益田がそう思った時には遅かった。
カッと大きく見開かれた目の中で、瞳孔だけが収束するのが見えた。
殴られるかはたまた蹴られるか。
身を竦めた益田に襲い掛かったのは、拳でも靴でもなかった。
大きな猫科の生き物だと思った。
実のところそれは榎木津そのもので、益田の身体は思い切り壁に叩きつけられる。
肉の薄い背中に過ぎた衝撃に、肋骨ごと肺が軋んだが、こみあげてくるえづきを必死でこらえた。
今の益田にはいかなる行為も許されていない。
榎木津の指が肩に、猛禽の爪のように食い込んでいる。
「未だわからないのか!」
榎木津が吠える。
「ぼくはそんなものは必要としていないぞ!見くびっているのか!」
「み、見くびってなんか」
威風堂々たる榎木津の声に、ようやく返したのは息に交じったような掠れ声。
吐息はますます炎を燃え上がらせる。
「なら今の態度はなんだ!俎板の鯉にでもなったつもりか?鯉なら食べるところがあるが、カマなんか転がしたって美味しくもなんともない!どこへでも転がっていってしまえ!」
益田は揺さぶられ、後頭部をしこたま壁にぶつけてしまった。
脳震盪か、あるいは涙か。目の前がぼやけて、榎木津の顔がよく見えない。
神の声がどこか遠くから聞こえる。激情に燃え盛る声は、失望と少しの悲しみを糧にますます紅く広がっていく。
「お前はぼくのせいばかりにする!」
肩に食い込む爪の痛み。
そうなんですよ、榎木津さん。
僕ぁ、なんでも貴方のせいにしてしまう。
下僕だから。神の命令は絶対だから。僕は決して逆らえない。逆らわない。こんなに忠実な下僕は他にいないでしょう?
神から投げつけられるものを、拾い集めて。
そんな僕だからこそ、その命令は、聞けない。
言ったが最後、神の国にはいられないから。
言って欲しい榎木津と、責任転嫁する益田。
っあーーーー呑んだ呑んだ…。いやぁやっぱり気心知れた人との酒はいいですねェ。進みますよ。
うわぁ、まだ呑めるんですか。しかも食べるんですか。
僕?アァ僕は止めときます。明日も仕事なんで。あんまり呑んでいくと煩いのがいることだし。またあの大声が脳に響くんですよねェ。わんわん言いますもん。頭が。
奈良漬が入ってきたかと思ったらカマだったーとかサケカマーとか、どこからあんなに悪口が湧いてくるのか不思議ですよ。
…いつも昼まで寝てると思うでしょ?ところがね、あーどうせ昼まで寝てるから大丈夫大丈夫と思って行った時に限って思いっきりお目覚めで、ドア開けるなりスリッパが飛んでくるんですよ。あるときなんか事務所の窓から僕が来るのを見張ってて、近所中に響く声で例の、カマァーーー!!ですよ。もう吃驚したとかしないとかの話じゃないですから。パーラーの客がああ…あれがカマか…みたいな目で見てるのがわかるんですよ。僕ぁカマじゃないって言ってるのに、あのおじさんときたらホントに人の話を聞かない。
それだけならともかく、あの人じっとしてないでしょ?10歳の童だって待てって言ったら待ちますよ。そう、しかも危ない方危ない方に。崖があったら崖の方に行くし、穴があったら手近の者を蹴り落としてみる人なんですよ。もう僕ら普通人は振り回されっぱなしで参りますよねェ。
京極堂さんの言うことには「あれと付き合うとどんどんバカになる」…でしたっけ?好きでバカになってるわけじゃないですよねェ。…え?僕は好きでバカになってるって?もう人が悪いなぁ。ですから僕は助手になっただけで、バカになりに行ったわけじゃないですから。
だいたいバカっていうのは、自分の身の程をわきまえていない無謀者のことを言うんでしょう?その点僕は違いますよ。自分の小市民ぶりを誰よりもよくわきまえてますから。働きも小市民なりに、日々の暮らしも小市民なりにです。
僕は卑怯を身上としてますしね、イザとなったらそりゃあもう逃げます。一目散に逃げますよ。
でもねぇ、考えてみることもありますよ。こんな仕事ですからね。
いやホラ、もしあの人に何かあったらとか…結局のところ悪人が地面に折り重なってその上で高笑いしてる光景しか見えないんですけど。そんじょそこらのヤツにあれが倒せると思いますか?無理でしょ、普通に。
ただその時、僕はいつも通りに逃げられるのかな、逃げられないだろうな、って思ったんです。
…でしょ?可笑しいんですよ。
あの人の剣は無理ですけど、せめて踏み台くらいにはなりたいんですよ。下僕として。
踏まれたら痛いし重いのわかってるんですけどねェ。
あぁすみませんすみませんもう終わります。とどのつまりはこうですよ。
僕ぁね、壊されちゃったんですよ、榎木津さんに。
…え、はっ!?イヤイヤイヤ、そういう意味じゃないですよ。何言ってるんですか。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
益田は榎木津の瞳が好きだ。
長く密集した睫に縁取られた、自分を暴く瞳が好きだ。
髪も好きだ。たとえが悪いが、収穫を待つ稲穂のようにさんざめく髪が好きだ。
形のいい唇と、その中に行儀良く並ぶ前歯が好きだ。
指折り数えて上げていくと、両の指でもまだ足りない。
折り曲げられる最後の指はこのためにとっておきたいほど、とりわけ榎木津の手が好きだった。
そんな榎木津の手が、今目の前にある。
榎木津は事務所の机で眠っていた。
「探偵」と書かれた黒い三角錐が日光を跳ね返し、それ自体が光を放つようだ。
報告書をまとめる益田の横に、湯気を立てる珈琲が置かれた。
「あっ和寅さん、どうも」
「いやいや、先生に淹れたんですが寝てるでしょ。あの人起こすとことのほか煩いし」
和寅はお盆で口元を隠しながらひそひそと囁いた。
益田もお盆の裏に顔を寄せ、「違いないです」と言う。
寝起きをやぶられた榎木津の不機嫌さに振り回されるのは、この事務所では珍しいことではない。
起きたらどうせのど渇いたって騒ぎますし、それ飲んじゃってくださいと言い残した和寅はドアの向こうに消えていった。
せっかくだから熱いうちにと、珈琲を口元に運ぶ。
濃い豆の風味がする。あちち、と益田は舌を出した。
窓の隙間から入り込む暖かな風と光が髪や肌を撫でる今の季節は榎木津ならずとも眠くなる。
報告書にペンが滑る音と、榎木津が時折あげる鼾ばかりが事務所を満たしていた。
太陽の角度が変わったのを感じ、益田はふっと顔を上げる。
大きな探偵机に腕を投げ出し、顔を伏せて眠る榎木津に、どうしても目を奪われる。
透ける前髪の向こうに、白いまぶたと長い睫の影が見えた。
益田はそっとソファーから立ち上がり、眠る探偵に近づく。
「榎木津さーん…報告書、出来ましたけどー…」
規則正しく肩が上下している。
三角錐から伸びる影が、少し長くなっていた。
益田はおそるおそる机の前に立つ。寝ているとはわかっていても、若干腰が引けている。
「榎、木津、さーん…?」
その手が、天板の上に投げ出されているのを益田は見た。
やわらかな日差しを受けて、手の甲は一層白い。
乱暴な振る舞いに似合わず、爪先は丸く整っている。
桃色の爪の根元にはさらに白い三日月が浮かんでいた。
益田はその手にそっと触れてみる。
自分の肌とのコントラストでますます白い。
目覚めている時の暴君ぶりを知らなければ、男として頼りなく見えるほどだ。
肌理細かい肌をすべすべと撫でていると、その手を絡めたい衝動がむらむらと湧いてくる。
それに気づいた益田は、音がしそうなほどにぶんぶんと首を振った。
完全に下僕の領分を越えている。
興味や関心の域ではない、自分は神の手に欲情しているのだと知らされた。
ここから離れなければ、何をしてしまうかわからない。
それでもその白から目が離せない。自分が息を呑む音がやけに大きく聞こえる。
手を絡めたら気づかれる。けれど、触れる程度なら目覚めない…。
…嗚呼、神様、すみません。
益田はそっと机の前に膝をつき、投げ出されたままの手の甲に唇を落とした。
薄い皮膚を通して伝わるしっとりとした感触に、うっとりと目を閉じる。
「…いい身分だな、マスヤマめ」
降り注いだ声に驚いて目を開けると、同じ高さで神の瞳がこちらを見ていた。
口元はもう片方の腕に埋もれていて見えないが、その目は半月型に歪んでいる。
益田が驚いて身を引くと、寝起きとは思えぬ機敏さで机を乗り越えた榎木津に腕を捕まえられた。
「ひ、す、すみま」
「何がスミマセンだ!スミマセンで済んだら警察はいらん!コケシも下駄も失業だっ!」
手首を掴む力の強さに、涙がにじむ。
榎木津の声を聞いて、和寅がひょこりと顔を出した。
「あーあ益田君、やらかしてら。先生おはようございます」
「和寅さん、たすけ」
「おい寅、喉が渇いた!珈琲!」
「はいはい、少々お待ちを」
益田の涙声は無視され、和寅は台所に消えた。
へなへなと膝が崩れ、榎木津に捕まれた腕だけが高い位置にぶらさがっている。
長い前髪がいい具合に目の前にかかり、顔が見えないのだけが幸いだった。
今は榎木津の顔が見られない。
「ぼくの手を触ったな」
「はい、触りました…」
「お前がハァハァ煩いから目が覚めてしまったじゃないか」
ハァハァって、と思ったが否定できないのが悲しい。
身の程知らずな興奮を悟られている。
彼の目には、じっと見られている自分の手が見えているのだろう。
そしてゆっくりと近づき、触れ、まぶたが伏せられ暗くなるところまで。
「珈琲が来るから、手っ取り早く済ませるぞ」
えっと思う暇もなく、つかまれたままの手を口元に運ばれる。
骨の浮いた手の甲に柔らかなものが触れる感触に眩暈がした。
「えのき、づ、さん」
獲物を確かめるように舌が動き、浮き出した骨を歯になぞられて益田は震える。
それは快感ではなく、恐慌に似ていた。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
「ひゃあああああ」
カウベルの音色と同時に、情けない声をあげながら益田が飛び込んできた。
シャツもタイも、くたびれた靴もびしょびしょの濡れ鼠だ。
書類ケースを胸に抱えたまま、ぶるぶると犬のように首を振った。
「和寅さぁん、手ぬぐいか何か貸してくれませんかー?」
顔に張り付いた前髪を掻き分けて、明かりの消えた事務所の中へ歩いていく。
その足跡にはぽたぽたと雫が落ち、雨雲を引き連れているようだった。
天を裂く轟音に、榎木津ビルヂングの窓が揺れている。
「和寅さ…」
「遅いぞ下僕ッ!」
「ヒッ」
やや遅れて雷が落ちる。
「おお、今のは近いな!うはは」
「え、榎木津さん!?」
榎木津は窓にへばりついていた。
うす暗い中でも両の瞳が爛々と輝いているのがわかる。
どうも大嵐に興奮しているらしい。
顔中で笑っていた榎木津だったが、濡れそぼった益田を見るや露骨に秀麗な顔をゆがめた。
「おお、これはひどい。そんなびたびたで入ってくるな!ちゃんと乾かしてから戻って来い」
「乾かせって、また無茶な。街中どこもかしこもこの調子ですよ。だから手ぬぐいか何かあったら貸してほしいんですが」
「ゴキブリ男ならいないぞ」
「え」
「買い物に出たっきり帰ってこない。日頃の行いが悪いから雨になど降られるんだ!」
榎木津はふん、と鼻を鳴らしてまた窓の外に目をやる。
身につけている綿のシャツは白く清潔で、水気を含んだ様子もない。
本当にねずみ色に見えるほどじっとりと濡れた自分が、硝子越しにそんな彼の隣に並んでいる。
益田は情けなさで半笑いになった。
どうせここまで濡れたなら、家に帰っても一緒だ。
慌しげに書類ケースを机に置き、顔を上げる。
「あの、じゃあ帰りま」
「脱げ」
「え」
「なにが え だ。濡れた服を着てたら気持ち悪いじゃないか」
「え、いやいや、ぼくもうこれで帰りますし」
後ずさりする益田を、榎木津の視線が射る。
影を縫い止められたように、それきり動けなくなった。
「オロカめ。そのまま帰ったらすれ違う人すれ違う人がみーんなお前を見てうわぁあのカマのような人はぬらぬら濡れてて気持ち悪いなーと思うだろうが」
「えぇー、気持ち悪いってそういう意味なんですか…」
「ぬらぬらするのはサルだけで十分だっ。あれは晴れててもぬらぬらしているけど」
遠くで空がゴロゴロと鳴く。
それを聞いた榎木津は、にゃんこみたいだなぁと再び窓に目を向けた。
榎木津はこちらを見ていない。戸口に向かって駆け出すこともできただろう。
が、益田は出来なかった。
水で固くしまったタイをようよう抜き取り、ぐったりと重いシャツを肌から引き剥がす。
置き場所に困ったので、とりあえずぐしゃぐしゃのまま腕に抱えておく。
痩せた腕を水滴が伝った。
榎木津は益田に目もくれないままで次々と指示を出す。
雨が窓を叩く音の中で、やけにその声がはっきりと聞こえた。
「靴も」
「は、はぁ」
革靴がごとごとと音を立てて床に落ちる。
靴下は丸めてその中に押し込んだ。
「ズボンも」
「え、は、はい」
片腕にシャツを抱えたままではズボンを脱ぐのにも難儀した。
足を抜き取る時によろよろと左右にぶれ、あちらこちらに水滴が飛び散る。
シャツと同じに丸めて抱き込む。もうこのズボンは折り目も消え、無残な姿になるだろう。
洗ったばっかりだったのに…まぁここまで濡れたらなんでも一緒か、と冷静な部分で思う。
硝子の向こうの榎木津が顔を上げた。
「あ、あの、下着は」
「…お前はどうしたい?」
「ど、どうしたいってそりゃあ」
「マスヤマがしたいようにしていいよ。ぼくはお前に構っている時間が」
ないの、という声にかぶせて強い光がフロアを包み、雷の音が轟いた。
榎木津はきゃーだかわーだかいう奇声を上げて手を叩き、はしゃぎまわっている。
もう興味を失ったようにしか見えない。
呆然と立ちすくんでいた益田は、水溜りの出来た足元を見下ろす。
思考が止まり、何も考えることができない。
身体が勝手に動き、唯一神が許した着衣までも脱ぎ去った。
雨の音が聞こえる。
それはますます強まったのか、益田の耳にがんがんと響いた。
益田を隠す薄暗がりは、時に無慈悲な白い閃光によって暴かれた。
顔が上げられない。が、見なくてもわかる。
神がその目で、自分を見ている。
「ふぅん」
「え、えのきづ、さん」
「顔を上げな」
「む、無理です」
「全裸になるのは恥ずかしくないのに、ぼくを見るのは恥ずかしいのか」
恥ずかしくないわけがない。
雨に洗われ冷めた肌が、羞恥に燃え上がるようだ。
それでも全てを暴かれることを、望む自分もいるのだ。
こんな感情は知らなかった。
全身をバラバラにされたような、そしてその中からひとつだけを掬い上げられたいような。
「恥ずかしがらなくていいよ」
靴音が近づいてくるのが聞こえ、益田は堅く目を閉じた。
榎木津の気配が裸の肌に痛いほどだ。
額に触れた手の平が暖かい。
掻き揚げられた前髪から落ちた雫が、榎木津のシャツに滲みた。
「全部ぼくのものだ」
雷すらも凌駕する神の声に、益田ははっと目を開いた。
光が走る一瞬、白と黒のコントラストが榎木津の輪郭を焼き付ける。
神を前にすると、いつも益田は雷に打たれた心地がする。
全身が痺れ、声にならない。また、声に出してもきっと聞こえない。
「全部あなたのものです」と言いたいのに。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
―――――
なんのプレイだこれ。
初手からあまり幸せじゃない件。精進します。