邪魅ネタバレを含みます。未読の方はご注意ください。
車がゆっくりとロータリーに侵入して止まり、益田は顔を上げた。隣に座っていた青木は、ドアを開けてすっと降りてしまう。益田もそれに続こうとしたが、ふっと前方に目をやる。運転席の刑事が、困ったように助手席に声を掛けているのだ。それでも座っているかつての上司が俯いたままなので、益田は手を伸ばし、疲れたような肩を揺さぶる。
「山下さん、山下さん?」
途端山下は、弾かれたようにシートから身を起こした。シートベルトに阻まれてつんのめり、げほげほと苦しそうに咳き込む様子を、益田が面食らった顔で見ている。
「山下さん?あの、着きましたけど」
「ああ、解ってる…参ったな」
山下は運転したいた刑事にご苦労だったなと云うような声を掛け、軽く頭を振った。益田は彼のそんな仕草に見覚えがあった。何か、脳にこびりついた嫌なものを振り落とそうとする時の動きだ。シートベルトを外し、車外に出た山下と一緒に、益田も慌ててドアを開ける。バタンとドアを閉めた途端、今まで乗っていたパトカーは署の裏手へと走っていった。濁った色の排気ガスが晴れると、署の前に立っているのは山下と益田2人だけになっていた。
「寝てたんですか」
「まぁ軽くうとうととな。それでも久々の睡眠だよ。ああ、私も若くないなあ」
伸びをして、首を倒してごきりと鳴らす。元々白い肌は疲れで更に血の気を失っているようだ。瞼に至っては青い程だ。
署内に戻っていく彼の背を追い、並びながら、益田はその尖った横顔におずおずと話しかけた。
「随分、夢見が悪そうでしたけれど」
山下は一瞬驚いたように振り向いて、足を止めると廊下に設えてあるソファにどかりと腰掛けた。益田が肩を竦めると、大袈裟な溜息を吐きながら横に座るように促す。いかにもビニールとウレタンで出来た其れは探偵社の豪奢な長椅子とは比べ物にもならなかったが、背凭れ代わりのコンクリート壁と共に懐かしい感触を以って益田を受け止めた。
「折角人が何事も無かった事で流してるのに、混ぜっ返すんじゃないよ」
「はぁ、すみません」
叱られた益田は決まり悪げに目の前に垂れた前髪を指先で捏ねる。山下と仕事をしていた頃は無かった部分だ。山下は横目でちらりとその様子を見ると、僅かにでも眠った筈なのにより疲弊した格好で、壁に身体を凭せ掛ける。後頭部がぶつかって、ごつんと重い音がした。
「案の定、酷い夢を見たよ」
「またですか」
「まただよ。まぁ夢ならまだ良い、目が覚めたら終わりだ」
山下が何の事を云っているのか解ってしまい、益田もまた寂欝とした気分になった。眠っている間も、目が覚めている間もお構いなしに世界は回る。良い方向であろうと、悪い方向であろうと、止まる事無く。現に彼らの中で未だに整理がつかないままに、「刑事事件」としての今回は収束へと向かっているのだ。近いうちに事務的に整理された其れは現場の手を離れ、司直へ送られる事になる。
2人は何も云う事無く、ただぼんやりと中空を見つめていた。薄暗くくすんだ天井の隅に、澱みが溜まっているように思える。幾人かの刑事が彼らの前を通り過ぎていった。中には、天井に何かあるのかと思いつられて見上げる者もあったが、何も無いと気付くと不思議そうに去っていき、廊下にはまた2人だけが残された。
「―――益田君」
「は、はい」
「探偵という仕事は楽しいかね」
「はいぃ?」
予想外の質問に益田が目を白黒させていると、山下はふと気付いたように小さく頷き、腹を折って小さく笑う。
「いやいや、私まで警察を辞めると思われては困るよ。ちょっとした興味だ。こうして話す機会も無いだろうし、一度聞いておこうと思っただけだ」
「ああそうですか…吃驚した。山下さんが僕の後輩になっちゃうのかと思った…えっとですねぇ、楽しいか楽しくないかって云われると困るんですけど」
指を組んで、益田はまた中空に目をやった。何か変わったものが見える訳でも無い。だからこそ灰色の視界に自分の考えだけをぼんやりと浮かべる事が出来る。
長い前髪を指先ですっと払い、晴れた視界で山下に向き直って云った。
「―――自分に向いてるなとは、思います」
山下の細い瞼は2,3度瞬いて、それから僅かに細められる。口元が少しだけ動き、「そうか」と呟いた。
益田もなんだか安堵して、へらりと笑う。警察らしくない、調子の良い笑いだと山下によく指摘された顔だ。けれど益田の顔を見ても山下は何も云わず、代わりに「喉が渇いた」と云った。
「益田君、何か暖かい飲み物を煎れてきてくれないか」
「えぇっ、僕もう警察の人間じゃないんで、お湯くださいとも云いづらいんですが」
「散々居座って、今更だろう。何か云われたら山下に云われたと云え。今迄碌な連絡も寄越さなかったんだ、かつての上司に孝行して行くと良い」
しっしっと猫を追い払うような仕草までされて、益田は渋々席を立つ。
給湯室のコンロには使い込まれた薬缶が置き忘れられていたので、其れを借りて湯を沸かしながら益田は戸棚を開けた。赤銅色の茶缶に並んで、埃を被ったコーヒーサイフォンがあった。皆簡単な茶ばかり飲んで、こちらは使っていないのだろう。益田は慣れた其れに手を伸ばしかけたが、逡巡の後、急須と湯飲みを2つ取り出すに至った。茶缶をばさばさと振って茶葉を茶漉しに落としていく。濃い緑色。
若草色の温もりを口に含む事で、少しでもあの疲れた肌に血色が戻るなら。そして「あまり美味しくないな」と笑ってくれるのならば。
自分は少し軽くなって此処を出る事が出来る。益田はそう思った。
軽くなった分だけ、山下の背負った労を分ける事が出来るかどうかは、彼には解らなかったけれど。
笛に似た高らかな音が益田を急かした。
―――
無記名でのリクエスト『邪魅後の山下と益田』でした。ありがとうございました。
警察関係者は書き慣れてなくて捏造度合いが凄いですね…でも楽しかったです。
「山下さん、山下さん?」
途端山下は、弾かれたようにシートから身を起こした。シートベルトに阻まれてつんのめり、げほげほと苦しそうに咳き込む様子を、益田が面食らった顔で見ている。
「山下さん?あの、着きましたけど」
「ああ、解ってる…参ったな」
山下は運転したいた刑事にご苦労だったなと云うような声を掛け、軽く頭を振った。益田は彼のそんな仕草に見覚えがあった。何か、脳にこびりついた嫌なものを振り落とそうとする時の動きだ。シートベルトを外し、車外に出た山下と一緒に、益田も慌ててドアを開ける。バタンとドアを閉めた途端、今まで乗っていたパトカーは署の裏手へと走っていった。濁った色の排気ガスが晴れると、署の前に立っているのは山下と益田2人だけになっていた。
「寝てたんですか」
「まぁ軽くうとうととな。それでも久々の睡眠だよ。ああ、私も若くないなあ」
伸びをして、首を倒してごきりと鳴らす。元々白い肌は疲れで更に血の気を失っているようだ。瞼に至っては青い程だ。
署内に戻っていく彼の背を追い、並びながら、益田はその尖った横顔におずおずと話しかけた。
「随分、夢見が悪そうでしたけれど」
山下は一瞬驚いたように振り向いて、足を止めると廊下に設えてあるソファにどかりと腰掛けた。益田が肩を竦めると、大袈裟な溜息を吐きながら横に座るように促す。いかにもビニールとウレタンで出来た其れは探偵社の豪奢な長椅子とは比べ物にもならなかったが、背凭れ代わりのコンクリート壁と共に懐かしい感触を以って益田を受け止めた。
「折角人が何事も無かった事で流してるのに、混ぜっ返すんじゃないよ」
「はぁ、すみません」
叱られた益田は決まり悪げに目の前に垂れた前髪を指先で捏ねる。山下と仕事をしていた頃は無かった部分だ。山下は横目でちらりとその様子を見ると、僅かにでも眠った筈なのにより疲弊した格好で、壁に身体を凭せ掛ける。後頭部がぶつかって、ごつんと重い音がした。
「案の定、酷い夢を見たよ」
「またですか」
「まただよ。まぁ夢ならまだ良い、目が覚めたら終わりだ」
山下が何の事を云っているのか解ってしまい、益田もまた寂欝とした気分になった。眠っている間も、目が覚めている間もお構いなしに世界は回る。良い方向であろうと、悪い方向であろうと、止まる事無く。現に彼らの中で未だに整理がつかないままに、「刑事事件」としての今回は収束へと向かっているのだ。近いうちに事務的に整理された其れは現場の手を離れ、司直へ送られる事になる。
2人は何も云う事無く、ただぼんやりと中空を見つめていた。薄暗くくすんだ天井の隅に、澱みが溜まっているように思える。幾人かの刑事が彼らの前を通り過ぎていった。中には、天井に何かあるのかと思いつられて見上げる者もあったが、何も無いと気付くと不思議そうに去っていき、廊下にはまた2人だけが残された。
「―――益田君」
「は、はい」
「探偵という仕事は楽しいかね」
「はいぃ?」
予想外の質問に益田が目を白黒させていると、山下はふと気付いたように小さく頷き、腹を折って小さく笑う。
「いやいや、私まで警察を辞めると思われては困るよ。ちょっとした興味だ。こうして話す機会も無いだろうし、一度聞いておこうと思っただけだ」
「ああそうですか…吃驚した。山下さんが僕の後輩になっちゃうのかと思った…えっとですねぇ、楽しいか楽しくないかって云われると困るんですけど」
指を組んで、益田はまた中空に目をやった。何か変わったものが見える訳でも無い。だからこそ灰色の視界に自分の考えだけをぼんやりと浮かべる事が出来る。
長い前髪を指先ですっと払い、晴れた視界で山下に向き直って云った。
「―――自分に向いてるなとは、思います」
山下の細い瞼は2,3度瞬いて、それから僅かに細められる。口元が少しだけ動き、「そうか」と呟いた。
益田もなんだか安堵して、へらりと笑う。警察らしくない、調子の良い笑いだと山下によく指摘された顔だ。けれど益田の顔を見ても山下は何も云わず、代わりに「喉が渇いた」と云った。
「益田君、何か暖かい飲み物を煎れてきてくれないか」
「えぇっ、僕もう警察の人間じゃないんで、お湯くださいとも云いづらいんですが」
「散々居座って、今更だろう。何か云われたら山下に云われたと云え。今迄碌な連絡も寄越さなかったんだ、かつての上司に孝行して行くと良い」
しっしっと猫を追い払うような仕草までされて、益田は渋々席を立つ。
給湯室のコンロには使い込まれた薬缶が置き忘れられていたので、其れを借りて湯を沸かしながら益田は戸棚を開けた。赤銅色の茶缶に並んで、埃を被ったコーヒーサイフォンがあった。皆簡単な茶ばかり飲んで、こちらは使っていないのだろう。益田は慣れた其れに手を伸ばしかけたが、逡巡の後、急須と湯飲みを2つ取り出すに至った。茶缶をばさばさと振って茶葉を茶漉しに落としていく。濃い緑色。
若草色の温もりを口に含む事で、少しでもあの疲れた肌に血色が戻るなら。そして「あまり美味しくないな」と笑ってくれるのならば。
自分は少し軽くなって此処を出る事が出来る。益田はそう思った。
軽くなった分だけ、山下の背負った労を分ける事が出来るかどうかは、彼には解らなかったけれど。
笛に似た高らかな音が益田を急かした。
―――
無記名でのリクエスト『邪魅後の山下と益田』でした。ありがとうございました。
警察関係者は書き慣れてなくて捏造度合いが凄いですね…でも楽しかったです。
PR
トラックバック
トラックバックURL: