牛鍋を囲む会食は終わり、下げられた鉄鍋の代わりに、厚手の湯飲みに煎れられた緑茶が運ばれてきた。柔らかな湯気を立てる其れを、司は節の立った手で持ち上げて、口に運ぶ。
途端に視界が白く煙り、しまったとばかりに身を引いた。金縁のフレームを取り外して確かめれば、案の定嵌め込まれた硝子は真っ白に曇ってしまっていた。ポケットからハンカチーフを取り出し、慣れた所作で拭い取る。霧が晴れるよりも簡単に、僅かな厚みを持つレンズは透明さを取り戻した。
司は事も無げに眼鏡をかけ直し、晴れた視界の向こうに益田の不思議な表情を認めた。薄く開いた程度の口元からは未だ八重歯は見えないが、やや細い吊り気味の眼がやけに興味深げにこちらを見ているのだ。
だから敢えてにこりと笑い、もっと幼い子供にそうするように、身を乗り出して益田に話しかけてやった。
「どうしたの、益田ちゃん」
「司さん、目悪いんですか?」
「んん?」
意外な質問だった。咄嗟に触れた弦は硬質だが、体温で幾分温まっている。
「今更だなぁ、目が良かったらこんなもの掛けてないよう」
「そんな柄モノのシャツ着てる人ですから、アクセサリーで掛けてるのかと思ってたんですけどね。ホラ僕も職業柄良く変装するじゃないすか、だから一本誂えようかと考えてまして」
益田は頭を掻きながら、けけけ、と決まり悪げに笑っている。司も誘われてくつくつと笑った。
臙脂色のタイを白いシャツに合わせた黒髪の男と、白や黄色の仏桑華が袖に身頃に咲き乱れる真っ赤なシャツを着て頭を五厘に刈った男。誰が見てもまともな組み合わせでは無い2人が、同じ鍋を突いている。かなり奇妙な光景だ。
間接的に彼らを繋いだ中間部の男は、今日は此処には来ていない。ふらりと事務所に現れた司が、益田を夕食にと連れ出したのだ。3人でこの店を訪れたりするうち、何時しかそれなりに仲良くなっていた。
榎木津の古い友人である司に、益田の方が気を遣って追従している事もあるのだろう。けれど、呼べばいそいそとついて来る姿はまるで子犬のようで、素直に好感を持った。榎木津はきっと認めたがらないだろう。何せ自分は彼を散々に扱う癖に、他人がちょっと甘い顔を見せるだけで噛み付いてくる男だ。
鬼の居ぬ間の何とやらだ、司は眼鏡を外して弦を折り畳むと、益田の眼前に差し出した。
「掛けてみる?」
「えっ」
益田は目をぱちぱちしながらも、其れを受け取った。橙色の明かりを浴びて、金色が更に艶を帯びる。
云われるがまま、不慣れな仕草でそっと其れを装着した途端、頭を殴られでもしたように大袈裟に仰け反って見せた。
「うわぁ、何だこれ。ぐらぐらします」
駄目だ駄目だと云いながらも、きょろきょろと周囲を見回しては視界の齟齬を楽しんでいる様子だ。壁に掛かった時計の文字板、卓の端に立て掛けられた品書き。司も頬杖を突いて、彼の様子を見ていた。補正を失った視力では益田の顔立ちまで判断する事は出来なかったが。
やがて益田は窓硝子に、いや、窓硝子に映る自分の姿に目を止める。冷たい硝子板に鼻先が触れそうなほど近づいて、見慣れた筈の顔を初対面の相手に会うように眺め、「似合いませんねぇ」と笑った。
芽生えたばかりの若枝に似た華奢な金縁は、日焼けした男の肌には堅気の商売では無いと思わせる独特の雰囲気を匂わせるに違いないが、黙っていれば真面目極まる青年の顔にはいささか派手過ぎるきらいがあると思う。もし彼が将来的に視力を落とし、眼鏡を求めるようになるとしたら、金メッキでギラギラしたものよりもシンプルな丸眼鏡が似合うかもしれない。柔和な印象で、益田が希望する人好きする探偵に―――
「―――司さん?」
益田はいつの間にか窓から視線を外していた。
「あぁ御免御免、どうしたの」
「どうも有難うございました、眼鏡返します」
「嗚呼そう、どう?良く見えた?」
「いやぁ僕には眼鏡要らないみたいです。物の輪郭がぼやけちゃって、頭痛くなってきました」
似合わない眼鏡を掛けたままで、ふらふらと頭を揺らした。それから、ふと気付いたように卓を超えて、しげしげと司の顔を覗き込む。不躾とも思える距離に司は思わず目を丸くしたが、焦点がずれている益田はそんな簡単な事にすら気付かない。
「このくらい近づかないと、人の顔も判らないんですねぇ」
誰よりも人との距離を気にする筈の男が、たかがレンズ1枚で。
何やら達成感めいた感情が身の内から湧き上がるのを感じたが、司はそれを隠して、益田の尖った輪郭から眼鏡をすっと外した。
「はい、おしまい。あんまり君の記憶がぐらぐらしてたら、エヅが心配するものね」
正常な視界で物凄く近くに見えるつるりとした顔に驚いたのか、益田は跳ねるように席に戻った。木の椅子が揺れてがたがたと不平を申し立てる。司が元通り眼鏡を掛けると、何やら面映げに茶を啜っている裸眼の益田がはっきりと見えた。
「眼鏡は便利だよ?これがあると益田ちゃんの可愛い顔が良ぉく見えるし」
「からかわないでくださいよぅ。あっ顔で思い出した、眼鏡ひとつで随分顔立ちって違って見えますね。やっぱり僕も一つ作ろうかなぁ」
「作るんだったら馴染みの店紹介しようか。益田って子が来たら伊達眼鏡見せてあげてって云っておくよ」
適当な紙の裏に店の住所を書いてやりながら、司が云う。
「でも眼鏡なんか掛けてないほうが、黒い目がよく見えて可愛いよ?」
日に日に上達する上滑った演技など看破する、表情豊かな黒曜石を、司はなかなかに気に入っている。彼の若者らしいこんな愛らしさも、榎木津は決して認めたがらないだろう。
―――
林檎様リクエスト「司×益田」でした。ありがとうございました。
折角なので眼鏡属性を活かしたく思い、「司の眼鏡は度入り」でひとつ。
途端に視界が白く煙り、しまったとばかりに身を引いた。金縁のフレームを取り外して確かめれば、案の定嵌め込まれた硝子は真っ白に曇ってしまっていた。ポケットからハンカチーフを取り出し、慣れた所作で拭い取る。霧が晴れるよりも簡単に、僅かな厚みを持つレンズは透明さを取り戻した。
司は事も無げに眼鏡をかけ直し、晴れた視界の向こうに益田の不思議な表情を認めた。薄く開いた程度の口元からは未だ八重歯は見えないが、やや細い吊り気味の眼がやけに興味深げにこちらを見ているのだ。
だから敢えてにこりと笑い、もっと幼い子供にそうするように、身を乗り出して益田に話しかけてやった。
「どうしたの、益田ちゃん」
「司さん、目悪いんですか?」
「んん?」
意外な質問だった。咄嗟に触れた弦は硬質だが、体温で幾分温まっている。
「今更だなぁ、目が良かったらこんなもの掛けてないよう」
「そんな柄モノのシャツ着てる人ですから、アクセサリーで掛けてるのかと思ってたんですけどね。ホラ僕も職業柄良く変装するじゃないすか、だから一本誂えようかと考えてまして」
益田は頭を掻きながら、けけけ、と決まり悪げに笑っている。司も誘われてくつくつと笑った。
臙脂色のタイを白いシャツに合わせた黒髪の男と、白や黄色の仏桑華が袖に身頃に咲き乱れる真っ赤なシャツを着て頭を五厘に刈った男。誰が見てもまともな組み合わせでは無い2人が、同じ鍋を突いている。かなり奇妙な光景だ。
間接的に彼らを繋いだ中間部の男は、今日は此処には来ていない。ふらりと事務所に現れた司が、益田を夕食にと連れ出したのだ。3人でこの店を訪れたりするうち、何時しかそれなりに仲良くなっていた。
榎木津の古い友人である司に、益田の方が気を遣って追従している事もあるのだろう。けれど、呼べばいそいそとついて来る姿はまるで子犬のようで、素直に好感を持った。榎木津はきっと認めたがらないだろう。何せ自分は彼を散々に扱う癖に、他人がちょっと甘い顔を見せるだけで噛み付いてくる男だ。
鬼の居ぬ間の何とやらだ、司は眼鏡を外して弦を折り畳むと、益田の眼前に差し出した。
「掛けてみる?」
「えっ」
益田は目をぱちぱちしながらも、其れを受け取った。橙色の明かりを浴びて、金色が更に艶を帯びる。
云われるがまま、不慣れな仕草でそっと其れを装着した途端、頭を殴られでもしたように大袈裟に仰け反って見せた。
「うわぁ、何だこれ。ぐらぐらします」
駄目だ駄目だと云いながらも、きょろきょろと周囲を見回しては視界の齟齬を楽しんでいる様子だ。壁に掛かった時計の文字板、卓の端に立て掛けられた品書き。司も頬杖を突いて、彼の様子を見ていた。補正を失った視力では益田の顔立ちまで判断する事は出来なかったが。
やがて益田は窓硝子に、いや、窓硝子に映る自分の姿に目を止める。冷たい硝子板に鼻先が触れそうなほど近づいて、見慣れた筈の顔を初対面の相手に会うように眺め、「似合いませんねぇ」と笑った。
芽生えたばかりの若枝に似た華奢な金縁は、日焼けした男の肌には堅気の商売では無いと思わせる独特の雰囲気を匂わせるに違いないが、黙っていれば真面目極まる青年の顔にはいささか派手過ぎるきらいがあると思う。もし彼が将来的に視力を落とし、眼鏡を求めるようになるとしたら、金メッキでギラギラしたものよりもシンプルな丸眼鏡が似合うかもしれない。柔和な印象で、益田が希望する人好きする探偵に―――
「―――司さん?」
益田はいつの間にか窓から視線を外していた。
「あぁ御免御免、どうしたの」
「どうも有難うございました、眼鏡返します」
「嗚呼そう、どう?良く見えた?」
「いやぁ僕には眼鏡要らないみたいです。物の輪郭がぼやけちゃって、頭痛くなってきました」
似合わない眼鏡を掛けたままで、ふらふらと頭を揺らした。それから、ふと気付いたように卓を超えて、しげしげと司の顔を覗き込む。不躾とも思える距離に司は思わず目を丸くしたが、焦点がずれている益田はそんな簡単な事にすら気付かない。
「このくらい近づかないと、人の顔も判らないんですねぇ」
誰よりも人との距離を気にする筈の男が、たかがレンズ1枚で。
何やら達成感めいた感情が身の内から湧き上がるのを感じたが、司はそれを隠して、益田の尖った輪郭から眼鏡をすっと外した。
「はい、おしまい。あんまり君の記憶がぐらぐらしてたら、エヅが心配するものね」
正常な視界で物凄く近くに見えるつるりとした顔に驚いたのか、益田は跳ねるように席に戻った。木の椅子が揺れてがたがたと不平を申し立てる。司が元通り眼鏡を掛けると、何やら面映げに茶を啜っている裸眼の益田がはっきりと見えた。
「眼鏡は便利だよ?これがあると益田ちゃんの可愛い顔が良ぉく見えるし」
「からかわないでくださいよぅ。あっ顔で思い出した、眼鏡ひとつで随分顔立ちって違って見えますね。やっぱり僕も一つ作ろうかなぁ」
「作るんだったら馴染みの店紹介しようか。益田って子が来たら伊達眼鏡見せてあげてって云っておくよ」
適当な紙の裏に店の住所を書いてやりながら、司が云う。
「でも眼鏡なんか掛けてないほうが、黒い目がよく見えて可愛いよ?」
日に日に上達する上滑った演技など看破する、表情豊かな黒曜石を、司はなかなかに気に入っている。彼の若者らしいこんな愛らしさも、榎木津は決して認めたがらないだろう。
―――
林檎様リクエスト「司×益田」でした。ありがとうございました。
折角なので眼鏡属性を活かしたく思い、「司の眼鏡は度入り」でひとつ。
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