辛うじて明かり取り程度の役目を果たす小さな窓から、欠けた月の光が降りている。
事務所に戻る階段の途中で、榎木津は足を止めた。踊り場に何かが居る。近づけば、殆ど見えない目で見るよりも直ぐに何であるかは知れた。下僕がくたばっているのだ。顔を寄せると強い酒の匂いがして、榎木津は眉をすがめる。
猫のように丸まっているその腹を軽く蹴り上げれば、抵抗も無くごろりと仰向けに転がった。ばらりと崩れた前髪が顔を殆ど覆ってしまい、蒼い闇の中で幽鬼じみて見えている。
瞼がゆっくりと開き、黒い両の瞳が榎木津を捉えた。
「あぁ、榎木津さん」
「ああえのきづさんじゃない、こんな所で死ぬな。僕が通れないじゃないか」
「だぁいじょうぶですよ、長いおみ足で跨いで通れば良いじゃないすか。僕のことはお構いなく」
呟くその声は、酒精で曇っている。榎木津を見ていたはずの目は、今はもう開いているのかいないのかと言った風情でただぼんやりと宙を泳いでいた。
もう一度靴先でこづいてやっても、反応が無い。榎木津は暫くそれを見下ろしていたが、おもむろに身を屈め薄い胴体を抱え上げた。常ならば「うわぁ止めてくださいよう」等の無駄な抵抗をする筈の手足はただ成すがままにぶら下がり、虚脱した全身は木偶人形さながらだ。酔いで火照った身体と、熱い息が吐き出された事でようやく人間である事を確認すると、榎木津は一段飛ばしで事務所を目指した。肩に益田を引っ掛けたまま手探りで鍵を開け、身体ごとぶつかるように扉を開く。
月光を浴びて艶を帯びるソファは、益田がいつも寝床として使っているものだ。榎木津は一旦其処で立ち止まったが、踵を返し寝室のドアを開けた。留守中和寅が換えたらしい、洗いざらしのシーツが張られた寝台に投げ落とされても、益田は何の応答もしなかった。
「おい、マスカマ」
既に大分緩んだタイを引き抜き、シャツのボタンを外していく。じわりと汗ばんだ肌が少しずつ顕わになった。全て外してしまっても、益田の薄く開いた唇が言葉を発することはない。それどころか十指の先すら、是とも否とも云わず、ただ並んで其処にあるだけだった。
榎木津はその上に乗り上げて、心臓に耳を近づけた。伝わる鼓動は少し速いが、程度としては許容範囲だ。酔っ払っているらしい事を除けば、何処か身体に異常がある訳でも無さそうだ。掌でぺちぺちと頬を張り、「マスヤマ」と呼んでやる。添わせた自分の手と比べると、益田の肌は明らかに熱く、赤かった。髪の隙間から除く耳も同様だ。
覆い隠す前髪が不快で、榎木津はそれらを鷲掴み、一思いに捲り上げた。尖った鼻と薄く開いた目、薄い眉が一度に現れる。生え際まで真っ赤だ。
「マスヤマ」
何も映していなかった益田の瞳がきょろりと動いたかと思うと、じわりと水気を滲ませ、たちまち決壊するように涙を溢れさせた。止めるものもなく流れ、頬を伝い耳の辺りまで濡らしている。突然の事に、前髪を掴んだ手に力が入った。
呼吸をするばかりだった薄い唇が、ようやくかすかに動作する。
―――ずるい。
そんな形を取ったように、榎木津には見えた。
「ずるいって何だ」
「榎木津さんは、気安く触るじゃあないですか」
その度に僕が、どれだけ。
酔っている筈の益田は、やけにはっきりとそう云った。暴かれた額に月の光が落ちている。階段の窓よりも大きな寝室の窓から降る其れは、はらはらと流れる涙の一筋まで照らし出した。
長く華奢な指が力無く寝具に埋まっているのに、自然と目が行く。
「お前僕に触りたいのか」
「触りたいって云ったら、触らせてくれるんですかぁ?神様が、僕なんかに」
そう云ってうっすらと浮かべた笑みは、諦めに満ち、卑屈で、それでいて傲慢であった。
榎木津もふっと笑いを溢す。面白くも無いのに。
「オロカだな」
その声に答える者は無かった。益田の瞳は今や完全に閉じられ、意識すらも眠りの淵に落ちたようだ。清潔なシーツに涙を飲み込んだ暗い染みが出来ている。
前髪を握った拳を解き、くしゃりとかき混ぜると、幾筋かが水のようにさらりと零れ落ちる。指先でついと流せば、黒髪の束が少し血色の収まった頬にかかった。益田の上から身体をずらし、仰向けになる。吐息に交じっていた安っぽい酒の匂いが鼻について仕方ない。
「どんな悪い酒を飲んだんだ」
ぐでんぐでんに酔っ払ってでも、此処に帰ってきた癖に。冷たい床にうずくまって、偏執に酔った頭で何を考えて。
掌に食い込ませた髪の感触を思い出す。榎木津の猫っ毛とは全く異質な其れは、益田の狭い世界を守る結界だ。
「切り落としてやろうかな」
その案は実行されず、榎木津は布団に潜り込んだ。冷たいシーツから少しずつ、今は眠る益田の熱が伝わってきて、榎木津もいつの間にか眠ってしまった。
榎木津が目を覚ました時、寝台は空っぽだった。枕の形まで整えられて、人が寝ていた形跡すら無い。寝起きの不機嫌さを一気に加速させ、榎木津は寝室を飛び出した。
其処に居たのはいつも通り掃除をしている和寅と、不届き者。
「おはようございます、榎木津さん」
何事も無いかのように顔を上げた益田を見て、榎木津は硬直した。尖った顎のあたりを残して、長い前髪がぞろりと覆っている。
昨夜の出来事を何も知らない和寅が、溜息混じりに不平を溢す。
「陰気臭いから止めろと云ったんですがこれが聞かないんですわ」
へらりと笑った口元から覗く八重歯が、此れが益田である事を示す数少ない記号だ。
「酷い顔なんですよもう浮腫んじゃって。瞼とか特に凄くってもう、目のお化けみたいなんですよ。まぁ僕の場合そんなに見られた顔でもないんで気にしないっちゃ気にしないんですがこうしておけば目立たないでしょ?」
榎木津はそれには応えず、益田の頭上に視線を固定した。前髪で隠せない筈の記憶。
しかし其処に視える景色には幾つもの黒い筋が入り込み、取り払われたと思ったら、今度は水底から見上げた水面のように揺らめいている。
榎木津は自分がどんな顔をしていたのか、ついに知る事が出来なかった。
――――
檜扇様リクエスト「榎木津に前髪をくしゃっとかき上げられる益田」でした。ありがとうございました。
前髪萌えを詰め込んだ結果、陰気な話になってしまい申し訳ないことに…
事務所に戻る階段の途中で、榎木津は足を止めた。踊り場に何かが居る。近づけば、殆ど見えない目で見るよりも直ぐに何であるかは知れた。下僕がくたばっているのだ。顔を寄せると強い酒の匂いがして、榎木津は眉をすがめる。
猫のように丸まっているその腹を軽く蹴り上げれば、抵抗も無くごろりと仰向けに転がった。ばらりと崩れた前髪が顔を殆ど覆ってしまい、蒼い闇の中で幽鬼じみて見えている。
瞼がゆっくりと開き、黒い両の瞳が榎木津を捉えた。
「あぁ、榎木津さん」
「ああえのきづさんじゃない、こんな所で死ぬな。僕が通れないじゃないか」
「だぁいじょうぶですよ、長いおみ足で跨いで通れば良いじゃないすか。僕のことはお構いなく」
呟くその声は、酒精で曇っている。榎木津を見ていたはずの目は、今はもう開いているのかいないのかと言った風情でただぼんやりと宙を泳いでいた。
もう一度靴先でこづいてやっても、反応が無い。榎木津は暫くそれを見下ろしていたが、おもむろに身を屈め薄い胴体を抱え上げた。常ならば「うわぁ止めてくださいよう」等の無駄な抵抗をする筈の手足はただ成すがままにぶら下がり、虚脱した全身は木偶人形さながらだ。酔いで火照った身体と、熱い息が吐き出された事でようやく人間である事を確認すると、榎木津は一段飛ばしで事務所を目指した。肩に益田を引っ掛けたまま手探りで鍵を開け、身体ごとぶつかるように扉を開く。
月光を浴びて艶を帯びるソファは、益田がいつも寝床として使っているものだ。榎木津は一旦其処で立ち止まったが、踵を返し寝室のドアを開けた。留守中和寅が換えたらしい、洗いざらしのシーツが張られた寝台に投げ落とされても、益田は何の応答もしなかった。
「おい、マスカマ」
既に大分緩んだタイを引き抜き、シャツのボタンを外していく。じわりと汗ばんだ肌が少しずつ顕わになった。全て外してしまっても、益田の薄く開いた唇が言葉を発することはない。それどころか十指の先すら、是とも否とも云わず、ただ並んで其処にあるだけだった。
榎木津はその上に乗り上げて、心臓に耳を近づけた。伝わる鼓動は少し速いが、程度としては許容範囲だ。酔っ払っているらしい事を除けば、何処か身体に異常がある訳でも無さそうだ。掌でぺちぺちと頬を張り、「マスヤマ」と呼んでやる。添わせた自分の手と比べると、益田の肌は明らかに熱く、赤かった。髪の隙間から除く耳も同様だ。
覆い隠す前髪が不快で、榎木津はそれらを鷲掴み、一思いに捲り上げた。尖った鼻と薄く開いた目、薄い眉が一度に現れる。生え際まで真っ赤だ。
「マスヤマ」
何も映していなかった益田の瞳がきょろりと動いたかと思うと、じわりと水気を滲ませ、たちまち決壊するように涙を溢れさせた。止めるものもなく流れ、頬を伝い耳の辺りまで濡らしている。突然の事に、前髪を掴んだ手に力が入った。
呼吸をするばかりだった薄い唇が、ようやくかすかに動作する。
―――ずるい。
そんな形を取ったように、榎木津には見えた。
「ずるいって何だ」
「榎木津さんは、気安く触るじゃあないですか」
その度に僕が、どれだけ。
酔っている筈の益田は、やけにはっきりとそう云った。暴かれた額に月の光が落ちている。階段の窓よりも大きな寝室の窓から降る其れは、はらはらと流れる涙の一筋まで照らし出した。
長く華奢な指が力無く寝具に埋まっているのに、自然と目が行く。
「お前僕に触りたいのか」
「触りたいって云ったら、触らせてくれるんですかぁ?神様が、僕なんかに」
そう云ってうっすらと浮かべた笑みは、諦めに満ち、卑屈で、それでいて傲慢であった。
榎木津もふっと笑いを溢す。面白くも無いのに。
「オロカだな」
その声に答える者は無かった。益田の瞳は今や完全に閉じられ、意識すらも眠りの淵に落ちたようだ。清潔なシーツに涙を飲み込んだ暗い染みが出来ている。
前髪を握った拳を解き、くしゃりとかき混ぜると、幾筋かが水のようにさらりと零れ落ちる。指先でついと流せば、黒髪の束が少し血色の収まった頬にかかった。益田の上から身体をずらし、仰向けになる。吐息に交じっていた安っぽい酒の匂いが鼻について仕方ない。
「どんな悪い酒を飲んだんだ」
ぐでんぐでんに酔っ払ってでも、此処に帰ってきた癖に。冷たい床にうずくまって、偏執に酔った頭で何を考えて。
掌に食い込ませた髪の感触を思い出す。榎木津の猫っ毛とは全く異質な其れは、益田の狭い世界を守る結界だ。
「切り落としてやろうかな」
その案は実行されず、榎木津は布団に潜り込んだ。冷たいシーツから少しずつ、今は眠る益田の熱が伝わってきて、榎木津もいつの間にか眠ってしまった。
榎木津が目を覚ました時、寝台は空っぽだった。枕の形まで整えられて、人が寝ていた形跡すら無い。寝起きの不機嫌さを一気に加速させ、榎木津は寝室を飛び出した。
其処に居たのはいつも通り掃除をしている和寅と、不届き者。
「おはようございます、榎木津さん」
何事も無いかのように顔を上げた益田を見て、榎木津は硬直した。尖った顎のあたりを残して、長い前髪がぞろりと覆っている。
昨夜の出来事を何も知らない和寅が、溜息混じりに不平を溢す。
「陰気臭いから止めろと云ったんですがこれが聞かないんですわ」
へらりと笑った口元から覗く八重歯が、此れが益田である事を示す数少ない記号だ。
「酷い顔なんですよもう浮腫んじゃって。瞼とか特に凄くってもう、目のお化けみたいなんですよ。まぁ僕の場合そんなに見られた顔でもないんで気にしないっちゃ気にしないんですがこうしておけば目立たないでしょ?」
榎木津はそれには応えず、益田の頭上に視線を固定した。前髪で隠せない筈の記憶。
しかし其処に視える景色には幾つもの黒い筋が入り込み、取り払われたと思ったら、今度は水底から見上げた水面のように揺らめいている。
榎木津は自分がどんな顔をしていたのか、ついに知る事が出来なかった。
――――
檜扇様リクエスト「榎木津に前髪をくしゃっとかき上げられる益田」でした。ありがとうございました。
前髪萌えを詰め込んだ結果、陰気な話になってしまい申し訳ないことに…
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