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2024/11/23 03:41 |
2.誓いましょう、手の甲へと口付けて

益田は榎木津の瞳が好きだ。
長く密集した睫に縁取られた、自分を暴く瞳が好きだ。
髪も好きだ。たとえが悪いが、収穫を待つ稲穂のようにさんざめく髪が好きだ。
形のいい唇と、その中に行儀良く並ぶ前歯が好きだ。
指折り数えて上げていくと、両の指でもまだ足りない。
折り曲げられる最後の指はこのためにとっておきたいほど、とりわけ榎木津の手が好きだった。

そんな榎木津の手が、今目の前にある。

榎木津は事務所の机で眠っていた。
「探偵」と書かれた黒い三角錐が日光を跳ね返し、それ自体が光を放つようだ。
報告書をまとめる益田の横に、湯気を立てる珈琲が置かれた。

「あっ和寅さん、どうも」
「いやいや、先生に淹れたんですが寝てるでしょ。あの人起こすとことのほか煩いし」

和寅はお盆で口元を隠しながらひそひそと囁いた。
益田もお盆の裏に顔を寄せ、「違いないです」と言う。
寝起きをやぶられた榎木津の不機嫌さに振り回されるのは、この事務所では珍しいことではない。
起きたらどうせのど渇いたって騒ぎますし、それ飲んじゃってくださいと言い残した和寅はドアの向こうに消えていった。

せっかくだから熱いうちにと、珈琲を口元に運ぶ。
濃い豆の風味がする。あちち、と益田は舌を出した。
窓の隙間から入り込む暖かな風と光が髪や肌を撫でる今の季節は榎木津ならずとも眠くなる。
報告書にペンが滑る音と、榎木津が時折あげる鼾ばかりが事務所を満たしていた。

太陽の角度が変わったのを感じ、益田はふっと顔を上げる。
大きな探偵机に腕を投げ出し、顔を伏せて眠る榎木津に、どうしても目を奪われる。
透ける前髪の向こうに、白いまぶたと長い睫の影が見えた。
益田はそっとソファーから立ち上がり、眠る探偵に近づく。

「榎木津さーん…報告書、出来ましたけどー…」

規則正しく肩が上下している。
三角錐から伸びる影が、少し長くなっていた。
益田はおそるおそる机の前に立つ。寝ているとはわかっていても、若干腰が引けている。

「榎、木津、さーん…?」

その手が、天板の上に投げ出されているのを益田は見た。
やわらかな日差しを受けて、手の甲は一層白い。
乱暴な振る舞いに似合わず、爪先は丸く整っている。
桃色の爪の根元にはさらに白い三日月が浮かんでいた。

益田はその手にそっと触れてみる。
自分の肌とのコントラストでますます白い。
目覚めている時の暴君ぶりを知らなければ、男として頼りなく見えるほどだ。
肌理細かい肌をすべすべと撫でていると、その手を絡めたい衝動がむらむらと湧いてくる。
それに気づいた益田は、音がしそうなほどにぶんぶんと首を振った。
完全に下僕の領分を越えている。
興味や関心の域ではない、自分は神の手に欲情しているのだと知らされた。
ここから離れなければ、何をしてしまうかわからない。
それでもその白から目が離せない。自分が息を呑む音がやけに大きく聞こえる。
手を絡めたら気づかれる。けれど、触れる程度なら目覚めない…。

…嗚呼、神様、すみません。

益田はそっと机の前に膝をつき、投げ出されたままの手の甲に唇を落とした。
薄い皮膚を通して伝わるしっとりとした感触に、うっとりと目を閉じる。

「…いい身分だな、マスヤマめ」

降り注いだ声に驚いて目を開けると、同じ高さで神の瞳がこちらを見ていた。
口元はもう片方の腕に埋もれていて見えないが、その目は半月型に歪んでいる。
益田が驚いて身を引くと、寝起きとは思えぬ機敏さで机を乗り越えた榎木津に腕を捕まえられた。

「ひ、す、すみま」
「何がスミマセンだ!スミマセンで済んだら警察はいらん!コケシも下駄も失業だっ!」

手首を掴む力の強さに、涙がにじむ。
榎木津の声を聞いて、和寅がひょこりと顔を出した。

「あーあ益田君、やらかしてら。先生おはようございます」
「和寅さん、たすけ」
「おい寅、喉が渇いた!珈琲!」
「はいはい、少々お待ちを」

益田の涙声は無視され、和寅は台所に消えた。
へなへなと膝が崩れ、榎木津に捕まれた腕だけが高い位置にぶらさがっている。
長い前髪がいい具合に目の前にかかり、顔が見えないのだけが幸いだった。
今は榎木津の顔が見られない。

「ぼくの手を触ったな」
「はい、触りました…」
「お前がハァハァ煩いから目が覚めてしまったじゃないか」

ハァハァって、と思ったが否定できないのが悲しい。
身の程知らずな興奮を悟られている。
彼の目には、じっと見られている自分の手が見えているのだろう。
そしてゆっくりと近づき、触れ、まぶたが伏せられ暗くなるところまで。

「珈琲が来るから、手っ取り早く済ませるぞ」

えっと思う暇もなく、つかまれたままの手を口元に運ばれる。
骨の浮いた手の甲に柔らかなものが触れる感触に眩暈がした。

「えのき、づ、さん」

獲物を確かめるように舌が動き、浮き出した骨を歯になぞられて益田は震える。
それは快感ではなく、恐慌に似ていた。



 

お題提供:『ペトルーシュカ』様
 

―――
1と似た話運びになっちゃった
益田の幸せってなんだろう…少なくとも書き手の私は幸せなんだけどな
 

 

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2009/02/12 04:11 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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