榎木津が目を覚ました時、室内は眩しい程の橙に染まっていた。
寝乱れた掛け布団、シーツ、レースのカーテン。一際朱の強い其れに伸ばした爪先もやはり紅い。
ぼんやりと寝ぼけた頭で室内を見渡し、誰に向けてでも無く薄い唇が開かれた。
「…今、何時だ…?」
探偵が起きた時が朝だ。そうは云うものの、今が朝か夕方なのかも判らなくては困る。夕方なら夕食が直ぐだし、明け方なら食事が無いのでもう一回寝るまでだ。榎木津は立ち上がった。
裸足で触れた床は硬く冷たく、肩の辺りまで肌寒さが這い上がってくる。
椅子に引っ掛けてあった適当な羽織り物を纏うと、事務所に繋がる扉を開けた。
遮光の無いフロア内もまた橙色。榎木津は掛け時計を見上げる。4時25分。―――微妙な時間だ。文字盤から目を逸らした榎木津は、ふとソファの上に目を留めた。毛布を頭まですぽりと被った「何か」が、長椅子の上に転がっている。裾から飛び出している黒い靴下を履いた頼りない足首には見覚えがあった。
「マスヤマか」
こいつがこんな所で転がっているということは、朝なんだろうな。腰に手を当てて、榎木津はなんとなく毛布の塊を眺めた。毛布は中身の呼吸に合わせてゆっくりと膨らんでは萎む。小心なこの男は、カーテンの無い事務所内で寝ていると朝日が眩しくて目が覚めてしまうと云っていた気がする。人工的な繭を作って隠れるようにして寝ているのはその所為だろう。
榎木津はついと視線を外し、長椅子を避けてぺたぺたと歩いた。精々寝ていろと思った。
自分では無い誰かが掛けた内鍵を外すと、榎木津は金文字に彩られた扉を抜ける。からんからんと鐘の音が、朝の清浄な空気の中をゆっくりと渡って行った。
外はやはりひんやりと寒い。足の裏が直接コンクリートに触っているのも一因か。
けれど高所から見渡す光景に広がる橙色の見事な天蓋を見て、榎木津は寒さを忘れた。背中側の空はまだ闇が蟠っているのに、正面の空は燃えているようなのも不思議だ。
屋上をぐるりと取り巻く鉄柵に上体を預け、榎木津はぼんやりと其れを眺める。
相反する2色を白い地肌の上に乗せた雲が浮かんでいるのを見ていると、背後で鉄の扉が開閉するがこん、という音がした。
「榎木津さぁん」
振り向くと、其処には彼の下僕が立っていた。
「吃驚しましたよもう、早朝にドア鐘の音がするんですもん。泥棒かと思って。そしたら榎木津さんの襦袢がひらひら上がっていくのが見えたから」
益田はそう云うと、乗馬鞭の柄をズボンのポケットに突っ込む。さっきまで寝ていたのは本当らしく、羽織った黒いジャケットも何処か無造作に思える。
じゃあ僕ぁこれで、と頭を下げつつ踵を返した益田の背中目掛けて、張りのある声が飛んだ。
「動くな、益山!」
「うぇっ!?」
びくりと肩を竦めた益田は、声がした方に振り返る。柵に身を持たせ掛けて、榎木津が哂っている。
「其処は昨日と今日の境目だぞ」
そう云われて益田が見上げると、視界一杯に広がる空は紅と濃紺のグラデーション。大きな雲が形と色を変えながらゆっくりと彼の頭上を流れていく。
昇り始めた朝日を背負った榎木津は下穿きと緋色の襦袢しか身につけていなかったが、益田は寒そうだなぁと思う以前に圧倒されてしまう。吹き抜ける生まれたての風が薄手の生地をふわふわと躍らせて、何だか荘厳なものを見ているような気分にさせられる。
探偵が起きた時が朝だ――あながち嘘ではないかもしれないと益田は思う。
歩を進めて、榎木津に倣い鉄柵に肘を預けてきた。
「此処が『今日』なんですねぇ」
「うん、まだ誰も今日が来た事を知ら、な、」
榎木津が盛大なくしゃみをした。
驚いた雀たちがばさばさと飛び去っていく。
「ほらぁ寒いんじゃないですかぁ」
益田は慌しく自らの上着を脱いだ。
其れを榎木津の肩にかけようとして、それから少し逡巡するように眉を顰めた。
「何してる」
「あっごめんなさい、その、何か勿体無くてですね」
怪訝そうに歪んだ濃い眉の下にある鳶色の瞳は、太陽を映して赤みが強い。化生めいていると云っては感じが悪いが、とにかくこの世の者では無いのではとすら思える。
纏った襦袢の緋は、朝焼けよりもまだ紅い、夕焼け空の色。無粋な黒で隠すのは憚られる。
益田はそんな言葉を全て綯い交ぜにして、へらりと笑って云った。
「貴方が朝を連れてきたみたいに見えたもので」
そうしてやっと掛けられた上掛けはそれなりに暖かく。けれど榎木津は何も云わず、頭上から覆いかぶさってくる朝を見上げている。
―――
益榎っぽいの書きたいなーと思って。結局いつも通り。
タイトルが夕焼けなのに朝の話ですみません。
寝乱れた掛け布団、シーツ、レースのカーテン。一際朱の強い其れに伸ばした爪先もやはり紅い。
ぼんやりと寝ぼけた頭で室内を見渡し、誰に向けてでも無く薄い唇が開かれた。
「…今、何時だ…?」
探偵が起きた時が朝だ。そうは云うものの、今が朝か夕方なのかも判らなくては困る。夕方なら夕食が直ぐだし、明け方なら食事が無いのでもう一回寝るまでだ。榎木津は立ち上がった。
裸足で触れた床は硬く冷たく、肩の辺りまで肌寒さが這い上がってくる。
椅子に引っ掛けてあった適当な羽織り物を纏うと、事務所に繋がる扉を開けた。
遮光の無いフロア内もまた橙色。榎木津は掛け時計を見上げる。4時25分。―――微妙な時間だ。文字盤から目を逸らした榎木津は、ふとソファの上に目を留めた。毛布を頭まですぽりと被った「何か」が、長椅子の上に転がっている。裾から飛び出している黒い靴下を履いた頼りない足首には見覚えがあった。
「マスヤマか」
こいつがこんな所で転がっているということは、朝なんだろうな。腰に手を当てて、榎木津はなんとなく毛布の塊を眺めた。毛布は中身の呼吸に合わせてゆっくりと膨らんでは萎む。小心なこの男は、カーテンの無い事務所内で寝ていると朝日が眩しくて目が覚めてしまうと云っていた気がする。人工的な繭を作って隠れるようにして寝ているのはその所為だろう。
榎木津はついと視線を外し、長椅子を避けてぺたぺたと歩いた。精々寝ていろと思った。
自分では無い誰かが掛けた内鍵を外すと、榎木津は金文字に彩られた扉を抜ける。からんからんと鐘の音が、朝の清浄な空気の中をゆっくりと渡って行った。
外はやはりひんやりと寒い。足の裏が直接コンクリートに触っているのも一因か。
けれど高所から見渡す光景に広がる橙色の見事な天蓋を見て、榎木津は寒さを忘れた。背中側の空はまだ闇が蟠っているのに、正面の空は燃えているようなのも不思議だ。
屋上をぐるりと取り巻く鉄柵に上体を預け、榎木津はぼんやりと其れを眺める。
相反する2色を白い地肌の上に乗せた雲が浮かんでいるのを見ていると、背後で鉄の扉が開閉するがこん、という音がした。
「榎木津さぁん」
振り向くと、其処には彼の下僕が立っていた。
「吃驚しましたよもう、早朝にドア鐘の音がするんですもん。泥棒かと思って。そしたら榎木津さんの襦袢がひらひら上がっていくのが見えたから」
益田はそう云うと、乗馬鞭の柄をズボンのポケットに突っ込む。さっきまで寝ていたのは本当らしく、羽織った黒いジャケットも何処か無造作に思える。
じゃあ僕ぁこれで、と頭を下げつつ踵を返した益田の背中目掛けて、張りのある声が飛んだ。
「動くな、益山!」
「うぇっ!?」
びくりと肩を竦めた益田は、声がした方に振り返る。柵に身を持たせ掛けて、榎木津が哂っている。
「其処は昨日と今日の境目だぞ」
そう云われて益田が見上げると、視界一杯に広がる空は紅と濃紺のグラデーション。大きな雲が形と色を変えながらゆっくりと彼の頭上を流れていく。
昇り始めた朝日を背負った榎木津は下穿きと緋色の襦袢しか身につけていなかったが、益田は寒そうだなぁと思う以前に圧倒されてしまう。吹き抜ける生まれたての風が薄手の生地をふわふわと躍らせて、何だか荘厳なものを見ているような気分にさせられる。
探偵が起きた時が朝だ――あながち嘘ではないかもしれないと益田は思う。
歩を進めて、榎木津に倣い鉄柵に肘を預けてきた。
「此処が『今日』なんですねぇ」
「うん、まだ誰も今日が来た事を知ら、な、」
榎木津が盛大なくしゃみをした。
驚いた雀たちがばさばさと飛び去っていく。
「ほらぁ寒いんじゃないですかぁ」
益田は慌しく自らの上着を脱いだ。
其れを榎木津の肩にかけようとして、それから少し逡巡するように眉を顰めた。
「何してる」
「あっごめんなさい、その、何か勿体無くてですね」
怪訝そうに歪んだ濃い眉の下にある鳶色の瞳は、太陽を映して赤みが強い。化生めいていると云っては感じが悪いが、とにかくこの世の者では無いのではとすら思える。
纏った襦袢の緋は、朝焼けよりもまだ紅い、夕焼け空の色。無粋な黒で隠すのは憚られる。
益田はそんな言葉を全て綯い交ぜにして、へらりと笑って云った。
「貴方が朝を連れてきたみたいに見えたもので」
そうしてやっと掛けられた上掛けはそれなりに暖かく。けれど榎木津は何も云わず、頭上から覆いかぶさってくる朝を見上げている。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
―――
益榎っぽいの書きたいなーと思って。結局いつも通り。
タイトルが夕焼けなのに朝の話ですみません。
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