『6.午後のスコール(3)』の続きです。未読の方はそちらからお願い致します。
降る。雨が降る。
乱暴までに打ち付ける豪雨が、捌けるよりも早く路面に溜まる冷たい水が、今、益田と榎木津を隔てている。
滝の様に注ぎ続ける雨の向こうに、浮かび上がる栗色の影。
見下ろす者と、見上げる者。
粗末な軒一枚に守られて、益田は立ち竦んだまま、動けずに居た。
「其処に居るのはバカオロカだなっ!」
「ひぃ」
酷い雨音にも怯まぬ怒声に、益田は肩を竦める。雷かと思う程だ。神鳴りとは良く云ったものである。
正直逃げ出したい。けれど2本の足は、縫い止められた様に動かない。水に煙る視界の中心で、四角い窓に切り取られた神の姿から、目を逸らす事すら出来なかった。せめてもの防御として、僅かに頭を揺らす事で前髪を下ろす。黒い結界に隠れて、きっと自分はまだ哂っているのだろう。
「幽霊だと思ったけど、足があるからやっぱり益山だ!下僕の癖に仕事をさぼって、そんな所でお化けの真似か!」
「ち、ちが…」
軒にばらばらと大粒の雨が落ちる。けぶる路面を打つ無数の雫も同様で、益田の弁明は掻き消されてしまう。
視力の乏しい榎木津にも解るように、今度は大きく首を振った。僅かに湿った髪がその度に揺れる。
もう一枚の窓から、今度は和寅が顔を覗かせた。榎木津の方を向いて、何か喋っている。「ありゃ本当だ、あれは益田君ですぜ先生」とでも云っているのに違いない。
「益田君やー、とにかく上がっておいでなさーい」
藍色の袖が手招きしている。益田はまたかぶりを振った。
此処まで戻って来たものの、榎木津に合わせる顔はやはり未だ無い。最初にこのビルを見上げた時も、確実に先が見えている訳では無かったが、今は更に後ろめたさまで背負っている。おまけに気味の悪い薄ら笑いが全く消えないのだ。
突如振り出した雨を口実に、また逃げてしまったと益田は思う。愚かな選択だと云う自覚はあるが、やはりこれで良かったと、足元に迫る水溜りに映る男が笑っている。跳ね返った雨滴が、草臥れた革靴のみならずズボンの裾までも濡らしているのが見えた。
益田は、白亜のビルヂングに背を向けた。軒下を伝ったところで、さして遠くへ行けない事など解っている。だがあの窓から見えない所までなら行ける事を益田は知っていた。幾度と無く見下ろした景色だ。
踏み出した足が、ぱしゃり、と僅かに発した水音にぶつけるように、また声が降った。
「―――雨が如何した!」
はっとした益田は振り向いた。白い光を放つ窓から、榎木津の姿だけが消えている。窓の外と室内とをおろおろ見比べる和寅の姿だけが見えた。人通りの無い道路を、幌の付いたトラックが走り抜ける。
荷台と、其れに続く水の幕が消えた時、益田は信じがたいものを見た。
「―――榎木津、さん」
舞い降りたとしか思えぬ速度で、神が降臨している。
上空を覆う黒い雲は、街の全てを分け隔てなく打ち付ける。其れは、神と云えども例外では無く。
「榎木津さん!」
「五月蝿い!なんだこんなもの、ただの水じゃないか!怖がるな!」
猫を思わせる柔らかな髪を、陶磁の肌を、生成りのシャツを、瞬く間に雨が濡らして行く。その様子は益田の目にも余すことなく伝わって、いたたまれなさに震えた。
益田をぎっと睨んだままで、榎木津は立っている。
―――あの人は、こんな冷たい雨に濡れなくても良いのに!
「ちょっ、先生まで何を」
和寅が窓から身を乗り出しても、榎木津は微動だにしない。雨の中に放り出された人形のようだ。
両の目だけが確かな意思を持って自分を見ているのに、益田は気づいていた。
(良く云うでしょう。解放は寝て待つんですよ)
そう云った鳥口の目は、労わりに満ち。
(鬼の面を着ければ人は鬼になり、翁の面を着ければ翁になる)
中禅寺の云う通りに、自分は笑っている。
笑っているのに、面白くも可笑しくも無い。ただ、雨に打たれる榎木津が寒そうで。
(―――ナキヤマはどうしたいんだ)
ばしゃり、と水が翻る音。
躍り出た途端、益田の全身を冷や水が打つ。水を一番吸った足は重かったが、水溜りを蹴散らしながら、益田は道路を渡った。
榎木津の云う通りだ。こんなものは、ただの水だ。自分が怖かったものは、こんなものでは無い。
水を蹴った最後の波紋が地に馴染むのを見届けて、見上げたそこには、雨水が伝う神の尊顔があった。
――――
続きます。欲目のターン入ります!
乱暴までに打ち付ける豪雨が、捌けるよりも早く路面に溜まる冷たい水が、今、益田と榎木津を隔てている。
滝の様に注ぎ続ける雨の向こうに、浮かび上がる栗色の影。
見下ろす者と、見上げる者。
粗末な軒一枚に守られて、益田は立ち竦んだまま、動けずに居た。
「其処に居るのはバカオロカだなっ!」
「ひぃ」
酷い雨音にも怯まぬ怒声に、益田は肩を竦める。雷かと思う程だ。神鳴りとは良く云ったものである。
正直逃げ出したい。けれど2本の足は、縫い止められた様に動かない。水に煙る視界の中心で、四角い窓に切り取られた神の姿から、目を逸らす事すら出来なかった。せめてもの防御として、僅かに頭を揺らす事で前髪を下ろす。黒い結界に隠れて、きっと自分はまだ哂っているのだろう。
「幽霊だと思ったけど、足があるからやっぱり益山だ!下僕の癖に仕事をさぼって、そんな所でお化けの真似か!」
「ち、ちが…」
軒にばらばらと大粒の雨が落ちる。けぶる路面を打つ無数の雫も同様で、益田の弁明は掻き消されてしまう。
視力の乏しい榎木津にも解るように、今度は大きく首を振った。僅かに湿った髪がその度に揺れる。
もう一枚の窓から、今度は和寅が顔を覗かせた。榎木津の方を向いて、何か喋っている。「ありゃ本当だ、あれは益田君ですぜ先生」とでも云っているのに違いない。
「益田君やー、とにかく上がっておいでなさーい」
藍色の袖が手招きしている。益田はまたかぶりを振った。
此処まで戻って来たものの、榎木津に合わせる顔はやはり未だ無い。最初にこのビルを見上げた時も、確実に先が見えている訳では無かったが、今は更に後ろめたさまで背負っている。おまけに気味の悪い薄ら笑いが全く消えないのだ。
突如振り出した雨を口実に、また逃げてしまったと益田は思う。愚かな選択だと云う自覚はあるが、やはりこれで良かったと、足元に迫る水溜りに映る男が笑っている。跳ね返った雨滴が、草臥れた革靴のみならずズボンの裾までも濡らしているのが見えた。
益田は、白亜のビルヂングに背を向けた。軒下を伝ったところで、さして遠くへ行けない事など解っている。だがあの窓から見えない所までなら行ける事を益田は知っていた。幾度と無く見下ろした景色だ。
踏み出した足が、ぱしゃり、と僅かに発した水音にぶつけるように、また声が降った。
「―――雨が如何した!」
はっとした益田は振り向いた。白い光を放つ窓から、榎木津の姿だけが消えている。窓の外と室内とをおろおろ見比べる和寅の姿だけが見えた。人通りの無い道路を、幌の付いたトラックが走り抜ける。
荷台と、其れに続く水の幕が消えた時、益田は信じがたいものを見た。
「―――榎木津、さん」
舞い降りたとしか思えぬ速度で、神が降臨している。
上空を覆う黒い雲は、街の全てを分け隔てなく打ち付ける。其れは、神と云えども例外では無く。
「榎木津さん!」
「五月蝿い!なんだこんなもの、ただの水じゃないか!怖がるな!」
猫を思わせる柔らかな髪を、陶磁の肌を、生成りのシャツを、瞬く間に雨が濡らして行く。その様子は益田の目にも余すことなく伝わって、いたたまれなさに震えた。
益田をぎっと睨んだままで、榎木津は立っている。
―――あの人は、こんな冷たい雨に濡れなくても良いのに!
「ちょっ、先生まで何を」
和寅が窓から身を乗り出しても、榎木津は微動だにしない。雨の中に放り出された人形のようだ。
両の目だけが確かな意思を持って自分を見ているのに、益田は気づいていた。
(良く云うでしょう。解放は寝て待つんですよ)
そう云った鳥口の目は、労わりに満ち。
(鬼の面を着ければ人は鬼になり、翁の面を着ければ翁になる)
中禅寺の云う通りに、自分は笑っている。
笑っているのに、面白くも可笑しくも無い。ただ、雨に打たれる榎木津が寒そうで。
(―――ナキヤマはどうしたいんだ)
ばしゃり、と水が翻る音。
躍り出た途端、益田の全身を冷や水が打つ。水を一番吸った足は重かったが、水溜りを蹴散らしながら、益田は道路を渡った。
榎木津の云う通りだ。こんなものは、ただの水だ。自分が怖かったものは、こんなものでは無い。
水を蹴った最後の波紋が地に馴染むのを見届けて、見上げたそこには、雨水が伝う神の尊顔があった。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
続きます。欲目のターン入ります!
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