点々と紅い痕が散っているのを見て、
嗚呼生きているのだ、と
当たり前の事を、思ったり、した。
騒がしい黒電話に呼び出され、和寅はぱたぱたと其れに向かった。電話応対も大事な秘書の役目だ。少し咳払いをして余所行きの声を出したが、相手が馴染みの男と知ると直ぐ、意気込みと同じく音域が下がった。
「はい薔薇十字探偵社――嗚呼なんだ、益田君か」
聞こえる声はいつも通り軽薄な調子ではあったが、少しくぐもっている。受話器などと云う異物を介しているからだろうか。
「和寅さんですかぁ、良かった。ちょっとお願いがあるんですけどぉ」
「厄介事は困りますなぁ。今先生もいらっしゃなくて私ゃ留守を預かってるんだ」
「直ぐ済みますから聞いてくださいよぅ。ちょっとお使い頼まれてくれませんか?」
持ち物とその届け先を告げ、電話はぷつりと切れた。
和寅はやれやれと首を振り、適当なずだ袋に依頼の品を詰めていく。
包帯。ガーゼ。消毒薬。水筒。幾ばくかの現金―――困ると云ったのに、矢っ張り厄介事じゃあないか。
榎木津に書き置きをしようとして、止めた。不本意ながらこう付き合っていると、益田の考えてる事のひとつやふたつ判るようになってしまうものなのだ。
小一時間電車に揺られ、着いた場所で和寅は「依頼人」を見つけた。傾いたような駄菓子屋の軒先に置かれた公衆電話にもたれかかって座り込んでいる。和寅が黙ってその前に立つと、俯いた顔がゆっくり擡げられ、へらりと微笑んだ。
「…和寅さぁん」
「あーあ、酷いなあ。私なんか呼んでないで病院に行けば良かったんだ」
ばらばらの前髪がかかった顔は、砂と土と、それから赤黒い滲みで汚れていた。綿のシャツも、ズボンも同様の有様だ。靴に至っては片方しか履いていない。
「無理ですよぅ、財布も取られちゃったんです。電話も駄菓子屋の婆さんに頼み込んで、やっと貸して貰ったんですから」
手酷くやられたものだ。鞄も持っていない。唯一残された持ち物と言えば、両手で抱きかかえている乗馬鞭位のものだ。こんなもので何が出来たというのか。むしろふざけた男と云われ、更に攻撃されるのが関の山と云った所だろう。
手拭に水を含ませ泥汚れを拭うと、大袈裟な呻き声と共にじわりと赤が広がった。
「痛たたっ、和寅さんもっと優しくやってくださいよう」
「生きてる証拠さね。先生のお言い付けを守らなかった罰だと思って我慢我慢」
手指と違って巻きづらい頭部に、和寅はぐるぐると包帯を回してやる。もう傷口は殆ど乾いていたが、やけに頭が火照っているのが気になった。吊り気味の細い目も何処か虚ろだ。
「あらら、熱が出てきた。この辺にして事務所に帰ろう。外じゃあ何も出来ん」
「否、僕ぁ直帰します。なので電車賃だけ貸して貰えません?」
「何戯けた事を言ってるのかね。ほら行くよ」
ぐい、と引き立てた身体から乾いた土がぱらぱらと落ちた。暴行の被害者然としたこの姿、警らに咎められるかもしれない。いざとなったら「人脈」を頼って何とかするしかあるまい。
けれど益田は靴を失った片足をどろどろに汚したままで、いやいやと首を振った。
「何が嫌なんだ。事務所にはもうちょっとマシな薬も置いてあるぞ」
「事務所には怪我が治ってから行きますから、帰らせてくださいよう」
和寅は絶句した。何がしたいのか判らない。
益田がしているのは悪戯が発覚して、仕置きを恐れて逃げ回る子どもの其れだ。
流れる血潮の感触で、掴んだ腕が熱い。
「馬鹿だねぇ、先生は全部お見通しなんだ。遅かれ早かれ解ってしまうことだのに」
「全部終わってたら笑い話ですから、僕ぁ面白可笑しく愚かぶってみせますよ」
学の高くない和寅にも解る。ぶるまでもなく、本当に愚かだ。
云っとくけどね、と和寅は益田の腕を引く。
「私ゃ先生に全部喋るよ。私ゃ益田君を見てしまったんだ、先生に怒られるのは私になってしまう」
「そっか、参ったなぁ。叱られちゃうなぁ」
あちらこちらに傷を滲ませたままに、同じ笑顔を張りつけて。
左右で違う奇妙な足音を引き連れる道中で、和寅は益田に何も聞かなかった。
彼の行為を弾劾するのは、秘書の仕事では無い。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
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和寅難しい…。
しかし薔薇十字団は怪我が多いですね(鳥口骨折、青木失神、益田打撲等)。