休日が明け、行く人々の足も何処か急いている月曜の朝。
昨日も普通に働いていた上、特に急ぐ先があるわけでもない益田の足取りもつられて早まる。歩道を埋める雑踏の横を幾台もの自動車がすり抜けていく。石畳を蹴る靴底、遠ざかるエンジン音、小さな会話が幾つも集まって雑然とした雰囲気を作っている。
ぷわっ。
喇叭のような音がした。だが忙しい朝のこと、其れに気を止める者は居ない。益田も音にすら気づかない様子で歩調を変えずに進む。踏みしめるリズムに合わせて重そうな前髪が揺れる。其れがびくりと跳ねたのは、背後から突撃喇叭の如き爆音が耳をつんざいたからである。
人々が皆足を止め、益田も振り向いた。一台の自動車が益田に鼻先を向けている。くすんだ色のビジネス街では異質な程に真っ赤な車体。ウインドウ越しに見える運転席の男は、栗色の髪を振り乱しながらしきりにハンドルを叩き続けている。
「…えっ、僕!?」
ざわめく人波から逃げるように、益田は助手席に飛び乗った。
それを認めると、運転手―――榎木津はアクセルを踏み込む。衆目の視線を一身に浴びながら発進した車の中で、益田は力が抜けたようにずるずるとシートを滑った。
「もうなんなんですか榎木津さん!吃驚するじゃないですかぁ」
「ビックリも栗ご飯も無い!僕が呼んでるんだから直ぐハイと返事をしなさい、これは世界の常識だぞ」
「車でパフパフやられたって解りませんって…」
窓の外に目をやれば、流れる景色はすでに平然と落ち着きを取り戻している。益田など最初から居なかったかのように淀みなく流れる通行人の群れは、現れては消えていった。
「榎木津さん今日は随分お早いですね。まさか僕を迎えに来てくれたんですか、なんて」
勝手に照れる益田を見もせず、榎木津は前方から視線を外さないまま答えた。
「半分当たりだいたいはずれ。今日は天気が良いからドライブにしようと決めて来たんだ。機嫌良く走ってたのに辛気臭く歩いてる下僕が居るじゃないか。あんなにしょぼくれて歩いてる男がうちに出入りしてるなんて恥ずかしい、恥ずかしすぎる!」
だから神の責任で回収した、と云われ、益田はがっくりと肩を落とした。云う程期待していた訳ではないので、まぁこれは所謂パフォーマンスというやつだ。見る者も無い道化を演じる下僕と神を乗せて、真っ赤な自動車は進む。
「まぁいいや、おいマスヤマ、お前何処か行きたい所はあるか?」
「行きたい所ですか?そうですねェ、あっそうだ。和寅さんが醤油の買い置きが無いって云ってたんですよ。ですから醤油買いに行きましょうよ。車だから荷物にならないし、ついでに酢とか買い込んじゃおうかなぁ」
さも名案かのように益田が両手を打ち鳴らしたのと同時に、榎木津はブレーキペダルを勢い良く踏み込んだ。車は急停止し、益田もつんのめる。車通りの多い道だったら危うく大事故だ。見れば榎木津が、大音量でクラクションを鳴らしていた時と同じ顔で益田を睨みつけている。
「僕の話を聞いていなかったのか耳無し芳オロカ!僕はドライブに行くと言ったんだぞ!」
「だ、だって榎木津さんが何処に行きたいかって聞くから」
「お前の世界は自分家と探偵社と乾物屋しか無いのか!歩き方だけじゃなく発想までしょぼくれているとは、見下げ果てたオロカ。乾物屋の店先にぶら下がっているスルメだってもっと世界を知っているぞ。あれは海から来たからな」
海もいいなぁ、と一人で納得した榎木津は、アクセルを踏んで発進した。再び景色が流れ出す。
スピードに乗る直前、助手席側に身を乗り出して、益田の耳元に低く囁かれた。
「気の利いた行き先が思いつくまで降ろしてやらない」
「そんなぁ」
急にドライブと云われても、益田などが思いつく場所などは高が知れている。榎木津の言い分では無いが、確かに世界が狭いと思う。思いを巡らせて見ても、現れる景色ひとつひとつが日常の枠を出ないものばかりだ。それでも妄想には自信があったので、並木を目で数えながら考える。窓を一杯に開けて海風を取り入れながら進む海岸線の道、緑萌える山間、白鳥なんかが優雅に水面を滑る静かな湖畔も悪くないかもしれない。雪深い箱根の山奥、榎木津と出会った。
「なんだそれは」
「え?」
「今は春だぞ、何処に雪があるんだ。幾ら車が速いからって冬には行けない。春には春の楽しみ方があるのに風情を解ってない男だな」
「あっ視ましたね、そんな事より前見て運転してくださいよぅ」
だって仕方ないじゃないか。あの景色は特別なんだ。屋根に重く積もった雪が融けてどさりと落ちるように、益田を連れ出す切欠の。
榎木津はハンドルを切った。
「決めた。今日はお花見」
「あ、嗚呼良いですねぇ。神宮なんか見頃じゃないですか」
2人を乗せた赤い自動車は走り、やがて桜の並木に辿り着く。儚いまでに淡いのに、空気まで染めるほどの色を纏った木々が大きく両手を広げている。榎木津が窓を開けたので、益田もそれに従った。車内の空気が入れ替わり、胸の奥まで春の匂いに満たされる。
風が吹く度にぶわぁと舞い上がっては、はらはらと降る花びらが、まるで。
「雪みたいだろう」
神に不可能は無いのだ、と榎木津が笑っている。初めて見た日から益田の心を惹き付けて離さない。
車内にまで吹き込んだ花弁の掃除が難儀そうだなぁ、と益田は思った。この雪は時が経てど、融けて消えたりしないものだ。
――――
無記名でのリクエスト「榎木津の車で出かける2人」でした。ありがとうございました。
映画版榎木津で想像したら面白い話かと(そんな面白さは求めていない)
昨日も普通に働いていた上、特に急ぐ先があるわけでもない益田の足取りもつられて早まる。歩道を埋める雑踏の横を幾台もの自動車がすり抜けていく。石畳を蹴る靴底、遠ざかるエンジン音、小さな会話が幾つも集まって雑然とした雰囲気を作っている。
ぷわっ。
喇叭のような音がした。だが忙しい朝のこと、其れに気を止める者は居ない。益田も音にすら気づかない様子で歩調を変えずに進む。踏みしめるリズムに合わせて重そうな前髪が揺れる。其れがびくりと跳ねたのは、背後から突撃喇叭の如き爆音が耳をつんざいたからである。
人々が皆足を止め、益田も振り向いた。一台の自動車が益田に鼻先を向けている。くすんだ色のビジネス街では異質な程に真っ赤な車体。ウインドウ越しに見える運転席の男は、栗色の髪を振り乱しながらしきりにハンドルを叩き続けている。
「…えっ、僕!?」
ざわめく人波から逃げるように、益田は助手席に飛び乗った。
それを認めると、運転手―――榎木津はアクセルを踏み込む。衆目の視線を一身に浴びながら発進した車の中で、益田は力が抜けたようにずるずるとシートを滑った。
「もうなんなんですか榎木津さん!吃驚するじゃないですかぁ」
「ビックリも栗ご飯も無い!僕が呼んでるんだから直ぐハイと返事をしなさい、これは世界の常識だぞ」
「車でパフパフやられたって解りませんって…」
窓の外に目をやれば、流れる景色はすでに平然と落ち着きを取り戻している。益田など最初から居なかったかのように淀みなく流れる通行人の群れは、現れては消えていった。
「榎木津さん今日は随分お早いですね。まさか僕を迎えに来てくれたんですか、なんて」
勝手に照れる益田を見もせず、榎木津は前方から視線を外さないまま答えた。
「半分当たりだいたいはずれ。今日は天気が良いからドライブにしようと決めて来たんだ。機嫌良く走ってたのに辛気臭く歩いてる下僕が居るじゃないか。あんなにしょぼくれて歩いてる男がうちに出入りしてるなんて恥ずかしい、恥ずかしすぎる!」
だから神の責任で回収した、と云われ、益田はがっくりと肩を落とした。云う程期待していた訳ではないので、まぁこれは所謂パフォーマンスというやつだ。見る者も無い道化を演じる下僕と神を乗せて、真っ赤な自動車は進む。
「まぁいいや、おいマスヤマ、お前何処か行きたい所はあるか?」
「行きたい所ですか?そうですねェ、あっそうだ。和寅さんが醤油の買い置きが無いって云ってたんですよ。ですから醤油買いに行きましょうよ。車だから荷物にならないし、ついでに酢とか買い込んじゃおうかなぁ」
さも名案かのように益田が両手を打ち鳴らしたのと同時に、榎木津はブレーキペダルを勢い良く踏み込んだ。車は急停止し、益田もつんのめる。車通りの多い道だったら危うく大事故だ。見れば榎木津が、大音量でクラクションを鳴らしていた時と同じ顔で益田を睨みつけている。
「僕の話を聞いていなかったのか耳無し芳オロカ!僕はドライブに行くと言ったんだぞ!」
「だ、だって榎木津さんが何処に行きたいかって聞くから」
「お前の世界は自分家と探偵社と乾物屋しか無いのか!歩き方だけじゃなく発想までしょぼくれているとは、見下げ果てたオロカ。乾物屋の店先にぶら下がっているスルメだってもっと世界を知っているぞ。あれは海から来たからな」
海もいいなぁ、と一人で納得した榎木津は、アクセルを踏んで発進した。再び景色が流れ出す。
スピードに乗る直前、助手席側に身を乗り出して、益田の耳元に低く囁かれた。
「気の利いた行き先が思いつくまで降ろしてやらない」
「そんなぁ」
急にドライブと云われても、益田などが思いつく場所などは高が知れている。榎木津の言い分では無いが、確かに世界が狭いと思う。思いを巡らせて見ても、現れる景色ひとつひとつが日常の枠を出ないものばかりだ。それでも妄想には自信があったので、並木を目で数えながら考える。窓を一杯に開けて海風を取り入れながら進む海岸線の道、緑萌える山間、白鳥なんかが優雅に水面を滑る静かな湖畔も悪くないかもしれない。雪深い箱根の山奥、榎木津と出会った。
「なんだそれは」
「え?」
「今は春だぞ、何処に雪があるんだ。幾ら車が速いからって冬には行けない。春には春の楽しみ方があるのに風情を解ってない男だな」
「あっ視ましたね、そんな事より前見て運転してくださいよぅ」
だって仕方ないじゃないか。あの景色は特別なんだ。屋根に重く積もった雪が融けてどさりと落ちるように、益田を連れ出す切欠の。
榎木津はハンドルを切った。
「決めた。今日はお花見」
「あ、嗚呼良いですねぇ。神宮なんか見頃じゃないですか」
2人を乗せた赤い自動車は走り、やがて桜の並木に辿り着く。儚いまでに淡いのに、空気まで染めるほどの色を纏った木々が大きく両手を広げている。榎木津が窓を開けたので、益田もそれに従った。車内の空気が入れ替わり、胸の奥まで春の匂いに満たされる。
風が吹く度にぶわぁと舞い上がっては、はらはらと降る花びらが、まるで。
「雪みたいだろう」
神に不可能は無いのだ、と榎木津が笑っている。初めて見た日から益田の心を惹き付けて離さない。
車内にまで吹き込んだ花弁の掃除が難儀そうだなぁ、と益田は思った。この雪は時が経てど、融けて消えたりしないものだ。
――――
無記名でのリクエスト「榎木津の車で出かける2人」でした。ありがとうございました。
映画版榎木津で想像したら面白い話かと(そんな面白さは求めていない)
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