子供の時、犬を拾った。
電柱の下で、汚れた毛布と一緒に蜜柑箱に入れられていた。震える子犬は濡れていて、益々小さな身体を縮こまらせていたのを覚えている。吠えもせずに丸くて黒い瞳でじっと自分を見上げていた事も。
箱の中から抱き上げて、走って家に帰った。早く暖めてやらなければ、きっと死んでしまう。けれど犬を見た母は、困ったように眉を寄せてこう云った。
「元の所に戻しておいで。家では飼えないから」と。
そんな馬鹿な、と思った。濡れそぼった毛皮は腹に冷たかったけれど、確かに体温がある。生きている。子供心に、この弱い生き物を守ってやらなければと強く思う。ずっと飼えなくとも、一緒に風呂に入れてやって、布団の中で暖める事も許されないのか。僕は母にせがんだ。
母は家族のための食事を作る手を止めずに呟く。
「情が湧いてしまったら、困るから」
情とは何だ。友情とか愛情の類が、湧いて困る事などあるのだろうか。
呆然とする僕の腕の中で、そんな事など知らぬ子犬が抜け出そうともがいている。円らな瞳は、何を見ているのだろう。
自室の扉の前で膝を抱えている痩せた男を見て、青木は何故かそんな事を思い出した。
かん、と業とらしく音を立てて床を蹴ると、益田は膝に埋まった顔を上げた。長い前髪が鼻先にまでかかっている。青木の姿を認めると、前髪を払って笑っているのだか泣いているのだかはっきりしない顔をした。
「おかえりなさい、青木さん」
「何がおかえりなさいだよ。こっちは夜勤明けで、今から寝ようって云うのに」
ノブに鍵を差し込む背後で、益田がゆらりと立ち上がる気配がする。
「大丈夫ですよう、僕も此処で寝かせて」
欲しいだけ、と云い終わらぬうちに開いたドアの中に慌てて益田を押し込んだ。玄関に倒れこんだ背中に続いて部屋に滑り込み、後ろ手に施錠する。カーテンを閉めたままの室内は、薄暗いと云うのか薄明るいと云うのか、薄墨を刷いたように全体がくすんでいる。シャツ越しに浮いた肩甲骨にも灰青色の影が落ちていた。
「君ねぇ!」
「うひゃあすみません、うっかりです。そんな怒らんでくださいよう」
この下宿には署内の人間も住んでいるのだ。滅多な事を云わないで貰いたい。
というか、彼は何時から此処に座り込んでいたのだろう。三角座りで顔を伏せている男を見て通りがかった人間が何を思ったか想像するのも面倒で、青木は深々と溜息を吐く。
「君相手に怒る気にもならないよ。そこ退いてくれ、靴が脱げない」
くたびれた革靴を脱ぎ捨てて、眠るためにランニングと下穿きだけの格好になった。敷きっ放しで出掛けた布団は僅かに湿気を吸っているが、ただ眠るだけなら十分だ。掛け布団をばさりと捲ると、白いシーツの上に落ちる人影が一段と濃くなった。益田が立っている。ばさりと落ちた前髪は幽霊じみていて、布団を見ているのか俯いているのかは解らない。
タイを抜き取った首元が、妙に心もとなく見えた。
「益田君」
「僕も寝ます」
「布団一枚しか無いんだよ。そうで無くても、君と同衾なんてぞっとしない」
益田はひどいなぁ、と唇を尖らせ、いつも通り軽薄に笑った。まるで何でもない提案のようだ。
「どうせ直ぐ寝入っちゃうんでしょう?だったら良いじゃないですか」
「だからって」
「嫌だなぁ、何もしませんよう」
益田はそう云うと、ケケケと硬質な笑い声を上げる。性質の悪い冗談に、青木は眉を顰めた。
「ちょっとね、一人で寝るのがしんどいだけなんです。助けると思って、お願いします」
ぺこりと頭を下げる一瞬垣間見えた表情は、久しく見かけない其れだった。冗句も卑屈さも削ぎ落とした顔は、真摯と云っても良いだろう。
だがこの機にそんな顔をして見せるなんて、やはり卑怯だ、と青木は思う。布団に潜り込んで何も云わずにごろりと横を向くと、空いた背中側に益田が滑り込んできた。同じく背を向けているようで、薄い肉から張り出した背骨がこつりと触れる。
しんと静まった室内に、妙にしみじみとした益田の声が広がる。
「青木さんの布団、ちょっと煙草の匂いがしますねぇ。警察時代の仮眠室思い出します」
そう云う益田からは、嗅ぎ慣れぬ甘い香りがしている。石鹸に似ているが、番台で売っている安いシャボンでも蛇口からぶら下がっているレモン石鹸とも全く違う。ふわふわとした花のような匂いは、益田のイメエジとは一致しない。こう云った香りが似合うのは―――栗色の柔らかな髪が、さっと頭を過ぎった。
「―――夢ですよ」
「えっ?」
突然の声に、青木は振り向きそうになった。
「夢だったんです」
「そう… 良い夢?悪い夢?」
「もう解りませんけど、起きたら消えてました。夢の続きが始まったら、悪くなるに決まってるんです。だから飛び出して、此処に来ました」
どうもすみませんねぇ、と云って笑った気配があった。触れた背中が小刻みに震えている。
「益田君」
「すみませんもう眠くて…起きたら出て行きますから…お先に…」
語尾は掠れて消え、深い寝息に代わった。ふうと静かな吐息が溜息のようだ。
置き時計の針の音と規則正しい呼吸が混じる。
其れだけで住み慣れた室内がなんだか異空間めいて、落ち着かない。益田に気を遣ってしまって、素直に足をずらす事も出来なかった。
青木は横目で天井を仰ぐ。この部屋を見下ろす事が出来たら、どんなに滑稽な光景だろうか。そうする代わりに、もう一度男の名を呼んだ。
「君本当は、寝てなんかいないでしょう―――」
僅かに触れた背が一瞬強張ったが、再び吐き出された深い呼吸と共に、青木の声は宙に溶ける。花の香りは益々甘く、夢の中まで忍んできそうだ。ならば夢など見ないように深く眠りたい。背を向けて横たわっている誰かの事など、目覚めた時には忘れるほどに。
けれどじわじわと温まる布団が、自分以外の肌の温度を教えている。
あの犬をこっそりと寝床に引き入れた夜もそうだった。温もりを与えることが、そして自らの手で其れを奪う事が、あの犬にとってどれ程の喜びと絶望を与えるかなど幼かった青木は全く考えもしなかった。
(情ならとうに湧いている)
其れが友情なのか同情なのか、或いは一種の愛情なのかは知らないけれど。
ただ―――
可哀想にと、そう思った。
―――
無記名でのリクエスト「榎木津と寝た翌日に青木と寝る益田」でした。ありがとうございました。
リク内容見ないと何が起こってるかわかりにくくてすみません。卑怯な益田と青木の情が書きたかったです。
電柱の下で、汚れた毛布と一緒に蜜柑箱に入れられていた。震える子犬は濡れていて、益々小さな身体を縮こまらせていたのを覚えている。吠えもせずに丸くて黒い瞳でじっと自分を見上げていた事も。
箱の中から抱き上げて、走って家に帰った。早く暖めてやらなければ、きっと死んでしまう。けれど犬を見た母は、困ったように眉を寄せてこう云った。
「元の所に戻しておいで。家では飼えないから」と。
そんな馬鹿な、と思った。濡れそぼった毛皮は腹に冷たかったけれど、確かに体温がある。生きている。子供心に、この弱い生き物を守ってやらなければと強く思う。ずっと飼えなくとも、一緒に風呂に入れてやって、布団の中で暖める事も許されないのか。僕は母にせがんだ。
母は家族のための食事を作る手を止めずに呟く。
「情が湧いてしまったら、困るから」
情とは何だ。友情とか愛情の類が、湧いて困る事などあるのだろうか。
呆然とする僕の腕の中で、そんな事など知らぬ子犬が抜け出そうともがいている。円らな瞳は、何を見ているのだろう。
自室の扉の前で膝を抱えている痩せた男を見て、青木は何故かそんな事を思い出した。
かん、と業とらしく音を立てて床を蹴ると、益田は膝に埋まった顔を上げた。長い前髪が鼻先にまでかかっている。青木の姿を認めると、前髪を払って笑っているのだか泣いているのだかはっきりしない顔をした。
「おかえりなさい、青木さん」
「何がおかえりなさいだよ。こっちは夜勤明けで、今から寝ようって云うのに」
ノブに鍵を差し込む背後で、益田がゆらりと立ち上がる気配がする。
「大丈夫ですよう、僕も此処で寝かせて」
欲しいだけ、と云い終わらぬうちに開いたドアの中に慌てて益田を押し込んだ。玄関に倒れこんだ背中に続いて部屋に滑り込み、後ろ手に施錠する。カーテンを閉めたままの室内は、薄暗いと云うのか薄明るいと云うのか、薄墨を刷いたように全体がくすんでいる。シャツ越しに浮いた肩甲骨にも灰青色の影が落ちていた。
「君ねぇ!」
「うひゃあすみません、うっかりです。そんな怒らんでくださいよう」
この下宿には署内の人間も住んでいるのだ。滅多な事を云わないで貰いたい。
というか、彼は何時から此処に座り込んでいたのだろう。三角座りで顔を伏せている男を見て通りがかった人間が何を思ったか想像するのも面倒で、青木は深々と溜息を吐く。
「君相手に怒る気にもならないよ。そこ退いてくれ、靴が脱げない」
くたびれた革靴を脱ぎ捨てて、眠るためにランニングと下穿きだけの格好になった。敷きっ放しで出掛けた布団は僅かに湿気を吸っているが、ただ眠るだけなら十分だ。掛け布団をばさりと捲ると、白いシーツの上に落ちる人影が一段と濃くなった。益田が立っている。ばさりと落ちた前髪は幽霊じみていて、布団を見ているのか俯いているのかは解らない。
タイを抜き取った首元が、妙に心もとなく見えた。
「益田君」
「僕も寝ます」
「布団一枚しか無いんだよ。そうで無くても、君と同衾なんてぞっとしない」
益田はひどいなぁ、と唇を尖らせ、いつも通り軽薄に笑った。まるで何でもない提案のようだ。
「どうせ直ぐ寝入っちゃうんでしょう?だったら良いじゃないですか」
「だからって」
「嫌だなぁ、何もしませんよう」
益田はそう云うと、ケケケと硬質な笑い声を上げる。性質の悪い冗談に、青木は眉を顰めた。
「ちょっとね、一人で寝るのがしんどいだけなんです。助けると思って、お願いします」
ぺこりと頭を下げる一瞬垣間見えた表情は、久しく見かけない其れだった。冗句も卑屈さも削ぎ落とした顔は、真摯と云っても良いだろう。
だがこの機にそんな顔をして見せるなんて、やはり卑怯だ、と青木は思う。布団に潜り込んで何も云わずにごろりと横を向くと、空いた背中側に益田が滑り込んできた。同じく背を向けているようで、薄い肉から張り出した背骨がこつりと触れる。
しんと静まった室内に、妙にしみじみとした益田の声が広がる。
「青木さんの布団、ちょっと煙草の匂いがしますねぇ。警察時代の仮眠室思い出します」
そう云う益田からは、嗅ぎ慣れぬ甘い香りがしている。石鹸に似ているが、番台で売っている安いシャボンでも蛇口からぶら下がっているレモン石鹸とも全く違う。ふわふわとした花のような匂いは、益田のイメエジとは一致しない。こう云った香りが似合うのは―――栗色の柔らかな髪が、さっと頭を過ぎった。
「―――夢ですよ」
「えっ?」
突然の声に、青木は振り向きそうになった。
「夢だったんです」
「そう… 良い夢?悪い夢?」
「もう解りませんけど、起きたら消えてました。夢の続きが始まったら、悪くなるに決まってるんです。だから飛び出して、此処に来ました」
どうもすみませんねぇ、と云って笑った気配があった。触れた背中が小刻みに震えている。
「益田君」
「すみませんもう眠くて…起きたら出て行きますから…お先に…」
語尾は掠れて消え、深い寝息に代わった。ふうと静かな吐息が溜息のようだ。
置き時計の針の音と規則正しい呼吸が混じる。
其れだけで住み慣れた室内がなんだか異空間めいて、落ち着かない。益田に気を遣ってしまって、素直に足をずらす事も出来なかった。
青木は横目で天井を仰ぐ。この部屋を見下ろす事が出来たら、どんなに滑稽な光景だろうか。そうする代わりに、もう一度男の名を呼んだ。
「君本当は、寝てなんかいないでしょう―――」
僅かに触れた背が一瞬強張ったが、再び吐き出された深い呼吸と共に、青木の声は宙に溶ける。花の香りは益々甘く、夢の中まで忍んできそうだ。ならば夢など見ないように深く眠りたい。背を向けて横たわっている誰かの事など、目覚めた時には忘れるほどに。
けれどじわじわと温まる布団が、自分以外の肌の温度を教えている。
あの犬をこっそりと寝床に引き入れた夜もそうだった。温もりを与えることが、そして自らの手で其れを奪う事が、あの犬にとってどれ程の喜びと絶望を与えるかなど幼かった青木は全く考えもしなかった。
(情ならとうに湧いている)
其れが友情なのか同情なのか、或いは一種の愛情なのかは知らないけれど。
ただ―――
可哀想にと、そう思った。
―――
無記名でのリクエスト「榎木津と寝た翌日に青木と寝る益田」でした。ありがとうございました。
リク内容見ないと何が起こってるかわかりにくくてすみません。卑怯な益田と青木の情が書きたかったです。
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