真っ直ぐ伸びた夕方の道を、一台の自転車が駆け抜ける。風をはらんで膨らむベストがヨットの帆のようだ。
ふと見慣れた背中を見つけ、鳥口はペダルを踏む足を緩めた。からからと回る車輪を、その人の隣に沿わせる。
「どうも益田君」
「あぁ鳥口君、こりゃどうも」
声をかけられた益田は、帽子の鍔をちょっと持ち上げて会釈した。つられて鳥口も軽く頭を下げる。
尖った肩からぶらさげた鞄の中からは整頓された書類のような紙束と、乗馬鞭が覗いていた。
「調査の帰り?」
「そうだよ、もう今日一日朝からあっちこっち走り回って、クタクタ!見てこれ、足が棒みたい」
勿論傍目にはそうと解らないが、益田は太ももをぽむと叩いてみせる。そして、これから事務所に戻って報告書作らなきゃー嗚呼でももう駄目だ歩けない榎木津さんに怒鳴られてしまう、と云いながらよよと泣く真似をして両手で顔を覆った。態とらしく、指の隙間からゆっくり回るスポークを見つめている。
鳥口は足で自転車を止めた。
「…乗ってく?」
「うわぁ優しいなぁ鳥口君。なんか催促したみたいで悪いね」
嬉々として、ひらりと飛び乗る。後輪と背中にかかる重さに、鳥口は「うへえ」と声を上げた。
「―――尻が痛いよぅ鳥口君」
「其処は荷物を載せる所だからねぇ。荷物は痛いとか云わないもの」
走り出して暫くして、益田は音を上げた。鉄棒を申し訳程度に組んだ荷台は、薄い肉を通して益田の骨に食い込んでいる。それだけならまだしも、神保町までの近道は狙ったように悪路ばかりが続いた。大小の小石が車輪を跳ね上げる度、益田が大袈裟な悲鳴を上げる。
「足を立てればお尻が立たずと云うでしょう。何なら運転替わります?」
「で、君が後ろに乗るの?無理無理、こんな大きな男乗せて漕げませんよぅ」
「横乗りすれば痛くないっすよ」
「えぇー女の子じゃないんだから」
「もう、我侭だなぁ」
下手に仏心を出したばかりに、厄介なものを拾ってしまった。鳥口の口からまた「うへえ」が出る。
仕方ない、自分は降りて益田に漕がせるか。草臥れたサドルでも、荷台よりは幾分ましだろう。ペダルを踏みながら、後ろを振り向く。
「僕一旦降りるんで、益田君乗ってて良いよ」
「…いや、大丈夫。僕にはお構いなく、どうぞこのまま進んで。我侭云わないから」
「? そう云うならまぁ僕ぁ構いませんがね」
ハンドルを捻り角を曲がったところで、鳥口は思わず自転車を止めた。3度目の「うへえ」は溜息を含んで重い。
眼前には、長い長い上り坂が伸びていた。無闇な急坂と云う程でも無いが、果てが見えない道は見ただけで疲弊する。
「…益田君、これ知ってたでしょ」
「えっ何が?鳥口君、頑張ってねッ」
けけけと笑った益田は、女学生がそうするようにからかいを込めて鳥口の背を抱いた。全く嬉しくない。
鳥口は大きく息を吐き、顔を上げ、眼前の坂道目指してペダルを踏む足に力を込めた。
―――ペダルが重い。
試したことはないが、融かした鉛に足を沈めることがあるとすればそれに近いのではないか。
サドルから腰を浮かした立ち漕ぎに切り替え、手汗で滑るハンドルをしっかり握り、鳥口は坂の天辺を目指した。
荷台の荷物――益田が、ひょいと身を乗り出して話しかけてくる。
「大丈夫ですかぁ」
「大、丈夫に、見える?」
「この鞭に正しい使い方をさせてやればもうちょっと頑張れるかなぁ」
なんてね冗談冗談、と云いつつ、益田はいつの間にか取り出していた乗馬鞭を鞄に戻した。呑気なものだ。
この人の悪さ。この坂の先におわす神の言動に、やはり少し似ている。
ぜぇぜぇと咽びながら、鳥口は益田に声をかけた。
「歩いた方が早い、と思うよ。益田君、降りない?僕も自転車、押すから」
「大丈夫ですよぅ、僕ぁ鳥口君を信じてるから」
此処で云われても。本当に調子が良い男だ。そうは云っても、信じていると云われてしまうと頑張らざるを得ない。心なしか、ペダルを蹴る足に力が戻る。
ここぞと云う時に言葉の力を使われると鳥口は弱いのだ。
木々の影を抜けて、2人はようやく坂の終わりに辿り着いた。ふぅ、と顔を上げた鳥口は、自転車を止める。
「うへえ」
「何、どうしたの…うわぁ」
目の前で赤々と燃える大きな夕陽が、眼下に広がる町並みを照らしている。
緑の並木までも紅葉させる景色に二人して暫し見惚れた。
空一杯を染め上げるグラデーションは、何処までも広がって世界すら包むようだ。
「こりゃ壮観だなぁ」
「崖の功名ってやつすね。上って来た甲斐がありました」
こういう坂を、と云い置いて、鳥口は益田の痩せた腕を自分の胴に引き寄せた。苦労して進んできた上り坂と同じ角度の路面に、車輪を触れさせる。
「一気に駆け下りるのが爽快なんだよねぇ」
「えっもうちょっと居ましょうよ、ていうか危な、わ、あぁぁあぁぁ」
間もなく沈み行く丸い炎に、全速力で飛び込む。
帽子が吹き飛ばされそうな向かい風が、鳥口の歓声と、益田の叫び声を置き去りにした。
慣れた道に出れば、榎木津ビルヂングは直ぐそこだ。速度を落とし、自転車はすいすいと進む。人並みの向こうに、ひときわ高い建造物が聳えている。
「あ、鳥口君、もう此処で良いよ」
「えっ?大丈夫ですよついでだし。ビルヂングもう見えてるし」
「見えてるからこそですよ、榎木津さんに見つかったら」
「バァーーーーーーカオロカーーーーーッ!」
「うわっ」
降り注いだ大声にハンドルを取られ、2人を乗せた自転車が右へ左へ蛇行する。通行人が迷惑そうにそれを避けた。
何とか止まり、うっすらと朱色に染まった石壁を仰げば、夕焼け空を映す筈の窓を開け放ち、落ちそうな程に身を乗り出した榎木津が居た。鳥口は帽子を脱ぎ、合図を送る水平のように大きく振る。
「どうも大将!益田君をお届けにあがりました」
「ほらこれだよもぅ、榎木津さぁん、危ないですって!」
「あっ自転車!」
益田の嘆きも虚しく、榎木津は更にぐいと身を乗り出してきた。自殺者かと思い、足を止める者まで出てきている。
「僕も乗りたい!」
窓から榎木津が引っ込んだのを見て、慌てて益田は自転車から飛び降りた。鳥口もペダルを踏み込む。3階から彼が降りてこないうちに、この場を離れなければ。走り出した車輪を追って、益田が声をかける。
「鳥口君ありがとね!」
「益田君もご武運を!」
片手を上げて別れを告げ、鳥口は振り向かなかった。雑踏に紛れて、うひゃあとか云う情けない声が聞こえた気がする。
それぞれの家路に着く人々をすり抜けて駆ける自転車。運転者を動力に進む鉄の馬は、意思無しに走り、坂を上っていく事は出来ない。上れば上るほどに妙な眩暈を起こすあの坂も同様だ。
鳥口はそれに歯痒さを感じながらも、安堵する。益田を乗せた場所に想い人を積み込んで、無理にでも浚って行ってしまう事は無いのだから。
黒い着流しに身を包んだ彼に自転車があまりに似合わないので、鳥口は一人で噴き出した。
先程よりも少し軽く進む自転車の影が、紫色の絨毯を延べた道の上に長く伸びている。ライトが灯り、鳥口の進路に白い輪を作った。
映画版魍魎で関鳥敦が自転車に乗っているのが可愛かったので。20代男子の青春グラフィティ…。
ふと見慣れた背中を見つけ、鳥口はペダルを踏む足を緩めた。からからと回る車輪を、その人の隣に沿わせる。
「どうも益田君」
「あぁ鳥口君、こりゃどうも」
声をかけられた益田は、帽子の鍔をちょっと持ち上げて会釈した。つられて鳥口も軽く頭を下げる。
尖った肩からぶらさげた鞄の中からは整頓された書類のような紙束と、乗馬鞭が覗いていた。
「調査の帰り?」
「そうだよ、もう今日一日朝からあっちこっち走り回って、クタクタ!見てこれ、足が棒みたい」
勿論傍目にはそうと解らないが、益田は太ももをぽむと叩いてみせる。そして、これから事務所に戻って報告書作らなきゃー嗚呼でももう駄目だ歩けない榎木津さんに怒鳴られてしまう、と云いながらよよと泣く真似をして両手で顔を覆った。態とらしく、指の隙間からゆっくり回るスポークを見つめている。
鳥口は足で自転車を止めた。
「…乗ってく?」
「うわぁ優しいなぁ鳥口君。なんか催促したみたいで悪いね」
嬉々として、ひらりと飛び乗る。後輪と背中にかかる重さに、鳥口は「うへえ」と声を上げた。
「―――尻が痛いよぅ鳥口君」
「其処は荷物を載せる所だからねぇ。荷物は痛いとか云わないもの」
走り出して暫くして、益田は音を上げた。鉄棒を申し訳程度に組んだ荷台は、薄い肉を通して益田の骨に食い込んでいる。それだけならまだしも、神保町までの近道は狙ったように悪路ばかりが続いた。大小の小石が車輪を跳ね上げる度、益田が大袈裟な悲鳴を上げる。
「足を立てればお尻が立たずと云うでしょう。何なら運転替わります?」
「で、君が後ろに乗るの?無理無理、こんな大きな男乗せて漕げませんよぅ」
「横乗りすれば痛くないっすよ」
「えぇー女の子じゃないんだから」
「もう、我侭だなぁ」
下手に仏心を出したばかりに、厄介なものを拾ってしまった。鳥口の口からまた「うへえ」が出る。
仕方ない、自分は降りて益田に漕がせるか。草臥れたサドルでも、荷台よりは幾分ましだろう。ペダルを踏みながら、後ろを振り向く。
「僕一旦降りるんで、益田君乗ってて良いよ」
「…いや、大丈夫。僕にはお構いなく、どうぞこのまま進んで。我侭云わないから」
「? そう云うならまぁ僕ぁ構いませんがね」
ハンドルを捻り角を曲がったところで、鳥口は思わず自転車を止めた。3度目の「うへえ」は溜息を含んで重い。
眼前には、長い長い上り坂が伸びていた。無闇な急坂と云う程でも無いが、果てが見えない道は見ただけで疲弊する。
「…益田君、これ知ってたでしょ」
「えっ何が?鳥口君、頑張ってねッ」
けけけと笑った益田は、女学生がそうするようにからかいを込めて鳥口の背を抱いた。全く嬉しくない。
鳥口は大きく息を吐き、顔を上げ、眼前の坂道目指してペダルを踏む足に力を込めた。
―――ペダルが重い。
試したことはないが、融かした鉛に足を沈めることがあるとすればそれに近いのではないか。
サドルから腰を浮かした立ち漕ぎに切り替え、手汗で滑るハンドルをしっかり握り、鳥口は坂の天辺を目指した。
荷台の荷物――益田が、ひょいと身を乗り出して話しかけてくる。
「大丈夫ですかぁ」
「大、丈夫に、見える?」
「この鞭に正しい使い方をさせてやればもうちょっと頑張れるかなぁ」
なんてね冗談冗談、と云いつつ、益田はいつの間にか取り出していた乗馬鞭を鞄に戻した。呑気なものだ。
この人の悪さ。この坂の先におわす神の言動に、やはり少し似ている。
ぜぇぜぇと咽びながら、鳥口は益田に声をかけた。
「歩いた方が早い、と思うよ。益田君、降りない?僕も自転車、押すから」
「大丈夫ですよぅ、僕ぁ鳥口君を信じてるから」
此処で云われても。本当に調子が良い男だ。そうは云っても、信じていると云われてしまうと頑張らざるを得ない。心なしか、ペダルを蹴る足に力が戻る。
ここぞと云う時に言葉の力を使われると鳥口は弱いのだ。
木々の影を抜けて、2人はようやく坂の終わりに辿り着いた。ふぅ、と顔を上げた鳥口は、自転車を止める。
「うへえ」
「何、どうしたの…うわぁ」
目の前で赤々と燃える大きな夕陽が、眼下に広がる町並みを照らしている。
緑の並木までも紅葉させる景色に二人して暫し見惚れた。
空一杯を染め上げるグラデーションは、何処までも広がって世界すら包むようだ。
「こりゃ壮観だなぁ」
「崖の功名ってやつすね。上って来た甲斐がありました」
こういう坂を、と云い置いて、鳥口は益田の痩せた腕を自分の胴に引き寄せた。苦労して進んできた上り坂と同じ角度の路面に、車輪を触れさせる。
「一気に駆け下りるのが爽快なんだよねぇ」
「えっもうちょっと居ましょうよ、ていうか危な、わ、あぁぁあぁぁ」
間もなく沈み行く丸い炎に、全速力で飛び込む。
帽子が吹き飛ばされそうな向かい風が、鳥口の歓声と、益田の叫び声を置き去りにした。
慣れた道に出れば、榎木津ビルヂングは直ぐそこだ。速度を落とし、自転車はすいすいと進む。人並みの向こうに、ひときわ高い建造物が聳えている。
「あ、鳥口君、もう此処で良いよ」
「えっ?大丈夫ですよついでだし。ビルヂングもう見えてるし」
「見えてるからこそですよ、榎木津さんに見つかったら」
「バァーーーーーーカオロカーーーーーッ!」
「うわっ」
降り注いだ大声にハンドルを取られ、2人を乗せた自転車が右へ左へ蛇行する。通行人が迷惑そうにそれを避けた。
何とか止まり、うっすらと朱色に染まった石壁を仰げば、夕焼け空を映す筈の窓を開け放ち、落ちそうな程に身を乗り出した榎木津が居た。鳥口は帽子を脱ぎ、合図を送る水平のように大きく振る。
「どうも大将!益田君をお届けにあがりました」
「ほらこれだよもぅ、榎木津さぁん、危ないですって!」
「あっ自転車!」
益田の嘆きも虚しく、榎木津は更にぐいと身を乗り出してきた。自殺者かと思い、足を止める者まで出てきている。
「僕も乗りたい!」
窓から榎木津が引っ込んだのを見て、慌てて益田は自転車から飛び降りた。鳥口もペダルを踏み込む。3階から彼が降りてこないうちに、この場を離れなければ。走り出した車輪を追って、益田が声をかける。
「鳥口君ありがとね!」
「益田君もご武運を!」
片手を上げて別れを告げ、鳥口は振り向かなかった。雑踏に紛れて、うひゃあとか云う情けない声が聞こえた気がする。
それぞれの家路に着く人々をすり抜けて駆ける自転車。運転者を動力に進む鉄の馬は、意思無しに走り、坂を上っていく事は出来ない。上れば上るほどに妙な眩暈を起こすあの坂も同様だ。
鳥口はそれに歯痒さを感じながらも、安堵する。益田を乗せた場所に想い人を積み込んで、無理にでも浚って行ってしまう事は無いのだから。
黒い着流しに身を包んだ彼に自転車があまりに似合わないので、鳥口は一人で噴き出した。
先程よりも少し軽く進む自転車の影が、紫色の絨毯を延べた道の上に長く伸びている。ライトが灯り、鳥口の進路に白い輪を作った。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
――――映画版魍魎で関鳥敦が自転車に乗っているのが可愛かったので。20代男子の青春グラフィティ…。
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