目の前に座っている老紳士が薔薇十字探偵社に仕事を持ち込んだのは、2ヶ月ほど前の事だった。
榎木津家経由で探偵社の話を聞いたらしい彼は、当初榎木津礼二郎本人が仕事を請けなかった事に渋面を見せたが、益田の仕事ぶりには概ね満足したようだ。苦労して捕らえたカナリアは、銀の鳥篭に入れられて歌っている。
かんかんに照り付ける太陽と熱された外気から、高台に建つ白亜の館は隔絶されている。庭に植えられた緑が直射日光を適度に遮り、大きな窓から潮風が吹き込んでくる。こんな別荘を幾つも持てるほど裕福な客を抱えられる職場環境に感謝して、益田は冷茶をひとくち啜った。
「しかし、本当に良い場所ですねぇ。僕以前この界隈で仕事してたんですけど、こんな立派なお屋敷あったなんて知りませんでした」
「自分で自分を褒めるようで恐縮ですが、此処は実際気に入っているのですよ。特にあの窓が良い」
「窓ですか」
「海が良く見える。岩場ですから泳ぐのには向かないのですが、そのぶん静かでね」
紳士に促され、益田も立ち上がった。彼が示したのは、大きく開いた出窓だ。白波に似たレースのカーテンが、風を受けてひらひらと踊っている。
一足先に下を覗き込んだ男が、ふと首を傾げた。
「珍しいですな、今日は浜に人が居る」
「へぇ……えっ」
うっ、と益田は息を呑んだ。
眼下に見える海は入り江状に切り取られていて、やや灰色がかった砂浜に絶えず白い波が被さっている。青い海と盛り上がった入道雲をすっと横切る水平線が綺麗だ。それは良いのだが。
美しい浜辺に足跡を巡らせながら動き回っている人物の髪が、どうも見覚えがある。見覚えどころか、昨日も目通りしたばかりだ。柔らかな栗色―――それがくるりと振り返ってこちらを見上げたように思え、益田は肩をぎゅうと竦めた。
そうとは知らぬ紳士は、かえって興味深げに益々身を乗り出す。
「何か砂浜に書いているようですな、なんだろうか」
「そ、それより!早く残りのご報告をさせてくださいっ!」
「報告?もう鳥は戻りましたし、特にこれと云って」
「何と云うかその、そう、僕の武勇伝を聞いて頂けませんか!特に鳥を追って樹上に取り残された時なんか額に汗をかいてしまったと云いますか、ねぇ」
しどろもどろになりながらも、益田は男の背を押して半ば無理やりにソファへと戻った。
ちらりと見やった浜辺は無惨に削り取られて、大きな文字が並んでいる。
―――さっさと戻れ、バカオロカ。
波の音に混じって神に恫喝された気がして、益田は項垂れて前髪を揺らした。
■
なるほど岩場だ。
ごろごろと転がっている巨大な岩を乗り越えると、その向こうに海が現れた。
上から見た限りでは箱庭のように小さく見えたが、目の当たりにするとそれなりに広い。湿った風が潮の匂いを含み、長い前髪を吹き上げる。
「榎木津さぁん」
波音にも負けそうなほど疲れた益田の声は、それでも榎木津の耳に届いたらしかった。一心不乱に砂山を築いていた横顔がふと益田の姿を捉える。
「遅いぞゥ」
「何云ってンですか超特急ですよ、あの丘から此処までどんだけかかったと思ってるんですか、ていうか榎木津さん、此処に来るって知ってるなら仕事付き合ってくれればよかったのに」
息も絶え絶えの益田が砂に尻を付くと、榎木津が水筒を投げて寄越した。見覚えがあるアルマイトは、恐らく寅吉が持たせたものだろう。冷えた麦茶が入っている。
一息に其れを呷る益田を尻目に、榎木津は砂に書いた文字を蹴った。
「トリの引渡しはどうでも良いんだよ。事務所で散々鳴き声も聴いた。言葉も覚えなかったし」
「人様の鳥に言葉教えようとしないでくださいって。どうすんですかバカオロカとか云うようになっちゃったら」
「そうなったらトリの間でお前のバカオロカぶりが有名になる!」
けらけらと笑いながら榎木津が波打ち際に歩いていくので、益田も其れに従う。夏が過ぎゆく浜は日が傾きかけて、遠くの雲が橙色に染まり始めていた。
ざん――と波が寄せ、二人の足元にまで迫る。
栗色の髪が潮風に弄られて、一瞬ごとに違う表情を見せるのを、益田は不思議に思って眺めていた。
「どうだ、海だぞ益山」
改めて云われなくても知っている。それでも益田は、顔を上げて海面を見た。水平線に沿って、光がはじけている。
寄せる波は透明でも、遥か先に見える水面は濃紺だ。何が溶けていても、見えない程に。
視界の端に立つ榎木津の姿にボーダーラインの服を纏ったもう一人の榎木津が重なって、益田は目を逸らした。
そんな益田の仕草を知ってか知らずか、榎木津は益田の目の前に立つ。見開かれた鳶色の瞳は、恐らく益田の記憶を通り越して益田自身の瞳を見ている。
「今年の夏は全然海で遊ばなかった!海に失礼だ!おまけに益山はあっちこっちでコソコソ隠れるような真似ばっかりして、夏が勿体無い」
「そんなにお好きなら、海くらいいつでも来れば良かったじゃないですか。木場さんなり、関口さんなりと」
ビーチパラソルの下で憮然として本を読んでいる中禅寺を想像してしまい、妙な具合に口端が歪む。咎めるように拳で胸板を小突かれて、砂を踏む足元がよろめいた。
「なんで叩くんですよ」
「心得違いをしているから制裁をしたまでだ。僕はパンが無いならケェキで済まそうなんていうケチな了見の持ち主じゃないぞ。パンが食べたい時は何が何でもパンを食べるんだ!海で遊びたかったら、海に来る!」
「来てるじゃないですか、既に―――」
益田は狼狽し、言葉を呑んだ。
自分を見下ろす双眸が、挑戦的な光を帯びているのに気付いたからだ。深い海が蒼の濃さを増すのと同じように、暗い色をした瞳孔に自分の内面までも吸い込まれそうだ。
何か口にする、或いは視線を逃がす前に、寄せた波が脛のあたりまで被さってきた。いつの間にか潮が満ちて、榎木津が乱暴に綴った文字や足跡までも消していく。
「うわっ」
「あっコラ、逃げるな!」
「濡れちゃいますよう」
水に浸かった革靴は、一歩踏み出すごとに気味の悪い音を立てる。益田の足跡が波に慣らされた浜から乾いた砂の上にたどり着く前に、背後から伸びた手にさっと膝の裏を浚われた。爪先が弧を描き、すっぽ抜けた靴が転々と砂浜を弾んで歪な軌跡を残す。
気がつけば痩せた身体は、横抱きの格好で榎木津の腕の中にあった。
「えっ」
「濡れるのが怖くて、海で遊べるものか!」
榎木津は自分も靴をかなぐり捨てて、益田を抱えたまま波へと突進していく。ひゃあああ、という情けない悲鳴が浜辺に響いた。蹴り上げられた海水が飛沫となって前髪にまでかかる。
「うわっ、ちょっ、怖い!」
「怖いものか、僕の膝くらいまでしか無いぞ。降りてみろ、そら!」
「そういうことじゃありませんって――ああああんまり、揺らさないでくださいよぅ!」
巨岩に隠された浜で、榎木津の高笑いと益田の泣き声が交互に起こる。
どちらともなく声が止むと、辺りは急に静かになったようだ。依然として波は打ち寄せ続けているというのに。
濡れた靴下を弄る潮風が冷たくて、益田は爪先を丸めた。いつの間にか腕さえも榎木津の首に回してしまっている。手放すべきか思案していると、またひとつ波が寄せた。
間近に見下ろす榎木津の頬や鼻先が奇妙に紅潮して見えることで、益田はようやく夕暮れが迫っている事を知った。
「榎木津、さん」
海ならいくらでも来ればよかったじゃないですか。
心得違いをしているから制裁をしたまでだ。
はじける光の粒とともに、交わされた言葉が明滅する。
唇が震えるのは、吹き抜けた潮風が冷たかったからでは無い。
「今日此処に来たのって、もしかして―――僕、と」
夕映え色の頬が僅かに赤みを増して、鳶色の瞳が瞬いた。
「―――だったら、どうする?」
ざん、と波が打った。
どうすると問われても、益田は榎木津が望む答えなど知らない。自分の頭に浮かんだ考えだって、身の程知らずかつ自意識過剰な、僭越なものかも知れないのだ。
僭越ついでに、ただ無性に、榎木津の唇が欲しいと思ってしまった。
秋が迫る海に浸かって、小娘のように抱えられている滑稽な格好のままで。
飛沫をあちこちに被ってしまって風が当たるたびに冷えているのに、耳の辺りがやけに熱い。
「榎木津さん、僕も」
「ん?」
続ける言葉が思い浮かばず、益田は少し逡巡してから、そおっとそおっと、唇を寄せた。
「早まるな、君たちぃ―――!」
突然真横からどん、と衝撃が襲い、次の瞬間益田は榎木津の腕を離れ、海中に転落していた。
尻から落ちたので痛みは無いが、間髪入れず頭上を超えて行った波の所為で、文字通り頭の先までずぶぬれだ。
面くらいながらも張り付いた前髪を払いのけると、同じくずぶぬれの榎木津が何故か羽交い締めにされている光景が目に入った。わめいている榎木津を押さえつけているのは、どうも警官のようだ。まだ若い。
「何があったか知らないけど、こんな良い季節の盛りに妙なことを考えるもんじゃあない!」
「みょ――妙なこと?」
榎木津が警官を張り飛ばし、見慣れた制服姿が派手な打音と共に波間に沈む。
益田は慌てて立ち上がると、ひっくり返っている警官を助け起こした。
「大丈夫ですか」
「あ痛た…いえ…大丈夫です」
濡れた髪を払いのける仕草は、先刻益田がした其れによく似ている。
はっきりと見えた顔に既視感を覚えた益田が話しかける前に、目を丸くした青年が声を上げた。
「あれ…益田さん?ですよね―――ああ、益田さんだ」
一人だけさっさと陸に上がった榎木津が、犬のように頭を振って水を払っているのが見える。
「―――亀井、君?」
唖然とする益田の背後で、紅い夕陽がすうと沈んだ。
■
すっかり暗くなった街中を、一台のパトカーが走っている。
潮の匂いが充満した後部座席には、くたびれた毛布に包まった榎木津と益田が居た。榎木津の方は、遊びつかれたかしてすやすやと眠ってしまっている。その寝顔を横目で見やりながら、益田は溜息を落とした。
「吃驚しましたよ。盗人を捕らえてみれば益田さんなり、なんてね」
亀井は困っているのだか楽しんでいるのだか判らない口調でそう云うと、ハンドルを繰った。
「盗人って何だよ。いきなり突き飛ばされて、吃驚したのはこっちだって云うの。あんな辺鄙な場所も警らの範囲になったわけ?」
「そういう訳じゃないですけど、通報されちゃ行かない訳に行かないですからね」
「つ、通報?なんで?侵入罪か何か?」
面食らう益田の顔をバックミラーで確認した亀井は、左手でついと天を指す。
「あの浜ね、ちょっと上ったら見えるんですけど、高台のお屋敷に住んでるご主人から電話あったんですよ。海中に無理やり引き込まれようとしてる人がいるってね」
絹を裂くような悲鳴で何かと思った、って云ってるんですけど、心当たりあります?―――そう云うと亀井は半分だけ振り向いた。益田はその視線に気付かない振りをして、毛布に顎を埋める。
悲鳴を上げたのは間違いなく自分だが、「絹を裂くような」とはどういう事だろう。あの浜は岩や崖に囲まれる格好だったから、反響して甲高く聞こえたのだろう、恐らく。そうとでも思わなければやっていられない。
「すわ痴情のもつれの無理心中か、とか云われたら行かざるを得ないです」
「無い無いそれは、絶対無い!」
「どうしたんですかムキになって…まぁもう直ぐ署に着きますから、詳しい事情はそっちで伺います。世間話のつもりで聞かせてくださいね」
車が大きく曲がった拍子に、力の抜けた榎木津の身体がどさりと倒れこんできた。塩水を浴びた生乾きの髪が首に当たってこそばゆい。良く眠っているようだ。
こんなに眠りが深いと、榎木津を連れて東京に戻るのは困難だろう。2,3歩歩かせるのすら億劫だ。警察車両を借りるのも申し訳ない。この近くで宿を取るのが妥当な所だろうと思う。
榎木津の財布を勝手に漁る訳には行かないので、益田が身銭を切ることになる。そうなるとあまり立派な宿は難しい。近くに旨い魚を出す食堂でもあれば、そちらの方が重要だ。
ひとつの部屋に布団を2組敷いてもらって眠ろう。塩水まみれの服は水ですすいで干しておき、代わりに浴衣でも着せておこう。榎木津はきっと昼頃目覚めるだろうから、その時になって初めて、見慣れぬ寝所と着慣れぬ浴衣に気がつくのだ。
(そしたらどうします、榎木津さん)
毛布の下でそっと探った指先には、細かな砂粒と確かな体温が在る。
―――
菊川様リクエスト「海辺できゃっきゃと戯れる榎益」でした。ありがとうございました。
遅くなって申し訳ございません。異常に楽しく書けました(亀井も出ました)。
榎木津家経由で探偵社の話を聞いたらしい彼は、当初榎木津礼二郎本人が仕事を請けなかった事に渋面を見せたが、益田の仕事ぶりには概ね満足したようだ。苦労して捕らえたカナリアは、銀の鳥篭に入れられて歌っている。
かんかんに照り付ける太陽と熱された外気から、高台に建つ白亜の館は隔絶されている。庭に植えられた緑が直射日光を適度に遮り、大きな窓から潮風が吹き込んでくる。こんな別荘を幾つも持てるほど裕福な客を抱えられる職場環境に感謝して、益田は冷茶をひとくち啜った。
「しかし、本当に良い場所ですねぇ。僕以前この界隈で仕事してたんですけど、こんな立派なお屋敷あったなんて知りませんでした」
「自分で自分を褒めるようで恐縮ですが、此処は実際気に入っているのですよ。特にあの窓が良い」
「窓ですか」
「海が良く見える。岩場ですから泳ぐのには向かないのですが、そのぶん静かでね」
紳士に促され、益田も立ち上がった。彼が示したのは、大きく開いた出窓だ。白波に似たレースのカーテンが、風を受けてひらひらと踊っている。
一足先に下を覗き込んだ男が、ふと首を傾げた。
「珍しいですな、今日は浜に人が居る」
「へぇ……えっ」
うっ、と益田は息を呑んだ。
眼下に見える海は入り江状に切り取られていて、やや灰色がかった砂浜に絶えず白い波が被さっている。青い海と盛り上がった入道雲をすっと横切る水平線が綺麗だ。それは良いのだが。
美しい浜辺に足跡を巡らせながら動き回っている人物の髪が、どうも見覚えがある。見覚えどころか、昨日も目通りしたばかりだ。柔らかな栗色―――それがくるりと振り返ってこちらを見上げたように思え、益田は肩をぎゅうと竦めた。
そうとは知らぬ紳士は、かえって興味深げに益々身を乗り出す。
「何か砂浜に書いているようですな、なんだろうか」
「そ、それより!早く残りのご報告をさせてくださいっ!」
「報告?もう鳥は戻りましたし、特にこれと云って」
「何と云うかその、そう、僕の武勇伝を聞いて頂けませんか!特に鳥を追って樹上に取り残された時なんか額に汗をかいてしまったと云いますか、ねぇ」
しどろもどろになりながらも、益田は男の背を押して半ば無理やりにソファへと戻った。
ちらりと見やった浜辺は無惨に削り取られて、大きな文字が並んでいる。
―――さっさと戻れ、バカオロカ。
波の音に混じって神に恫喝された気がして、益田は項垂れて前髪を揺らした。
■
なるほど岩場だ。
ごろごろと転がっている巨大な岩を乗り越えると、その向こうに海が現れた。
上から見た限りでは箱庭のように小さく見えたが、目の当たりにするとそれなりに広い。湿った風が潮の匂いを含み、長い前髪を吹き上げる。
「榎木津さぁん」
波音にも負けそうなほど疲れた益田の声は、それでも榎木津の耳に届いたらしかった。一心不乱に砂山を築いていた横顔がふと益田の姿を捉える。
「遅いぞゥ」
「何云ってンですか超特急ですよ、あの丘から此処までどんだけかかったと思ってるんですか、ていうか榎木津さん、此処に来るって知ってるなら仕事付き合ってくれればよかったのに」
息も絶え絶えの益田が砂に尻を付くと、榎木津が水筒を投げて寄越した。見覚えがあるアルマイトは、恐らく寅吉が持たせたものだろう。冷えた麦茶が入っている。
一息に其れを呷る益田を尻目に、榎木津は砂に書いた文字を蹴った。
「トリの引渡しはどうでも良いんだよ。事務所で散々鳴き声も聴いた。言葉も覚えなかったし」
「人様の鳥に言葉教えようとしないでくださいって。どうすんですかバカオロカとか云うようになっちゃったら」
「そうなったらトリの間でお前のバカオロカぶりが有名になる!」
けらけらと笑いながら榎木津が波打ち際に歩いていくので、益田も其れに従う。夏が過ぎゆく浜は日が傾きかけて、遠くの雲が橙色に染まり始めていた。
ざん――と波が寄せ、二人の足元にまで迫る。
栗色の髪が潮風に弄られて、一瞬ごとに違う表情を見せるのを、益田は不思議に思って眺めていた。
「どうだ、海だぞ益山」
改めて云われなくても知っている。それでも益田は、顔を上げて海面を見た。水平線に沿って、光がはじけている。
寄せる波は透明でも、遥か先に見える水面は濃紺だ。何が溶けていても、見えない程に。
視界の端に立つ榎木津の姿にボーダーラインの服を纏ったもう一人の榎木津が重なって、益田は目を逸らした。
そんな益田の仕草を知ってか知らずか、榎木津は益田の目の前に立つ。見開かれた鳶色の瞳は、恐らく益田の記憶を通り越して益田自身の瞳を見ている。
「今年の夏は全然海で遊ばなかった!海に失礼だ!おまけに益山はあっちこっちでコソコソ隠れるような真似ばっかりして、夏が勿体無い」
「そんなにお好きなら、海くらいいつでも来れば良かったじゃないですか。木場さんなり、関口さんなりと」
ビーチパラソルの下で憮然として本を読んでいる中禅寺を想像してしまい、妙な具合に口端が歪む。咎めるように拳で胸板を小突かれて、砂を踏む足元がよろめいた。
「なんで叩くんですよ」
「心得違いをしているから制裁をしたまでだ。僕はパンが無いならケェキで済まそうなんていうケチな了見の持ち主じゃないぞ。パンが食べたい時は何が何でもパンを食べるんだ!海で遊びたかったら、海に来る!」
「来てるじゃないですか、既に―――」
益田は狼狽し、言葉を呑んだ。
自分を見下ろす双眸が、挑戦的な光を帯びているのに気付いたからだ。深い海が蒼の濃さを増すのと同じように、暗い色をした瞳孔に自分の内面までも吸い込まれそうだ。
何か口にする、或いは視線を逃がす前に、寄せた波が脛のあたりまで被さってきた。いつの間にか潮が満ちて、榎木津が乱暴に綴った文字や足跡までも消していく。
「うわっ」
「あっコラ、逃げるな!」
「濡れちゃいますよう」
水に浸かった革靴は、一歩踏み出すごとに気味の悪い音を立てる。益田の足跡が波に慣らされた浜から乾いた砂の上にたどり着く前に、背後から伸びた手にさっと膝の裏を浚われた。爪先が弧を描き、すっぽ抜けた靴が転々と砂浜を弾んで歪な軌跡を残す。
気がつけば痩せた身体は、横抱きの格好で榎木津の腕の中にあった。
「えっ」
「濡れるのが怖くて、海で遊べるものか!」
榎木津は自分も靴をかなぐり捨てて、益田を抱えたまま波へと突進していく。ひゃあああ、という情けない悲鳴が浜辺に響いた。蹴り上げられた海水が飛沫となって前髪にまでかかる。
「うわっ、ちょっ、怖い!」
「怖いものか、僕の膝くらいまでしか無いぞ。降りてみろ、そら!」
「そういうことじゃありませんって――ああああんまり、揺らさないでくださいよぅ!」
巨岩に隠された浜で、榎木津の高笑いと益田の泣き声が交互に起こる。
どちらともなく声が止むと、辺りは急に静かになったようだ。依然として波は打ち寄せ続けているというのに。
濡れた靴下を弄る潮風が冷たくて、益田は爪先を丸めた。いつの間にか腕さえも榎木津の首に回してしまっている。手放すべきか思案していると、またひとつ波が寄せた。
間近に見下ろす榎木津の頬や鼻先が奇妙に紅潮して見えることで、益田はようやく夕暮れが迫っている事を知った。
「榎木津、さん」
海ならいくらでも来ればよかったじゃないですか。
心得違いをしているから制裁をしたまでだ。
はじける光の粒とともに、交わされた言葉が明滅する。
唇が震えるのは、吹き抜けた潮風が冷たかったからでは無い。
「今日此処に来たのって、もしかして―――僕、と」
夕映え色の頬が僅かに赤みを増して、鳶色の瞳が瞬いた。
「―――だったら、どうする?」
ざん、と波が打った。
どうすると問われても、益田は榎木津が望む答えなど知らない。自分の頭に浮かんだ考えだって、身の程知らずかつ自意識過剰な、僭越なものかも知れないのだ。
僭越ついでに、ただ無性に、榎木津の唇が欲しいと思ってしまった。
秋が迫る海に浸かって、小娘のように抱えられている滑稽な格好のままで。
飛沫をあちこちに被ってしまって風が当たるたびに冷えているのに、耳の辺りがやけに熱い。
「榎木津さん、僕も」
「ん?」
続ける言葉が思い浮かばず、益田は少し逡巡してから、そおっとそおっと、唇を寄せた。
「早まるな、君たちぃ―――!」
突然真横からどん、と衝撃が襲い、次の瞬間益田は榎木津の腕を離れ、海中に転落していた。
尻から落ちたので痛みは無いが、間髪入れず頭上を超えて行った波の所為で、文字通り頭の先までずぶぬれだ。
面くらいながらも張り付いた前髪を払いのけると、同じくずぶぬれの榎木津が何故か羽交い締めにされている光景が目に入った。わめいている榎木津を押さえつけているのは、どうも警官のようだ。まだ若い。
「何があったか知らないけど、こんな良い季節の盛りに妙なことを考えるもんじゃあない!」
「みょ――妙なこと?」
榎木津が警官を張り飛ばし、見慣れた制服姿が派手な打音と共に波間に沈む。
益田は慌てて立ち上がると、ひっくり返っている警官を助け起こした。
「大丈夫ですか」
「あ痛た…いえ…大丈夫です」
濡れた髪を払いのける仕草は、先刻益田がした其れによく似ている。
はっきりと見えた顔に既視感を覚えた益田が話しかける前に、目を丸くした青年が声を上げた。
「あれ…益田さん?ですよね―――ああ、益田さんだ」
一人だけさっさと陸に上がった榎木津が、犬のように頭を振って水を払っているのが見える。
「―――亀井、君?」
唖然とする益田の背後で、紅い夕陽がすうと沈んだ。
■
すっかり暗くなった街中を、一台のパトカーが走っている。
潮の匂いが充満した後部座席には、くたびれた毛布に包まった榎木津と益田が居た。榎木津の方は、遊びつかれたかしてすやすやと眠ってしまっている。その寝顔を横目で見やりながら、益田は溜息を落とした。
「吃驚しましたよ。盗人を捕らえてみれば益田さんなり、なんてね」
亀井は困っているのだか楽しんでいるのだか判らない口調でそう云うと、ハンドルを繰った。
「盗人って何だよ。いきなり突き飛ばされて、吃驚したのはこっちだって云うの。あんな辺鄙な場所も警らの範囲になったわけ?」
「そういう訳じゃないですけど、通報されちゃ行かない訳に行かないですからね」
「つ、通報?なんで?侵入罪か何か?」
面食らう益田の顔をバックミラーで確認した亀井は、左手でついと天を指す。
「あの浜ね、ちょっと上ったら見えるんですけど、高台のお屋敷に住んでるご主人から電話あったんですよ。海中に無理やり引き込まれようとしてる人がいるってね」
絹を裂くような悲鳴で何かと思った、って云ってるんですけど、心当たりあります?―――そう云うと亀井は半分だけ振り向いた。益田はその視線に気付かない振りをして、毛布に顎を埋める。
悲鳴を上げたのは間違いなく自分だが、「絹を裂くような」とはどういう事だろう。あの浜は岩や崖に囲まれる格好だったから、反響して甲高く聞こえたのだろう、恐らく。そうとでも思わなければやっていられない。
「すわ痴情のもつれの無理心中か、とか云われたら行かざるを得ないです」
「無い無いそれは、絶対無い!」
「どうしたんですかムキになって…まぁもう直ぐ署に着きますから、詳しい事情はそっちで伺います。世間話のつもりで聞かせてくださいね」
車が大きく曲がった拍子に、力の抜けた榎木津の身体がどさりと倒れこんできた。塩水を浴びた生乾きの髪が首に当たってこそばゆい。良く眠っているようだ。
こんなに眠りが深いと、榎木津を連れて東京に戻るのは困難だろう。2,3歩歩かせるのすら億劫だ。警察車両を借りるのも申し訳ない。この近くで宿を取るのが妥当な所だろうと思う。
榎木津の財布を勝手に漁る訳には行かないので、益田が身銭を切ることになる。そうなるとあまり立派な宿は難しい。近くに旨い魚を出す食堂でもあれば、そちらの方が重要だ。
ひとつの部屋に布団を2組敷いてもらって眠ろう。塩水まみれの服は水ですすいで干しておき、代わりに浴衣でも着せておこう。榎木津はきっと昼頃目覚めるだろうから、その時になって初めて、見慣れぬ寝所と着慣れぬ浴衣に気がつくのだ。
(そしたらどうします、榎木津さん)
毛布の下でそっと探った指先には、細かな砂粒と確かな体温が在る。
―――
菊川様リクエスト「海辺できゃっきゃと戯れる榎益」でした。ありがとうございました。
遅くなって申し訳ございません。異常に楽しく書けました(亀井も出ました)。
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