まだ明けきらぬ朝方に、薔薇十字探偵社の鍵がそっと回る音がした。
「榎木津さん…?」
ベルの音が鳴らないように、益田は極力そっと事務所のドアを開ける。
ソファーの背の向こうから、にょっきりと脚が飛び出していた。眠っているのだろうか。
そぉっと様子を伺うと、榎木津は目を覚ましていた。
朝日に染まった瞳で見上げてくるその姿は、青と白のボーダーライン。
「…なんだ、マスヤマか」
むくりと起き上がった顔がますます白くて驚いた。きっとあまり眠っていない。
生き人形のような顔に、心なしか疲れたように前髪がばらばらとかかっていた。
「なんだこんな夜中に。菓子ならないぞ、ぼくが夜中に全部食べた」
「菓子はいいですよ、その、榎木津さん」
だいじょうぶですか、と言おうとして口を噤んだ。あまりにも相応しくない。
元気を出してください。そんな姿はあなたには似合いません。色々な言葉が現れては、消えていく。生半可ななぐさめもはげましも、この人には相応しくない。僕がかけるべき言葉ではない。
視線を彷徨わせる益田に、榎木津が声をかける。
「なんだマスヤマ、ぼくに会いたくて来たんじゃないのか?」
「あっ、そ、そうです。榎木津さんに会いたくて」
ウソは言っていない。
夕べはずっと、榎木津が呼んだ自分の名前のことを考えていた。
一瞬にして空気に溶けて消えたそれは、空耳かとも思った。
けれどその瞬間のことを思い出すたび、心臓が跳ね上がって眠れなかったのだ。
珍しく「まとも」だった彼のことを思い出す。
いてもたってもいられなくなり、下宿を飛び出した。電車は動いていないので、線路伝いに歩いてきた。
ふぅん、とどうでもいいような返事を返して、榎木津はソファーに座りなおす。
「はるばる来たのか、オロカモノめ」
「ええ、もう脚がパンパンで」
榎木津が見上げてくるので、きっと席を空けてくれたのだろうと思い、恐る恐る半分のソファーに腰掛けた。
朝陽に包まれる事務所が眩しくて、目を開けていられない。
瞼をしょぼしょぼさせながら、益田は榎木津の方を見ないまま話しかけた。
「榎木津さん、人を好きになるっていうのは、怖いもんですね」
今回の事件の連鎖を思い出す。
いくつもの運命が狂った。人が人を好きになったばかりに。
益田にも、恋でもなんでも、好意はみんな幸せに繋がると信じていた時があったのだ。もう遠い昔のことだけれど。
そんな甘い夢のようなことを信じていられたら、どんなにか良かったろうか。
「教えてください、榎木津さん。人を好きになるのは、幸せなことじゃないんですか?」
僭越な質問だと思った。けれど、聞かずにはいられなかった。
榎木津は一瞬眉を顰め、何を思ったか益田の膝の上に倒れこんだ。
うわわわわ、と動揺する益田に、榎木津は一喝した。
「ぼくは寝るんだ!枕は黙っていろ!」
「ま、枕って」
「随分堅い枕だなぁ、もっと太れ。そうするべきだ」
「無茶苦茶言わないでくださいよ」
「はい、黙る!」
事務所の大きな窓から朝日がどんどん入り込んでくる。
夜明けって意外と早いよな、とぼんやりしている益田に、榎木津の「寝言」が聞こえてきた。
「ぼくは何かを好きになって後悔したことはいっぺんもないよ」
「ないですか」
「ないとも。嫌いなものは見ていても楽しくないし、つまらない。ほんとに好きなものはちょっとでいいんだ」
いつまでも好きでいられるものだけ傍においておきたい。榎木津はそう言った。
益田は榎木津の頭を撫でたくなったが、元通り手を横に下ろした。
僕は、いつまでこの人の傍にいられるんだろう。
昇った朝日がやがて沈むように、いつかは僕もここにいられなくなるんだろうか。
涙をこぼしたら榎木津が濡れてしまうので精一杯飲み込んで、誤魔化す様に喋る。
「榎木津さぁん、幸せですかぁ?」
「ぼくはいつでも幸せだ!神が幸せな世の中はいい世の中だ、そうだろう?」
益田は安堵した。
榎木津は嘘をつかないから、きっと本当に幸せなのだろう。
夜明けの清廉さに当てられたのか、この人の幸せを守るためなら、自分は何でも出来ると柄にもないことを思う。
「僕ぁだめです、苦しいばっかりですよ」
榎木津の一挙手一投足に振り回される。
初めて出会った時から、益田の心臓は彼に持って行かれてしまったのだ。
榎木津がちょっと力を込めれば、たやすく全てを終わらせられる。
捨てられる痛みと、苦しみと、神の手に包み込まれる多幸感の中で消えていく自分を想像する。
遠くを見ている益田の横顔を見ながら、童子のようにきょとんとしていた榎木津が、唇の端をにまりと持ち上げた。
「ふふ」
榎木津の指が、益田の髪をなぞる。
「ばかだなぁ、マスヤマは」
「ば、ばかですか」
「ばかだよ」
ゆっくりと身を起こした榎木津の髪がきらきらと輝く。
睫が触れそうな距離で、珍しく囁いた。
「お前がぼくといて、幸せでないはずがないだろう」
お題提供:『ペトルーシュカ』様