例えば手にしたその箒で、誰よりも高くを飛んでみたくはない?
例えば華奢なその指先に、消えない炎を点してみたくはない?
例えば上滑ってばかりの唇で、誰をも操る言葉を口にしたくは、ないかなぁ?
くらくらと煮える鍋に一滴二滴と雫を垂らすと、鍋の中身はその度に色や匂いを変える。煮立った紫色の波間からひとつ泡が立ち上って消えたのを見計らい、司はコンロの火を消した。粗熱を取って硝子瓶に流し込む動作は果実のジャムを作る様に似ていて、可笑しいと思う。この薬は残念ながらそれほど甘いものでは無いのだ。コルクの栓をしっかり嵌め込み、棚に仕舞う。
「――お待たせ益田ちゃん。ごめんね。あの薬は火加減が大事だからさァ」
「いえそんな、僕こそ急にお邪魔しましてすみません」
ぺこぺこと頭を下げる益田の正面に、司も腰を下ろした。
益田は痩せた肩を竦めて座っていて、横に立て掛けた華奢な箒と兄弟のようで面白い。
「今日は何を教えようか?そうだな、今作った薬を益田ちゃんも作ってみるっていうのはどうかなぁ。アレ一個あると便利なのさ」
「あっ!あの、今日はですね、なんと申しますかその件に関係があるような無いようなあるような」
益田がしどろもどろでそう云うものだから、司はきょとんとしてしまった。益田という若者は此処に来る時はいつも緊張している様子をしているから気が付かなかったが、成程今日は雰囲気がやや違う。
紅茶を啜りながら言葉を待っていると、元通り肩を縮こまらせた益田がぽつりと呟いた。
「魔法使いを……辞めようと思いまして」
「――ふぅん?」
ようやっと益田の姿勢が「申し訳なさそう」だったと云う事に思い至り、司は首を傾げる。目が合った益田は益々居心地悪げに身を固めた。
「その、今まで良くして頂いたのにこんな事云いだして本当」
「ん?イヤイヤ、そりゃあ別に良いんだけどさ。どうしたのさ急に」
そう、如何にも急だ。
益田は目立って魔法の才に富んでいる訳では無い。どう贔屓目に見ても、まぁ良くも悪くも常人程度と云った所だ。話を見聞きするだけで覚えられる程勘も良くなかった。奇声を上げながら転落する彼を掬い上げたのも一度や二度の事では無い。そんな彼が不器用ながらもひとりで空を飛んだり、気配を薄くする力を得られたのは単に彼自身の努力によるものだ。司の所作を視線で追いかけ、真似てみる。彼の熱心な眼差しを色眼鏡越しに
盗み見るのは悪くなかった。
そう、才に欠ける分時間もかかっているのだ。まだささやかな力とは云え、彼の余暇の多くを費やしてやっと得た物を手放そうとする、それだけが不思議でならない。
小さくまとまってしまった身体の中、黒い瞳だけがくるくると泳いでいる。益田は前髪をそっと払い、酷く小さな声で答えた。
「その――ですね、好きな、人が……」
聞いた途端、司は自分の眼が細められるのを自覚した。
いつでも灰白い益田の頬に、僅かな赤みが昇っている。
「ああ、ああ。成程ね。はいはい。セックスすると魔力が消えちゃうって話ね」
「ちょっ、そんな」
明け透けな――そう呟くと、益田は益々顔を真っ赤に染めて項垂れた。面白い子だなァ、と司はいつもそう思う。
司は益田のカップに紅茶のお代わりを注いでやった。澄んだ水面に尖った輪郭が映りこむ。
「うん、まぁ確かに恋人出来たら忙しくなると思うけどさ、またおいでよ。そんな理由なら魔法使いは辞めなくてもいいから」
「えっ」
「迷信だもの。そんな話。それくらいで魔力が消えてちゃあ、今日まで魔法が残ってる訳無いと思わない?」
冷めた紅茶を啜る音だけが室内に響く。
目の前で益田の強張りがゆっくりと解けて行くのが、花が開くようでこれまた面白い。
「えっ、だってそんな、じゃあ司さんは」
「僕が何よ」
「いやっ、その……ははは!何でもありませんけど!」
いつもの彼がする魔女のような甲高い声では無く、乾いた笑い。笑っていない目の中で、瞳が相変わらず落ち着かずに揺れている。
司が卓上に身を乗り出してその漆黒を覗き込むと、解けたばかりの緊張が戻ってきたように益田の身体がぎしりと固まった。
「えぇー、僕童貞に見えた?傷つくなぁ。僕ぁこう見えてなかなかのもんだよ?」
「いやそんな馬鹿な!なんていうかその、見えないだけに、考え込んでしまってしまったりなんかしてしまったりですね」
ああ滑ってる滑ってる。司がくつくつと声を漏らすと、益田は更に動揺を加速させてみせた。泣き出しそうな声で訴える。
「だって司さん、最初僕に云ったじゃないですかァ。魔法使いにならないかって。僕ァてっきり」
「アハハ!別に益田ちゃんが未経験っぽいからって訳じゃないよ。優しい喜久さんはそんな事云わないさぁ。いくら思ってても」
「思ってるんじゃないすか!」
益田が不服げに身を跳ねさせた途端、彼の箒がことりと倒れた。ふらふらと飛んでくる益田の姿は硝子窓からよく見えて、司はその姿を探すのがとても好きだ。
「だってさぁ、益田ちゃんって…」
調子の良い言動と今時の若者らしく重さの無い外見とは裏腹に、驚くほど純粋なものを隠している。
ひとつふたつ注ぐ毎に姿を変えて、揺れてみたり跳ねてみたり、けれど本質は決して揺らがない。
――まるで、魔法のようじゃないか。
―――
第四夜は魔法使い司と見習い魔法使い益田でした。怪に猥談講釈場面が無かったのでかっとなってやった。
例えば華奢なその指先に、消えない炎を点してみたくはない?
例えば上滑ってばかりの唇で、誰をも操る言葉を口にしたくは、ないかなぁ?
くらくらと煮える鍋に一滴二滴と雫を垂らすと、鍋の中身はその度に色や匂いを変える。煮立った紫色の波間からひとつ泡が立ち上って消えたのを見計らい、司はコンロの火を消した。粗熱を取って硝子瓶に流し込む動作は果実のジャムを作る様に似ていて、可笑しいと思う。この薬は残念ながらそれほど甘いものでは無いのだ。コルクの栓をしっかり嵌め込み、棚に仕舞う。
「――お待たせ益田ちゃん。ごめんね。あの薬は火加減が大事だからさァ」
「いえそんな、僕こそ急にお邪魔しましてすみません」
ぺこぺこと頭を下げる益田の正面に、司も腰を下ろした。
益田は痩せた肩を竦めて座っていて、横に立て掛けた華奢な箒と兄弟のようで面白い。
「今日は何を教えようか?そうだな、今作った薬を益田ちゃんも作ってみるっていうのはどうかなぁ。アレ一個あると便利なのさ」
「あっ!あの、今日はですね、なんと申しますかその件に関係があるような無いようなあるような」
益田がしどろもどろでそう云うものだから、司はきょとんとしてしまった。益田という若者は此処に来る時はいつも緊張している様子をしているから気が付かなかったが、成程今日は雰囲気がやや違う。
紅茶を啜りながら言葉を待っていると、元通り肩を縮こまらせた益田がぽつりと呟いた。
「魔法使いを……辞めようと思いまして」
「――ふぅん?」
ようやっと益田の姿勢が「申し訳なさそう」だったと云う事に思い至り、司は首を傾げる。目が合った益田は益々居心地悪げに身を固めた。
「その、今まで良くして頂いたのにこんな事云いだして本当」
「ん?イヤイヤ、そりゃあ別に良いんだけどさ。どうしたのさ急に」
そう、如何にも急だ。
益田は目立って魔法の才に富んでいる訳では無い。どう贔屓目に見ても、まぁ良くも悪くも常人程度と云った所だ。話を見聞きするだけで覚えられる程勘も良くなかった。奇声を上げながら転落する彼を掬い上げたのも一度や二度の事では無い。そんな彼が不器用ながらもひとりで空を飛んだり、気配を薄くする力を得られたのは単に彼自身の努力によるものだ。司の所作を視線で追いかけ、真似てみる。彼の熱心な眼差しを色眼鏡越しに
盗み見るのは悪くなかった。
そう、才に欠ける分時間もかかっているのだ。まだささやかな力とは云え、彼の余暇の多くを費やしてやっと得た物を手放そうとする、それだけが不思議でならない。
小さくまとまってしまった身体の中、黒い瞳だけがくるくると泳いでいる。益田は前髪をそっと払い、酷く小さな声で答えた。
「その――ですね、好きな、人が……」
聞いた途端、司は自分の眼が細められるのを自覚した。
いつでも灰白い益田の頬に、僅かな赤みが昇っている。
「ああ、ああ。成程ね。はいはい。セックスすると魔力が消えちゃうって話ね」
「ちょっ、そんな」
明け透けな――そう呟くと、益田は益々顔を真っ赤に染めて項垂れた。面白い子だなァ、と司はいつもそう思う。
司は益田のカップに紅茶のお代わりを注いでやった。澄んだ水面に尖った輪郭が映りこむ。
「うん、まぁ確かに恋人出来たら忙しくなると思うけどさ、またおいでよ。そんな理由なら魔法使いは辞めなくてもいいから」
「えっ」
「迷信だもの。そんな話。それくらいで魔力が消えてちゃあ、今日まで魔法が残ってる訳無いと思わない?」
冷めた紅茶を啜る音だけが室内に響く。
目の前で益田の強張りがゆっくりと解けて行くのが、花が開くようでこれまた面白い。
「えっ、だってそんな、じゃあ司さんは」
「僕が何よ」
「いやっ、その……ははは!何でもありませんけど!」
いつもの彼がする魔女のような甲高い声では無く、乾いた笑い。笑っていない目の中で、瞳が相変わらず落ち着かずに揺れている。
司が卓上に身を乗り出してその漆黒を覗き込むと、解けたばかりの緊張が戻ってきたように益田の身体がぎしりと固まった。
「えぇー、僕童貞に見えた?傷つくなぁ。僕ぁこう見えてなかなかのもんだよ?」
「いやそんな馬鹿な!なんていうかその、見えないだけに、考え込んでしまってしまったりなんかしてしまったりですね」
ああ滑ってる滑ってる。司がくつくつと声を漏らすと、益田は更に動揺を加速させてみせた。泣き出しそうな声で訴える。
「だって司さん、最初僕に云ったじゃないですかァ。魔法使いにならないかって。僕ァてっきり」
「アハハ!別に益田ちゃんが未経験っぽいからって訳じゃないよ。優しい喜久さんはそんな事云わないさぁ。いくら思ってても」
「思ってるんじゃないすか!」
益田が不服げに身を跳ねさせた途端、彼の箒がことりと倒れた。ふらふらと飛んでくる益田の姿は硝子窓からよく見えて、司はその姿を探すのがとても好きだ。
「だってさぁ、益田ちゃんって…」
調子の良い言動と今時の若者らしく重さの無い外見とは裏腹に、驚くほど純粋なものを隠している。
ひとつふたつ注ぐ毎に姿を変えて、揺れてみたり跳ねてみたり、けれど本質は決して揺らがない。
――まるで、魔法のようじゃないか。
―――
第四夜は魔法使い司と見習い魔法使い益田でした。怪に猥談講釈場面が無かったのでかっとなってやった。
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