無いから別に良い。怒鳴るだけ時間の無駄だ。僕が聞きたいのはそういう事じゃない」

毛布を身体に巻きつけて寝こけていた益田を見て、手を出したのは榎木津の方だ。興味と遊び心、それから所有欲に従って自分も長椅子に飛び乗り、肉の薄い頬に触れた。眠っていた彼の頬はそれなりに柔らかく、暖かかったのを覚えている。顔に掛かった前髪を払い除けると、無防備な寝顔が顕わになり益々榎木津を楽しませた。
暫く無抵抗な感触を楽しんでいると、瞼がやにわに震え、そしてゆっくりと開かれた。雲が晴れるようにして水の膜を湛えた益田の瞳が現れる。果たして今夜は泣くものか、怒るものかと榎木津は胸を躍らせながらその時を待った。
そして益田は―――榎木津の予想を裏切り、微笑んで見せたのだ。
吊り気味の眼が三日月型に歪み、薄い唇が見たことも無い形に開いた。持ち上がった口端からは八重歯がちらりと覗いている。
予期せぬ反応に虚を突かれた榎木津の首に、するりと益田の腕が回る。役目を終えた毛布が滑るようにソファから落ちていったが、誰もそれを引き止める者は無い。嬉しそうに笑いながらゆっくりと顔を寄せてくる下僕を見て、榎木津は怪訝そうに眉を寄せた。寝ぼけているのか、それとも。口を突いて出たのは、彼の名前だった。

「…マスヤマ?」

声が波紋となってフロアに広がった時、ぴたりと益田が動きを止めた。首の皮膚で知る感触は酷く強張っていて、鎖骨の辺りに届いていた吐息すらも消え失せている。益田が石になってしまったような気がして榎木津が上体を離してみると、またしても益田は榎木津の想像を超える所に居た。
薄く開いた口を閉じもせず、顔色は真っ青を通り越して蒼白だ。先程眼にした笑みはとうに失われ、何かに怯えたような顔をしているが収束した黒目には何も映していない。益田は榎木津を視認した瞬間、動揺を全身に渡らせた。

「――うわ、あ、あ……」
「おい、益」

榎木津が声をかけた瞬間、益田は―――

「……ご免なさい」
「うっ」
「ご免なさいって、そう云った。それで僕を突き飛ばして、飛んで逃げただろう」

石壁に張り付いたままの益田は、力無く頷いた。顎の辺りに溜まっていた雫がぽたりと落ちる。

「突き飛ばしてからならまだ解る。立派な反逆罪だからな。でもお前は、まだ謝らないといけないような事してなかったじゃないか。先に謝っといてそれから何かするのかと思ったら、ぼろぼろ泣くばっかりでそれも無い」

俯いてしゃくり上げている益田の記憶が視える。暗く寒い踊り場で其処だけが色鮮やかで、奇妙な映画を見ているようだ。
浮かび上がる首のラインはきっと見慣れた自分のもので、意識した途端自らの好き勝手にさせている後ろ髪が触れる感触まで思い出す。榎木津が視たままに「首だ」と呟いた途端、益田の身体は大きく竦んだ。

「すみませ、」
「だから何がスミマセンなんだ!お前のしたいようにすることがスミマセンなのか!だからお前はバカオロカなんだ、バカオロカならバカオロカなりに、欲しいものは欲しいって云ってみロ!」

益田は謝罪を口にすることは止めたが、俯いたまましきりに首を横に振っている。足元に溜まった冷気の中で、がくがくと膝が戦慄いているのが痛ましい。寒さに震える姿に似ているので、抱きしめてやろうかと思ったが、両腕が塞がっている。
僕が欲しいから、あんな風に笑ったのでは無いのか。あんな風に―――丁度、好物を目の前にした時のように。











榎木津の声がする。こんなにも近くに居るのに霧の中から聞こえてくるような声だったが、「欲しいなら欲しいと云ってみろ」と云うくだりだけはしっかりと聞こえ、余計に益田を痛めつけた。
もう止めて欲しい。そんなに強い力で抑え付けないで欲しい。そうして僕を逃がして欲しい。お前のような魔物など、往ってしまえと云って欲しい。
けれど榎木津はきっとそんな事は云わないだろう。云って欲しいのは本当だけれど、決して云わない彼だからこそ好いたのだ。酷く身勝手で我侭な感情は、飼い慣らせずに暴走した。あやうく無二の人の肌に牙を立てて、その血を――時間を、奪ってしまう所だった。幾ら口先で謝罪しても事足りるものでは無い。あと一瞬我に返るのが遅ければ、益田の口内は迸る鮮血の甘さで満ち、人間としての榎木津の生は終わり、自分と同じ魔物として永劫の時に繋がれる破目になっていたと、考えただけで震えが止まらない。榎木津を必要とする多くの人の顔が浮かんでは滲んで消えて行った。
驚愕に見開かれた鳶色の瞳は、闇夜に浮かぶ満月のようだ。益田は己の罪に慄きながらも、その眼を美しいと思った。好きだと思った。

顔を、肌を、目で追ってしまうのは、貴方がとても好きだからなのです。
誓って自分の本能がそうさせている訳では無いのです。
軽口を叩きながら、叱られながら、貴方の傍にずっと居たいです。
けれど貴方を世界から切り離してまでそうしたいと云う訳ではありません。


――本当に、飢える事がこんなに怖いと思ったのは、生まれて初めてだ。



夜は深く、言葉も無く、月光は益々白く彼等を照らしている。




―――
ひとりハロウィンラストは吸血鬼益田と榎木津でした。
ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました!




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2009/10/31 22:42 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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