「あっ、あのっ」
いつも通りビルヂングの扉に手をかけた益田は、後ろから声をかけられた。
振り向くと目に入ったのは、視界を埋め尽くす真っ赤な薔薇。大きな薔薇の花束は、むせかえるような香気を発している。
それを抱えているのは小柄な女性だった。恥らうように伏せられた睫が影を落としている。大和撫子然としたつややかな黒髪が靡き、白いワンピースからすらりと伸びた足首が眩しい。
「はい?」
「此れを」
ずい、と差し出され、反射的に益田は花束を受け取った。
しっとりと瑞々しい花弁にはまだ朝露が残っており、鼻腔を擽る香りも鮮烈だ。腕一杯の薔薇と女性を見比べると、彼女の瞳は潤み、頬も薔薇色に染まっていた。
これはもしかすると、もしかするのではないだろうか。つい益田の口元が緩む。
「此れを…」
「はい!」
きっと顔を上げた女性の表情が真剣さを帯び、益田も一旦崩れた相好を引き締める。
束ねられた真紅の薔薇が、さわさわと揺れた。
「―――榎木津礼二郎さんに渡してください!」
益田の朝一番の落胆はともかく、花束は無事受け取られ、大きな花瓶に活けられた。
沈み込む益田をよそに、和寅は満足げに花の匂いを嗅いでいる。
「うーん良い香りだ。こりゃ朝摘みですな」
「何が朝摘みですか。僕のほのかなドキドキも一緒に摘み取られちゃいましたよ」
「花束を抱えて告白に来るご婦人の心当たりも無いだろうに、期待だけはいっちょ前だな益田君よ。まぁなんにしろ、花に罪はありゃせん」
「そうなんですけどー」
込められた思惑を知ってか知らずか、大輪の薔薇達はしらりとした荘厳さをもって咲き誇っている。
そこから視線を落とせば、添えられていた白い封筒が置いてあり、いよいよ益田の気鬱を高めた。中に封じられた同じく白い便箋に、美貌の探偵への愛の言葉が綿々と綴られているであろうことは想像に難くない。
益田は寝室への扉を見やった。
「…そう云えば榎木津さんはまだ寝てるんですか?」
「うん、寝ておいでだね。なんなら寝室に直接お届けするかい?命の保証はしないけど」
「冗談じゃないですよ、誰が虎穴に生肉持って入るような真似を」
言いかけた途端、勢い良く扉が開く。
「煩いぞマスヤマ!食べる所も無いのにうだうだ云うなこの自意識過剰オロカ!」
「ぎゃっ」
ずかずか歩いてきた榎木津が、益田の頭を引っぱたいた。とんだ地獄耳だ。
はたかれた部位を擦りながら見上げた榎木津は、机上の花瓶と益田の頭上とを見比べている。
「誰だその女の子は」
「誰だって、僕こそ知りませんよぅ。いきなり声かけられて、榎木津さんに渡してくださいって」
「こんなもんも添えられてましたぜ」
和寅が手渡した封筒を、榎木津はぺらりと開いた。中には益田の予想通り純白の便箋が入っている。
鳶色の瞳が内容を追いかけるのを見て、益田は何故か緊張した。自分が書いた訳でも無いのに。
榎木津は否とも是とも云わず、只「ふぅん」とだけ云ってから、益田の座っているソファの足を蹴飛ばした。
「出かけるぞっ」
「エッ、僕もですか!?」
「誰が鍋や釜と出かけると云った。出かけると云ったら出かけるんだから変な事をいちいち云わないでお供しなさい」
前を行く榎木津に、益田は慌てて付いていく。
事務所の扉を閉める時にちらりと目に入った薔薇の赤が、鮮烈に目に焼きついた。
榎木津の背を追うのに夢中になっているうち、いつの間にか2人は街の喧騒を離れていた。ただ歩いているだけでも妙に速い榎木津に、益田は付いていくのがやっとだ。
「何処まで歩くんですかぁ」
「うだうだ云う間に足を動かせ。そら、もう着いた」
「着いたって…何も無いじゃないですか」
辺り一面何も無い。秋には黄金の稲穂を波打たせる水田も、田植え前の今は見渡す限りの野原にしか見えない。
立ちすくんできょろきょろ辺りを見回す益田を無視し、榎木津は田圃に飛び降りた。
そのままうずくまって何か摘んでいるので、益田も追従してみる。身を低くすると、薄紫色の可憐な野花がそこかしこに咲いていた。華奢な茎の先で、蝶の羽にも似た花弁が踊っている。榎木津の指先はそれらを摘み取っては、絡めていた。一輪一輪が束となり、輪となっていく。
「出来たぞっ」
「嗚呼懐かしい、花冠じゃないですか」
蓮華草で作られた大きな冠を、榎木津は得意げに頭上に飾る。ふわふわの栗毛に紅紫と若い緑が映えた。意外にもしっかりとした造りの其れを見て、こんな事まで器用なんだなぁ、と益田は思った。
冠を戴いたままなおも花摘みを止めない榎木津を見て、益田ははたと気がつく。
「出かけるぞって、花冠作りの為に出てきたんですか」
「それもある。田圃に水を入れる前に取らないと」
「そうだよって…僕ぁてっきりあの女性に返事に行くのかと思ってましたよ」
一杯の花束に込められた想い。
それらは腕に預かった時に少しだけ零れて、益田の胸を少し痛ませた。
綺麗な女性だった。大輪の薔薇にも、榎木津の横に立ってもひけを取らないほどに。
ふと目を上げると、花で飾った美貌が益田を見据えている。
「そんなに気になるなら、マスヤマが云って来い」
「え」
「僕は何処かの下僕みたいに、花束程度で誤魔化されるほど簡単じゃないって」
「そ、そんな殺生な。僕にはそんな無体出来ませんよう。赤ん坊と女性だけは泣かすなって僕の祖父も云ったような云わなかったような」
「ならお前も手を動かせ。今日の夕ご飯のおかずだぞ」
「えっこれ食べるんですか!?」
若芽を茹でて食べるのだと云う。
この男は上流社会でもっと良いものを食べている癖に、変な食べ物を好む。益田は花を掻き分けて、なるたけ美味そうな芽を探しては摘んだ。入れ物が無かったので、不承不承羽織っていたベストを提供する。遠慮も何もなく土の上に広げられ、一杯の若芽が積み上がった。こんもりと小山のように盛り上がった其れは、何だか摂りすぎの気もする。
「こんなものか、こんなものだな」
「茹でたら減るって云ったってこれはちょっと凄いですよ」
「いいから持ちなさい」
お気に入りの服が、風呂敷の様にぞんざいに扱われている。
益田は溜息を吐いたが、ふと気がついて前を行って畦道をよじ登る榎木津に声をかけた。
「榎木津さん冠!被ったままですよ」
「うん知ってるよ。和寅にも見せてやる」
「うん知ってるよじゃないですよ、外してくださいって」
子どもじゃないんだから。
30半ばには見えないものの、それでもいい大人が花冠で街を歩けば――しかも後ろにはベスト一杯に包んだ雑草を抱えた貧相な従者が控えている――いい笑い者だ。
振り向いた榎木津は冠に手をやって、じろりと益田を睨みつけた。
「なんだ、羨ましいのか。いいだろう。でもお前には作ってやらない。これは神の飾りだからな」
「要らないですから」
榎木津は再びぴょいと花畑に飛び降りて、適当に一輪の蓮華草を摘み取る。
それから益田の左手を取り、痩せた指の根元にくるりと巻きつけた。
「お前なんかには、これで十分」
薬指の根元で揺れる、春色の花弁。
その意味を問う前に、花冠の神はすたすたと先を行ってしまった。
「ちょっ、榎木津さん、これ」
透ける髪を彩る野花はそれぞれに可憐だが、どう見てもその姿は奇矯である。
けれど益田は、何故か隣に立って歩きたいような気分になった。
とりあえず置いていかれない様に小走りで追いかけると、風に遊ばれる花びらがこそばゆい。
(僕は何処かの下僕みたいに、花束程度で誤魔化されるほど簡単じゃないって)
自分は榎木津が思うよりずっと、馬鹿でオロカで簡単な男のようだった。
何故なら野の花一輪で、こんなにも簡単に。
蓮華草の花言葉:
「心が和らぐ」「私の苦しみを和らげる」「感化」(『花言葉事典』様)
「あなたは幸福です」「あなたは私の苦痛を和らげる」「私の幸福」(『花言葉ラボ』様)
いつも通りビルヂングの扉に手をかけた益田は、後ろから声をかけられた。
振り向くと目に入ったのは、視界を埋め尽くす真っ赤な薔薇。大きな薔薇の花束は、むせかえるような香気を発している。
それを抱えているのは小柄な女性だった。恥らうように伏せられた睫が影を落としている。大和撫子然としたつややかな黒髪が靡き、白いワンピースからすらりと伸びた足首が眩しい。
「はい?」
「此れを」
ずい、と差し出され、反射的に益田は花束を受け取った。
しっとりと瑞々しい花弁にはまだ朝露が残っており、鼻腔を擽る香りも鮮烈だ。腕一杯の薔薇と女性を見比べると、彼女の瞳は潤み、頬も薔薇色に染まっていた。
これはもしかすると、もしかするのではないだろうか。つい益田の口元が緩む。
「此れを…」
「はい!」
きっと顔を上げた女性の表情が真剣さを帯び、益田も一旦崩れた相好を引き締める。
束ねられた真紅の薔薇が、さわさわと揺れた。
「―――榎木津礼二郎さんに渡してください!」
益田の朝一番の落胆はともかく、花束は無事受け取られ、大きな花瓶に活けられた。
沈み込む益田をよそに、和寅は満足げに花の匂いを嗅いでいる。
「うーん良い香りだ。こりゃ朝摘みですな」
「何が朝摘みですか。僕のほのかなドキドキも一緒に摘み取られちゃいましたよ」
「花束を抱えて告白に来るご婦人の心当たりも無いだろうに、期待だけはいっちょ前だな益田君よ。まぁなんにしろ、花に罪はありゃせん」
「そうなんですけどー」
込められた思惑を知ってか知らずか、大輪の薔薇達はしらりとした荘厳さをもって咲き誇っている。
そこから視線を落とせば、添えられていた白い封筒が置いてあり、いよいよ益田の気鬱を高めた。中に封じられた同じく白い便箋に、美貌の探偵への愛の言葉が綿々と綴られているであろうことは想像に難くない。
益田は寝室への扉を見やった。
「…そう云えば榎木津さんはまだ寝てるんですか?」
「うん、寝ておいでだね。なんなら寝室に直接お届けするかい?命の保証はしないけど」
「冗談じゃないですよ、誰が虎穴に生肉持って入るような真似を」
言いかけた途端、勢い良く扉が開く。
「煩いぞマスヤマ!食べる所も無いのにうだうだ云うなこの自意識過剰オロカ!」
「ぎゃっ」
ずかずか歩いてきた榎木津が、益田の頭を引っぱたいた。とんだ地獄耳だ。
はたかれた部位を擦りながら見上げた榎木津は、机上の花瓶と益田の頭上とを見比べている。
「誰だその女の子は」
「誰だって、僕こそ知りませんよぅ。いきなり声かけられて、榎木津さんに渡してくださいって」
「こんなもんも添えられてましたぜ」
和寅が手渡した封筒を、榎木津はぺらりと開いた。中には益田の予想通り純白の便箋が入っている。
鳶色の瞳が内容を追いかけるのを見て、益田は何故か緊張した。自分が書いた訳でも無いのに。
榎木津は否とも是とも云わず、只「ふぅん」とだけ云ってから、益田の座っているソファの足を蹴飛ばした。
「出かけるぞっ」
「エッ、僕もですか!?」
「誰が鍋や釜と出かけると云った。出かけると云ったら出かけるんだから変な事をいちいち云わないでお供しなさい」
前を行く榎木津に、益田は慌てて付いていく。
事務所の扉を閉める時にちらりと目に入った薔薇の赤が、鮮烈に目に焼きついた。
榎木津の背を追うのに夢中になっているうち、いつの間にか2人は街の喧騒を離れていた。ただ歩いているだけでも妙に速い榎木津に、益田は付いていくのがやっとだ。
「何処まで歩くんですかぁ」
「うだうだ云う間に足を動かせ。そら、もう着いた」
「着いたって…何も無いじゃないですか」
辺り一面何も無い。秋には黄金の稲穂を波打たせる水田も、田植え前の今は見渡す限りの野原にしか見えない。
立ちすくんできょろきょろ辺りを見回す益田を無視し、榎木津は田圃に飛び降りた。
そのままうずくまって何か摘んでいるので、益田も追従してみる。身を低くすると、薄紫色の可憐な野花がそこかしこに咲いていた。華奢な茎の先で、蝶の羽にも似た花弁が踊っている。榎木津の指先はそれらを摘み取っては、絡めていた。一輪一輪が束となり、輪となっていく。
「出来たぞっ」
「嗚呼懐かしい、花冠じゃないですか」
蓮華草で作られた大きな冠を、榎木津は得意げに頭上に飾る。ふわふわの栗毛に紅紫と若い緑が映えた。意外にもしっかりとした造りの其れを見て、こんな事まで器用なんだなぁ、と益田は思った。
冠を戴いたままなおも花摘みを止めない榎木津を見て、益田ははたと気がつく。
「出かけるぞって、花冠作りの為に出てきたんですか」
「それもある。田圃に水を入れる前に取らないと」
「そうだよって…僕ぁてっきりあの女性に返事に行くのかと思ってましたよ」
一杯の花束に込められた想い。
それらは腕に預かった時に少しだけ零れて、益田の胸を少し痛ませた。
綺麗な女性だった。大輪の薔薇にも、榎木津の横に立ってもひけを取らないほどに。
ふと目を上げると、花で飾った美貌が益田を見据えている。
「そんなに気になるなら、マスヤマが云って来い」
「え」
「僕は何処かの下僕みたいに、花束程度で誤魔化されるほど簡単じゃないって」
「そ、そんな殺生な。僕にはそんな無体出来ませんよう。赤ん坊と女性だけは泣かすなって僕の祖父も云ったような云わなかったような」
「ならお前も手を動かせ。今日の夕ご飯のおかずだぞ」
「えっこれ食べるんですか!?」
若芽を茹でて食べるのだと云う。
この男は上流社会でもっと良いものを食べている癖に、変な食べ物を好む。益田は花を掻き分けて、なるたけ美味そうな芽を探しては摘んだ。入れ物が無かったので、不承不承羽織っていたベストを提供する。遠慮も何もなく土の上に広げられ、一杯の若芽が積み上がった。こんもりと小山のように盛り上がった其れは、何だか摂りすぎの気もする。
「こんなものか、こんなものだな」
「茹でたら減るって云ったってこれはちょっと凄いですよ」
「いいから持ちなさい」
お気に入りの服が、風呂敷の様にぞんざいに扱われている。
益田は溜息を吐いたが、ふと気がついて前を行って畦道をよじ登る榎木津に声をかけた。
「榎木津さん冠!被ったままですよ」
「うん知ってるよ。和寅にも見せてやる」
「うん知ってるよじゃないですよ、外してくださいって」
子どもじゃないんだから。
30半ばには見えないものの、それでもいい大人が花冠で街を歩けば――しかも後ろにはベスト一杯に包んだ雑草を抱えた貧相な従者が控えている――いい笑い者だ。
振り向いた榎木津は冠に手をやって、じろりと益田を睨みつけた。
「なんだ、羨ましいのか。いいだろう。でもお前には作ってやらない。これは神の飾りだからな」
「要らないですから」
榎木津は再びぴょいと花畑に飛び降りて、適当に一輪の蓮華草を摘み取る。
それから益田の左手を取り、痩せた指の根元にくるりと巻きつけた。
「お前なんかには、これで十分」
薬指の根元で揺れる、春色の花弁。
その意味を問う前に、花冠の神はすたすたと先を行ってしまった。
「ちょっ、榎木津さん、これ」
透ける髪を彩る野花はそれぞれに可憐だが、どう見てもその姿は奇矯である。
けれど益田は、何故か隣に立って歩きたいような気分になった。
とりあえず置いていかれない様に小走りで追いかけると、風に遊ばれる花びらがこそばゆい。
(僕は何処かの下僕みたいに、花束程度で誤魔化されるほど簡単じゃないって)
自分は榎木津が思うよりずっと、馬鹿でオロカで簡単な男のようだった。
何故なら野の花一輪で、こんなにも簡単に。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
――――蓮華草の花言葉:
「心が和らぐ」「私の苦しみを和らげる」「感化」(『花言葉事典』様)
「あなたは幸福です」「あなたは私の苦痛を和らげる」「私の幸福」(『花言葉ラボ』様)
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