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2024/11/23 03:35 |
第五夜.或る青年の日記より

4月10日 晴れ

仕事が終わって帰ってきたら、下宿の前に大きな犬が倒れていた。
身体の割に足が細く腹が削げており、典型的な痩せ犬だったが、犬にしては鼻が長く顔つきは精悍だったように思う。目は閉じられていたから解らない。
どうしたものかと思い近寄ったが、犬は僅かに鼻を鳴らすだけで動かなかった。身体の大きさの割に何だか哀れを誘う鳴き声だったので、放っておく事も出来ず、とりあえず昼に食べ損ねた握り飯を置いてやった。犬は2、3度其れを嗅いで、危険が無いと解ったのか口を開けて食べた。2個の握り飯は、あっという間に無くなった。


4月11日 晴れ

昨日の犬はどうなっただろうと思い、道中それとなく探したが見つからなかった。身動きがとれない様子だったので、もしかしたら保健所に連れて行かれてしまったのかも知れない。
事務所に着くなり「そのわんこを何故連れ帰ってやらなかった、このバカオロカ!」と榎木津さんに酷く怒られた。僕の家は彼の家と違って大きな庭がある訳では無いのに。
その事を鳥口君に話したら、「きっと元気になって巣に帰ったんですよ」と云ってくれた。だといいのだが。


5月10日 曇り後晴れ

最終電車でようやっと帰り着いたと思ったら、駅舎の影から先日の犬が出てきて非常に驚いた。以前とはうって変わってとても元気な様子で、僕の顔を見て顔に似合わぬ甘い声で鳴いている。
今日は食べ物は無いと云ったのだが、解っているのかいないのか、僕の傍を離れようとしない。歩き出せばいつかは離れるかと思ったが、困ったことに家の横まで着いてきた。家には入れてやれない、と云うと今度は得心したようで、振り向きもせずに行ってしまった。
人に良く慣れているようだが、頭を撫でてやった時に首輪が無いことに気が付いた。


6月8日 晴れ

今日は仕事が早く終わって嬉しい。和寅さんも居ないし榎木津さんもどこかに出かけてしまっているので、勝手に帰る事が出来た。
そしたらあの犬に会った。遅い夕食を買った帰りだったので、食事の匂いに気が付いたのかも知れない。折角なので一緒に食べようと思い、公園に立ち寄ってベンチで食べた。焼いた豚肉を分けてやったら、地面に置く前に手から食べた。本当によく慣れた犬だが、肉を噛むたびに大きな口から覗く牙が怖くないと云えば嘘になる。


7月7日 雨

折角の七夕なのに、生憎の雨だった。鬱憤晴らしにと思い、青木さんと鳥口君を飲みに誘う。二人とも快諾してくれて、久しぶりに楽しい夜を過ごした。


7月22日 晴れ

野犬狩りの噂を耳にした。
教えてくれた魚屋のおじさんは、ここ最近界隈で巨大な野良犬が出ているので、人的被害が出る前に何とかしなければいけないと云っていた。きっと僕が時々見かけるあの犬の事を云っているのだろう。そういえばここしばらくあの犬を見かけていない。あれほど大きな犬だ、凄く目立つに違いない。もう捕まってしまったのだろうか。捕まっていないにしても、飢えているのではないか。


8月4日 雨

先月の飲み会が楽しかったので今月もやろうと思い薔薇十字団を誘ったが、鳥口君には断られてしまった。流石に明日というのは急すぎただろうか。青木さんと相談して、やはり全員集まっている時にしようという話になり、では来週ではどうかと誘い直したら今度は快諾してくれた。


8月5日 晴れ時々曇り

あの犬に会った。日記を辿ってみると、どうも二ヶ月ぶりらしい。だから驚くよりも先に良くぞ生きていてくれたという気分になってしまった。この際だからと、ここに居たら捕まって殺されると説明してやった。犬に人間の言葉で言い聞かせると云うのもこうして書いてみると妙な話だなぁと思う。
けれどもあの犬は、何だか僕の話をちゃんと理解しているのではないかという気がするのだ。僕が話している時、あの精悍な瞳はちゃんと僕の顔を見ている。


8月10日 曇り

約束通り薔薇十字団の三人で飲みに行った。いつものことだが鳥口君は腹が空いていたようで、がつがつ音がしそうなほど良く食うので「犬みたいですね」と云ったら咳き込んでいたのが可笑しかった。
その流れで例の犬の話をしたのだが、やはりあれが野良犬である限り社会的に駆除される定めは避けられないであろうと云う事で話が終わってしまった。あんなに良く慣れた犬なのにとも思うが、確かに考えてみれば犬離れした体格だったような気もする。良く見れば愛嬌がある良い顔をしているのだが、そんな事を飼い主でも無い僕が云ってみても仕方がない事なのだろう。
人目のある所に出てこなければ良いのに、と僕が云った時に、誰かが「益田君を見たら出て行かざるを得ないんでしょう、犬だから」と云ったのが妙に耳に残っている。


8月22日 晴れ 夕立あり

古い日記を読んでいて、何故あの犬が怖くないかを思い出した。月が明るかったからだ。夜闇の中から飛び出してきたらきっと僕とて正気では居られないだろうが、月が出ていたからこそ、僕を見てちぎれんばかりに尻尾を振っていたり目を輝かせている事の方に先に気づく事が出来たのだと思う。偶然かも知れないが、覚えておこう。探偵見習いを始めてからこういう些細な事にも引っかかるようになった。


9月4日 晴れ後雨

今日は満月なので来るか来るかと思っていたら、やはり来た。いつものように一目散に飛び出してくるのではなく、人目を忍んででも居るように路地からそっと現れた。撫でてやると嬉しそうに鼻面を寄せてくる。僕の頭くらいある顔が懐っこく近づいてくるのは壮観とも云えるが、こんな姿を知っているのは僕だけなのだろうから野犬狩りなんて話が出たりするんだろう。
いつもは家の前まで着いて来るのに走って行ってしまったから何かと思ったら、直ぐに大雨が降ってきた。野生の本能で気づいたのだろう。にしても、それならそれで僕にも教えてほしかった。


9月19日 晴れ

仕事が立て込んでちょっと帰らない間に、話が随分大きくなっていた。壁新聞にも思い切り手配されていて、凶悪犯が逃げたとでも思わせるような書き方だ。街の噂も凄い事になっている。職業病と云うのだろうか、厭でも耳に入ってきたものだけでも誰それの家の子供が噛まれそうになったとか、誰の家の飼い犬が争って追い払ったとか、あれは犬では無くて狼だとか、そんな声ばかりだ。あの犬は本当はとても人懐っこくて、毛もふわふわしていて、撫でると目を細めて喜ぶのだと云っている者は誰一人居なかった。


9月20日 雨

良い事を思いついた。あの犬が如何にも野良犬だから皆恐れるのだ。せめて見た目だけでも飼い犬らしくしてやれば、もし何かあっても「僕の犬だ」と云って助けてやれる。とりあえずその「もし」が無い事を祈ろう。「もし」があった場合、僕は長い距離を歩いて彼を事務所まで連れて行かなければいけなくなる。


9月23日 雨

鳥口君と喧嘩してしまった。
犬の首輪を選ぶのに付き合ってくれと云ったら、妙な顔をして「そんな事しなくたって犬は犬で解ってるでしょうから余計な事しない方がいいすよ」と苦々しく答えたのだ。まぁそれは人それぞれの主義という物だからそれそのものについて僕はどうこう云う気はなかったが、あまりにも鳥口君らしからぬ態度だったのでどうしたのだと聞いた。そうしたら思いのほか語気が荒くなり、気が付いたら険悪な空気が出来上がっていた。うやむやのまま別れ、仕方なく首輪は一人で買いに行った。遠くから見ても目立つように、赤いものを選んだ。しかし一番大きいものでも回るかどうか怪しい。僕の首にすら余る首輪なのだけれど。


10月4日 晴れ

いつもは直ぐに姿を見せるあの犬が、中々現れない。折角首輪を買ってあるのに。まさか僕の方から奴を探す事になるとは思わなかった。動物探しは慣れているのだが、夜中になるまで全然見つからなかった。あの巨体を何処に隠しているのか、甚だ疑問だ。疲れきって下宿の階段に座り込んでいる所に、申し訳なさそうにやっと現れた。
買っておいたコロッケを与えて機嫌を取ったが、首輪をつけようとした途端やにわに暴れだした。最初に会った時からこんな姿を見た事が無かったので驚いてしまい、思い切り手摺りに頭を痛打した。まだ瘤になっている。くわんくわん揺れる頭をしばらく押さえていた。
その間に逃げてしまったかと思っていたが、犬は逃げるどころか耳も尻尾も項垂れた申し訳無さそうな様子で座っていて、首輪を付けようとした時も逃げなかった。金具を嵌めてやった途端、犬は僕の手をひと舐めしてとぼとぼと何処かに消えていった。


10月5日 雨

雨なので書類仕事をしていたら、鳥口君から電話が掛かってきた。明日話したい事があるので会えないかとの事だった。特段急ぎの仕事も無いので別に良いと云っておいた。人目につくと困るので僕の家に来ると云っていたが、僕は鳥口君に家の場所を教えていただろうか。


10月6日 晴れ

鳥口君との約束の時間まで間があるので、今日の分の日記を先に書いておく。
そう云えば、退社しようとした途端爆笑しながら飛び込んできた榎木津さんが変な事を云っていた。榎木津さんは昨日鳥口君に会っているらしい。関口さんの家に夕食でも食べに行ったのだろう。
鳥ちゃんと何かあったのかと聞かれたので、喧嘩した事を知っているのかと思い「ええ、まぁ」と返事をしたらはたかれた。お前ら二人がどんな遊びをしようと興味は無いが人に迷惑をかけない程度にしろ吃驚するじゃあないかとか何とか云っていたがよく覚えていない。
まぁそこまでは良いのだが、首を絞められたのが解せない。直ぐに解放されたのでこうして日記など書いていられるのだが、「鳥ちゃんの苦しさを思い知ったか!」とか云われた。意味が解らない。僕と喧嘩をしたことが、首に詰まって苦しいとでも云うのだろうか。
階段を昇る足音が聞こえる。きっと鳥口君だろう。仲直り出来ると良いのだけれど。





―――
第五夜は狼男鳥口と益田でした。ネタがベタなので文章をちょっと冒険してみる。
解り難いので追記。鳥口は首輪を外してもらいに来たんです…。




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2009/10/28 23:58 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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