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2024/11/23 03:24 |
林檎と蜂蜜

なんと豪奢な髪だろうか。
真っ赤な絨毯敷きのフロアで出会った彼女に対する益田の第一印象は其れであった。
踵のある靴を履いている所為もあって、全体的にすらりとした印象だ。絹のシャツをふっくらと押し上げる柔らかそうな胸から続くのは、これまた女性らしくふっくらとした腰周り。肌も目鼻立ちも整っているが、その顔は憂いに曇っている。探偵などに縋らざるを得ないのだ、無理も無い。
しかし何よりも彼女の美しさを印象付けるのは、腰まで届く栗色の髪であろう。其れは光を跳ね返しながらゆるやかな波を打ち、華奢な背中を丸ごと覆っている。彼女が益田に深々と頭を下げた時、髪が肩からすとんと流れてほのかな甘い香りを漂わせた。

(こぉんな綺麗な奥方を差し置いて浮気なんて考えられないなぁ)

応接間に向かって益田を先導する彼女の背でふわふわと揺れる髪を目で追いながら、益田は思った。女性の足取りは心なしか重く、どうやら結果を聞くまでも無く薄々感づいているようだ。
益田も仕方が無いので、やぁこれは立派な壺ですねぇ、等と関係の無い事を云ってはみたものの、屋敷全体に重く垂れ込める空気を変えるのに、何の足しにもならぬまま客用のソファに腰掛ける羽目になってしまった。
せめて出来るだけ事務的に、益田はばさばさと机上に書類と写真を並べていく。彼女の夫が、彼女ではない女性と並んで歩き、肩を組み、公言出来ないような場所に消えていく一連の様子。女性の口元から、「ああ…」と落胆のような、感嘆のような、納得したような吐息が漏れた。

「綺麗な黒髪」

女性にしては少しハスキーな声が、ぽつりと呟く。つられて目を落とせば、確かに浮気相手の女性は黒い髪をしていた。益田の拙い写真でも解るほど艶やかな黒髪を、肩のあたりで切り揃えている。きつそうな目尻に似合わぬ甘えた声で調査対象を引っ張りまわしているのを益田は見た。その時も黒髪は輪が出来るほどに輝いていたはずだ。目の前で俯く女性とは、まさに正反対。昼と夜、空と海ほども違う。

「えーと、この日は貴女に出張と云って出て行ったそうですが、ご主人はこの黒髪の女性と」
「判っております」

彼が戻り次第直ぐに財産の整理を、とぽつぽつと云う女性が、長い栗毛をかきあげて耳にかけた。顕わになった顔は益田の想像よりも冷静そうで、少し安心する。云ってはなんだが、あまり芯が強そうなタイプに見えなかったので、夫の不貞を嘆き悲しむ事もあるかと思ったのだ。無論内心ではそうなのかもしれないが、表に出さないで居てくれれば益田としても知らない振りが出来る。
なので益田は彼女が泣き出さないうちに、さっさと報告と料金の請求を済ませてしまった。あまり事務的すぎると怒り出す客も居るが、彼女はその度にはい、はいとついてきてくれ、全ての作業は滞り無く済んだ。
益田が書類を束ねていると女性は一旦席を立ち、紅茶を注いで戻ってきた。意匠のこらされた白いカップを満たす暖かな液体には、輪切りのレモンが浮いている。
仕事も終わったし、依頼人の相談に乗る位なら良いだろう。アフターケアというやつだ―――益田は紅茶を有難く受け取り、女性も益田の横に腰掛けた。ミルク色の紅茶よりもさらに淡い色合いの髪が少し遅れてふわりと益田の肩に触れ、思わずどきりとする。見れば女性の視線は、束ねた紙片の一番上に置かれた調査対象と浮気相手のツーショット写真を、食い入るように見つめていた。

「や、すみません」

慌てて裏返そうとする益田の手を、もう一つの手が押し留めた。柔らかく、白い。

「本当に、綺麗な黒髪」

あえかな吐息とともに、左耳に直接低音が吹き込まれ、益田は思わずくらりとなった。邪心を振り払って、探偵らしい顔と声を作って答える。

「そうですね、確かに。妻のある男性とどうにかなっちゃって散々金品貢がせてる女性ですから心根はどうか知りませんが、髪はまぁ綺麗でした」
「貴方も、黒髪なのね…」

先細りの指先が、ついと益田の前髪を掬った。桜色の爪に頬のラインをつうとなぞられて、産毛がそそけだつような微妙な感覚に襲われる。思わず身を引けば、それ以上に近づかれ、気がつけば益田の背は布張りのソファにぴたりと押し付けられていた。天井が見えるはずの視界には、か弱い筈の女性に乗り上げられたという残酷極まる現実が広がっている。
逃れようと頭を振り、益田はぞっとした。流れ落ちた長い髪が、檻のように益田を覆っている。

「ま、待ってください奥さん!僕の髪なんか所詮男の髪ですよ、触ったら堅いし、貴女の栗毛の方がずっと素敵ですとも。ですから、ですからって云うのも変かな、と、とにかく落ち着いて」

喋ろうとして息を吸うたびに、胸の奥を髪の匂いが満たす。今の益田にとっては、毒の霧にも等しい。背面のベルトに噛ませた乗馬鞭など、女の髪の威力に比べれば児戯も同然だ。
益田の唇に細い指がそっと押し当てられ、ついに唯一の武器さえも封じられた。

「静かになさって、ねぇ、黒髪の探偵さん―――」

子どもを寝かしつけるような口調に交じる、色の気配。柔らかな髪と共に顔が降りてくるのに、益田は身動ぎすら出来ない。爪先も、指先一本すら動かせない。目をぎゅっと閉じることすら。

(―――あ)

その瞬間、風船が弾けるように、益田の意識がはっと覚めた。







「―――瞳が、違ったんです」
「あっそう」

益田の決死の独白は、榎木津に一蹴された。
床に直接正座させられて、膝から下の痺れはもう腿まで上がってきている。其処を榎木津につつかれて、益田はああっと苦悶に喘いだ。

「だ、だってあんな豪華な栗色の髪、僕ぁ榎木津さん以外で初めて見ましたよ。髪質まで似ててもう舞い上がってしまったというか」
「あっそう」
「ぎゃあっ!」

痺れている箇所を思い切り撫で上げられた。通常なら慰撫ともとれる仕草は、今の益田にとっては拷問に過ぎない。よくわからない種類の虫が皮膚の内側を走り回っているような不快感は、耐えられるものではない。
ともかく目が覚めてからは、益田自身どうやって逃げてきたかよく憶えていない。まぁどうにか女性を引き剥がしたのだろうが、屋敷を飛び出して、やたら広い庭を抜けてから振り向きもせず一目散に逃げ帰った。多少泣いていたかもしれない。事務所に戻るなり榎木津に記憶を視られ、正座させられ、この有様である。踏んだり蹴ったりだ。
目の前に鎮座まします神の機嫌が治るまで、益田の悲痛な訴えと榎木津による罰は続けられた。
永劫にも思える苦しみに溺れる益田にとっての唯一の救いは、自分が悲鳴を上げるたびにくるくるとよく動く、唯一無二の鳶色の宝玉。

(2つありますけどねぇ)

内心冗談を云えるだけの余裕を看破されたのか、さらに神の御手による天罰が追加された。



――――
萩中様リクエスト『依頼人の奥様に食べられかける益田とその記憶を視て嫉妬する榎木津』でした。ありがとうございました。
これにてリクエストお題達成です!お付き合いくださった皆様、本当にありがとうございました! 



 

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2009/04/03 02:13 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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