今日の益田龍一は、明らかに様子が可笑しい。
妙にそわそわ気忙しいのは、別に構わない。いつもの事だ。
だが、未だ何もしていない(するつもりも無い)のに、
近くを通ろうとするだけで大袈裟に身を引いたり、肩をぎゅうと縮ませたりする。
1歩近づけば、2歩下がる。
3歩近づけば、無理やり用事を思い出して、子鼠のように小走りで逃げ出してしまう。
逃げられると苛苛するのが神の常である事は、十分に知っている筈なのに。
「…だぁから、逃げ隠れは無駄だと何回云ったら解るのだ!」
「うわあああ!」
―――そんな訳で、捕まえられた訳だ。
足早に帰ろうとした所を、階段の陰で待ち構えていた榎木津に。
薄っぺらな体に両腕を回して抱き込んでしまえば、油が切れた人形ほどにぎしりと固まってしまう筈の益田が手足をじたばたさせて逃れようと力の限り暴れている。
やはり、妙だ。
抵抗を止めない益田をぎりぎりと締め上げていた榎木津は、それとは違う「違和感」に気づいて眉を顰めた。
その正体を突き止めるべく、動物的な勘で益田の首筋に鼻を埋める。
肌寒い廊下に響き渡る「いやああ」という妙な悲鳴が萎んでいくのと同時に、榎木津がぽつりと呟く。
「…黴臭い」
「云われなくても知ってますよう、あああ」
がくりと項垂れて揺れる黒髪からは、慣れた石鹸の匂いがする。
草臥れたようなシャツからも似たような匂いがするはずだが、湿りの抜けていないような、奇妙な気配を帯びていた。
「黴臭いぞマスヤマ!」
「2回も云わないでください…あああだから梅雨は嫌いなんですよう、洗っても部屋に干すから乾かないし、部屋の中には湿気が篭って蒸すし…騙し騙しやってましたけどもう着替えが尽きて、今日びシャツも安くないじゃないですか、ねぇ」
善良な一般市民である益田は、榎木津のように大量の衣服を所有している訳では無いのだ。
ぐったりと項垂れる下僕の襟は着用者と同じく何処かよれていて、榎木津はすんと鼻を鳴らした。
「だから逃げ回ってたのか、馬鹿め。カビ馬鹿め」
「まだカビは生えて無いですよ!ああでもこの天気が続いたら時間の問題かなぁ…やっぱり気になりますよねぇこの臭い、榎木津さんはきれいな服を着てますけどあんまりひっついてたら伝染りますよ」
益田は続く雨のようにじめじめとぼやく。
まだ僅かに湿った布越しに伝わる体温が生暖かいと、榎木津は思った。
■
次の日は長雨が嘘のようにからりと晴れた。
今日の空のようにしゃんと爽やかな洗い上げのシャツを前に、益田が目を瞬かせている。
「え、和寅さん、これ頂けるんですか」
「お礼なら私じゃなく先生に云うんだね。うちの従業員に黴生した服着てられると困るとさ」
「だからまだカビは生えてませんって!やーでも嬉しいなぁ」
シャツを肩に合わせ、浮かれた益田はくるりと回る。
柔らかな裾が空気を含んで膨らんだ。
「榎木津さん、ありがとうございます」
「ふん」
益田の方をちらりと見たきり、榎木津は探偵椅子に深く腰掛けて窓の外を見ている。
何時もならば高らかに「神からの賜り物だぞ!」とでも云いそうなものだが。
―――今日の榎木津礼二郎は、明らかに様子が可笑しい。
―――
6月は邪魅と、生乾き益田の季節です。
妙にそわそわ気忙しいのは、別に構わない。いつもの事だ。
だが、未だ何もしていない(するつもりも無い)のに、
近くを通ろうとするだけで大袈裟に身を引いたり、肩をぎゅうと縮ませたりする。
1歩近づけば、2歩下がる。
3歩近づけば、無理やり用事を思い出して、子鼠のように小走りで逃げ出してしまう。
逃げられると苛苛するのが神の常である事は、十分に知っている筈なのに。
「…だぁから、逃げ隠れは無駄だと何回云ったら解るのだ!」
「うわあああ!」
―――そんな訳で、捕まえられた訳だ。
足早に帰ろうとした所を、階段の陰で待ち構えていた榎木津に。
薄っぺらな体に両腕を回して抱き込んでしまえば、油が切れた人形ほどにぎしりと固まってしまう筈の益田が手足をじたばたさせて逃れようと力の限り暴れている。
やはり、妙だ。
抵抗を止めない益田をぎりぎりと締め上げていた榎木津は、それとは違う「違和感」に気づいて眉を顰めた。
その正体を突き止めるべく、動物的な勘で益田の首筋に鼻を埋める。
肌寒い廊下に響き渡る「いやああ」という妙な悲鳴が萎んでいくのと同時に、榎木津がぽつりと呟く。
「…黴臭い」
「云われなくても知ってますよう、あああ」
がくりと項垂れて揺れる黒髪からは、慣れた石鹸の匂いがする。
草臥れたようなシャツからも似たような匂いがするはずだが、湿りの抜けていないような、奇妙な気配を帯びていた。
「黴臭いぞマスヤマ!」
「2回も云わないでください…あああだから梅雨は嫌いなんですよう、洗っても部屋に干すから乾かないし、部屋の中には湿気が篭って蒸すし…騙し騙しやってましたけどもう着替えが尽きて、今日びシャツも安くないじゃないですか、ねぇ」
善良な一般市民である益田は、榎木津のように大量の衣服を所有している訳では無いのだ。
ぐったりと項垂れる下僕の襟は着用者と同じく何処かよれていて、榎木津はすんと鼻を鳴らした。
「だから逃げ回ってたのか、馬鹿め。カビ馬鹿め」
「まだカビは生えて無いですよ!ああでもこの天気が続いたら時間の問題かなぁ…やっぱり気になりますよねぇこの臭い、榎木津さんはきれいな服を着てますけどあんまりひっついてたら伝染りますよ」
益田は続く雨のようにじめじめとぼやく。
まだ僅かに湿った布越しに伝わる体温が生暖かいと、榎木津は思った。
■
次の日は長雨が嘘のようにからりと晴れた。
今日の空のようにしゃんと爽やかな洗い上げのシャツを前に、益田が目を瞬かせている。
「え、和寅さん、これ頂けるんですか」
「お礼なら私じゃなく先生に云うんだね。うちの従業員に黴生した服着てられると困るとさ」
「だからまだカビは生えてませんって!やーでも嬉しいなぁ」
シャツを肩に合わせ、浮かれた益田はくるりと回る。
柔らかな裾が空気を含んで膨らんだ。
「榎木津さん、ありがとうございます」
「ふん」
益田の方をちらりと見たきり、榎木津は探偵椅子に深く腰掛けて窓の外を見ている。
何時もならば高らかに「神からの賜り物だぞ!」とでも云いそうなものだが。
―――今日の榎木津礼二郎は、明らかに様子が可笑しい。
―――
6月は邪魅と、生乾き益田の季節です。
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