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2024/11/23 08:13 |
3.射程距離と心拍数
照準を合わせる。撃鉄を起こす。引鉄を、引く。それだけの事が。



榎木津はごし、と手の甲で目を擦った。柔らかな瞼の肉とともに、僅かに濡れた感触を感じる。
蜃気楼のように霧散した視界が一瞬だけ輪郭を取り戻し、またぼやけた。
左手で左目を覆えば、もう少しばかり景色は明瞭になる。たとえば、革張りのソファ、摺り硝子、書棚、黒い三角錐。片方の目で見る慣れた景色は、立体感を失って奇矯な絵の様ですらあった。
掌を離し、僅かに俯く榎木津が立っているのは慣れた事務所ではなく、遠い街だ。靴先は見える。けれど、その足が踏みしめる世界の細部は、もはや殆ど見えない。石版を敷いたこの道が何処に続くのかなど、知る筈も無い。
榎木津は、色彩ばかりを撒き散らした抽象画の中に住んでいる。天を覆う青、地から伸びる緑、桃色、早いもの、ゆっくりなもの。行けども、行けども。

「榎木津さぁん」

気だるげに顔を向ければ、道の先から近づいてくる人影が見えた。黒いような、白いような。
その顔の横にひときわはっきりと浮かび上がる像は、つまらなそうに両足を投げ出す男の姿だ。音もなく切り替わる映像は、やがてくすんだ鏡に映る貧相な男の顔に変わった。

「―――遅いぞマスヤマ!」

マスヤマと呼ばれた影は、大袈裟にぜぇぜぇと息を弾ませながら立ち止まった。

「す、すみませぇん、依頼人との交渉が長引きまして」
「神を待たせて暢気に珈琲など飲んでいた癖に!」
「是非にと勧められたんですよぅ、勿論榎木津さん待たせて悪いなって思いましたから一気に飲み干しましたよ。まぁ熱いこと、口の中の皮がめくれましたからね」

頼みもしないのに益田は、べぇと舌を見せた。舌の先が僅かに赤い。ちらりと覗く尖った八重歯に、榎木津は顔を寄せた。

「ちょ、何ですか。顔が近いですよ」
「自分から見せておいて何だ、恥ずかしがるほどの代物かカマオロカ」

まともな視力があれば、睫の本数まで数えられそうだ。榎木津はじろじろと益田の顔を検分する。
走った所為と、慣れない接近で頬は僅かに赤い。薄い癖に懇願やら落胆を示すのはやたらに上手い眉、尖った鼻に顎、やや乾いた唇、世界を映すぬばたまの瞳。
この瞳を通せば、榎木津にも世界の像がよく見えた。薄青い空を流れる、掃いたような筋雲。葉を伸ばす並木、はらはら舞う桜色の花弁。物心ついた頃からもう目が悪かった榎木津は、人の目を通してはじめて知るものも多い。

(こんな目を持ってるのに、僕ばかり見て)

なんという馬鹿だと思いながら、僅かに安堵する。
そもそもこの世には見なくても良いものが多すぎるのだ。狭い了見で狭い世界を手前勝手にどうにかしようとする馬鹿が多いせいだ。

「無駄遣いだぞマスヤマ!」
「は!? なんですか藪から棒に」
「もっと花とか、海とか、そういういいものを見れば良いんだ!前髪も邪魔臭いし。僕ならもっといいことに使う」

榎木津の言葉の意味をはかりかねて唖然としていた益田だったが、やがて思い当たったように頬に手を当てた。

「そんなこと言われましても、取り出してハイどうぞって差し上げるわけにもいかないですよう。僕だって2個しか持ってないんですから」
「眼球だけ貰ってもしょうがないだろう、きもちわるいだけだ」

それはお前が嵌めていなさい。
乗馬鞭を渡した時と同じような気安さで榎木津が言うと、益田は釈然としない様子ながらも一応頷く。薄い胸を拳の裏でどんと叩いてやれば、2,3歩よろめいた。

「もたもたしない!行くぞ!」
「えええ、は、はい」

石畳を蹴りながら、先に立って歩く。相変わらず視界は悪いが、一度益田の目を通して視たためか僅かに本来の形を取ったようだ。背から吹き付ける風にのって、小さな声が届いた気がした。榎木津は聞こえないふりで、独自の世界の中を進む。
かつかつと打ち鳴らす踵は、鼓動と同じリズム。



―――こんな僕で良いのなら。あげられるものなら、なんだって。



お題提供:『BALDWIN』様
 

――――
躁じゃない榎木津書いてすみません。益田が榎木津の目になればいい。
榎木津の視界についてとか、色々ファンタジー…。



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2009/05/14 17:47 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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