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2024/11/23 03:53 |
木漏れ日
益田は我が耳を疑った。昨夜もちゃんと掃除をしたはずの耳を疑った。

「えっ榎木津さん、今なんて仰いました?」
「仕事に行くぞと云ったんだ!」

やはり聞き間違いでは無かったが、何かの間違いでは無いか。榎木津が仕事に行くと云っている。しかも探偵助手の自分を伴ってだ。雨が、いや槍が降るかと思ったが、天候は快晴だった。
益田が調査時に被るものと良く似た形の帽子を被った榎木津は、片手に革の鞄を携えている。探偵小説でもあるまいし大きな期待はするまいが、七つ道具の類でも仕込まれているのではと益田はワクワクしてしまった。
それにしても榎木津がここまで準備万端整えて臨む仕事とは一体どんなものか。帝都に跳梁跋扈する悪の怪人をすわ退治するものか、港で夜な夜な執り行われる闇のシンジケートの類を一網打尽か。何にしても大きな仕事になりそうである。益田は乗馬鞭を握る手に力を込めた。

「では行くぞ、マスヤマ!僕についてこい!」
「はい!」

カウベルの音に急かされて、2人して薔薇十字探偵社を飛び出した。
これこそが神たる探偵榎木津礼二郎と有能なる探偵助手益田龍一による、華麗なる事件の幕開け。



―――になる筈も無く。
2人が辿り着いたのは港でも、帝都ですら無い、ただただ広い野原であった。遮る物もなく、のびのびと風が横切るたびに柔らかい野草がさわさわと揺れる。草を食む牛の群れが遠くに点々と見えていた。
益田も来る途中から薄々おかしいなとは思っていた。草を踏みながら辿り着いた木陰で、恐る恐る榎木津にかねてからの疑問をぶつけてみる。

「あの、榎木津さん」
「なに」
「こっちの台詞ですよ。僕ぁ仕事に行くって聞いてきたんですが、このとってものどかな光景は一体なんなんですかぁ」
「そのとオリだっ。僕達の仕事はこれから始まるんだぞマスヤマ。僕は今から準備をするんだ、其処を空けなさい」

榎木津は油断ない動きで片膝を付き、革の鞄に手をかける。口金がぱちんと音を立てて開いた。大きく開いた鞄は、何やら地獄の口のようにものものしいものに見える。榎木津の白い手の甲が吸い込まれていくのを見て、益田は恐る恐る中を覗き込んだ。
果たして中から取り出されたのは、折りたたまれた麻の布だった。榎木津はさっと立ち上がると布をばさりと広げる。緑の絨毯の上に、淡いクリーム色の色彩が覆い被さる。あっけに取られている益田に目もくれず、靴を脱ぎ捨てた榎木津はその上にごろりと横たわった。

「ふう」
「ふう、じゃないでしょう!何やってるんですかぁ」
「何を突っ立っているんだマスカマオロカ。お前もこっちに来て、横になるの。早くする」

ちょいちょい、と指先だけで招かれる。益田は逡巡したが、仕方なく麻布の上に足を踏み入れた。布の隙間を通して飛び出した葉の感触がちくちくする。そっと横たわると、振り仰ぐ大樹の葉陰から落ちる日光がきらめいて美しい。榎木津が歌うように、やっぱり昼寝は麻に限るなぁ、と云ったので益田は飛び起きた。

「昼寝!? 今、昼寝って」
「昼間寝るんだから昼寝に決まっているだろう。解ったらオロカな質問をしない、僕はもう眠いんだから。もう寝るぞ。すぐ寝るぞ。はい寝た」

その言葉を最後に、榎木津は本当に何も云わなくなった。薄く開いた口元からすやすやと零れる吐息。吹く風が枝を揺らせばかき消えるほど儚く安らかなものだ。

「えぇー…」

手を伸ばして、革の鞄を覗き込む。人の頭ほどもある其の中身は、闇を飲み込んだかのように底知れず暗かった筈だが、何のことはない。中には何も入っていなかったのだ。そう思ってみると秘密も何も無い。ただのつまらない、何処にでもある鞄だ。失望を埋めるように、益田はとりあえず乗馬鞭を差し込んでみた。支えも無くぱたりと倒れた鞭が、逆に物悲しい。
益田の心中も知らず、榎木津は眠り続けている。髪に頬に木漏れ日を受けて輝く美貌が恨めしかった。

「しょうがないなぁ、もう…」

麻に覆われて背中に伝わる大地はふかふかとして、けれど瑞々しく冷たい。光の粒を撒き散らしながらさやさやと響く葉ずれの音色は遠い昔に聴いた懐かしさだ。眠る探偵の横顔を盗み見れば、冗談のように長い睫が萌える草に似た健全さで其処にあった。風が止んだ時にふと耳に届く榎木津の寝息が、益田をも眠りへと誘いこむ。

(仕事って何だったんだろう、やっぱり方便だったのかなぁ)

榎木津と共に探偵としての仕事が出来なかったことへの落胆と、そんな事など最初からどうでも良かったと思わせるほどのしみじみとした喜びに包まれて、益田の意識はゆっくりゆっくりと沈んでいった。




―――何だか腹が暖かい。
触れているのは腹だけなのに、其処から全身を優しく温めてくれる。なんだかふわふわと柔らかい。夢から覚めきらない頭が、ただ幸せだけを知覚する。

「うふふ、止めてくださいよぅ榎木津さん…」
「何だマスヤマ、気持ち悪いぞ」

はっと目を開けば、すぐ近くに鳶色の瞳があった。飛び起きようとしたが、榎木津の腕に肩を押えられる。

「馬鹿、動くな。逃げちゃうだろ」
「うぇ、逃げるって何が…あっ」

益田の薄い腹にくっついて、何か丸いものが居る。白と茶の毛並みに映える赤いリボン。榎木津はゆっくりと起き上がり、そっと其の毛玉めいたものを持ち上げた。毛玉からは手足が生え、三角の耳が飛び出している。眠りを阻まれ、不機嫌そうに揺れる尻尾をなだめながら、榎木津は其れをからっぽの鞄に仕舞いこんだ。分厚い革越しに、にゃあおう、と間延びした声が聞こえてくる。

「猫…」
「お仕事終わり!帰るぞマスヤマ!」

両腕で鞄を抱きかかえて進む榎木津に、寝ぼけた頭で付いていく。いつしか陽は傾き、牛の群れも居なくなっていた。



探偵社に戻る頃には、すっかり日が暮れていた。

「お帰りなさい先生、依頼人がお待ちですぜ」
「えっ、依頼人?」

和寅の肩越しにソファを覗き込むと、陰から赤いエナメルの靴が見えた。
榎木津はソファの前に膝をつき、鞄を開けて中を見せてやっている。

「やぁやぁ遅くなったね、でもこの通りちゃあんと連れて来たぞ」
「わぁ、私のにゃんこ!」

エナメル靴の少女は、鞄から猫を引きずり出した。猫は一瞬眩しそうに目を細め、少女の腕の中でごろごろと喉を鳴らしている。状況についていけずただ唖然としている益田に、和寅が囁いた。

「家族でピクニックに出かけた時に飼い猫が逃げちまったそうで。探しに行こうにも女の子の足には遠いし、詳しい場所も解らない。其処で先生が連れて来てやろうって息巻きましてね」

猫を重そうに抱きかかえた少女は、ぴょこりと頭を下げた。猫と揃いの赤いリボンが、柔らかい髪の根元で跳ねる。

「探偵のおじさん、どうもありがとう!」

少女は顔中を笑顔にして、益田の脇をすり抜け、事務所の扉から出て行った。弾む靴音が遠ざかっていく。
榎木津は窓に張り付いて彼女を見送っていたが、やがて顔を上げた。

「どうだマスヤマ、コソコソ他人のいざこざを嗅ぎまわるよりよっぽど健全な仕事だっただろう!」
「そうですねえ…女の子も喜んでましたし。まぁこんな仕事ばっかりじゃ僕ぁ食っていけませんけども」
「そう云うと思ってちゃんと報酬も貰ってあるのだ。そら、口を開けろ」

反射的に口を開けると、榎木津の指先が唇を掠めた。何か放り込まれた。苺ミルクの味が口中を甘く染めていく。

「でもそうならそうと早く云ってくださいよぅ。僕ぁ公然とサボタージュしてるみたいで気が気じゃなかったんですから」
「本当は僕ひとりで十分な仕事だったんだけど、マスヤマが行きたいかと思ったんだ。神の慈悲だぞ、有難く受けなさい」

榎木津も「報酬」を口に含んで笑っている。
同じ風を浴びて、同じ場所に横たわり、同じ夢を見て、同じ甘さを感じる。終わってみれば、なかなかに幸福な一日だ。





――――
蒼月様リクエスト「外で昼寝する榎木津と益田」でした。ありがとうございました。


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2009/03/26 03:19 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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