足首に食い込む刃が、鈍い光を放っている。痛みによって罠の存在に気づいた時にはもっとぎらぎらと光っていたように思うが、滲み出た彼自分の血で雲ってしまったのか、それとも目の前が朦朧としているだけなのか。傷口を見ていると痛みが蘇ってきそうで、僕は目を細めてそっぽを向いた。
身体が半ば雪に埋もれていることで、良かったことと悪かったことがある。良かったことは、傷口の痛みが麻痺してもうそんなに痛くはないということ。悪かったことは、もうとにかく寒くて寒くて仕方が無いということだ。四肢の先端は冷たいを通り越してただじんじんと痺れているし、腹も冷えている。腹どころか内臓も冷えている。これは物凄く――危ないと思う。何せまだ短い人生、こんな危機に直面したことが無かったので、何がどう危ないのかは具体的には知らない。ただ、この雪深い箱根山で二度と出会う事の無かった仲間たちの行方と何か関係があるように思えて、寒さとは関係無く身が震えた。
尖った鼻先を天に向けると、葉の落ちた木々の隙間から明るい月が見下ろしているのが見えた。月はいくら明るくとも、太陽のように暖めてくれる訳ではない。悲しげな声を上げて鼻を鳴らしても、誰も助けてくれない。
(僕ぁこのまま此処で終わるのかなぁ――)
漠然とそう考えていると、突然茂みががさがさと蠢き、僕は咄嗟に身を起こした。飛び散った雪の塊の向こうに、なにやら大きな影が見える。
(えっ)
片足は鎖に繋がれていて、おまけに刃物が食い込んでいる。一応足を引いてみたが、抉られた傷口が悲鳴を上げるばかりで。逃げる事は不可能だ。仲間のものよりもずっと大きな気配は、近づいてきている。
(狼!? いやまさか…クマ!? いやいやまさか…)
身動きが取れない中、頭だけが必死に回っているのを感じる。この深い雪の中にあっては、狼も熊も等しく飢えているに違いない。きっと血の匂いを嗅ぎ付けてやってきたのだ。
しかし今頭の中を占めているのは、もっと違う生き物だった。この罠を仕掛けた、得体の知れない何か。母親のその母親の母親から、ずっと伝え続けられていた事を今更思い出していた。
―アレに捕まったら、死ぬより恐ろしい目に遭わされるのだよ―
そして遂に姿を現した『アレ』を目の当たりにした僕は、凍りついたように全ての思考が止まってしまうのを感じた。
「――おお、こんな所に何か居るじゃないか!」
(嗚呼――!)
『アレ』は二人居た。一人は、寒そうに背を丸めて立っている。その顔は山の中でも良く見かける猿を大きくしたようなもので、話に聞くよりも恐ろしくは無い。もう一人は罠の傍らにしゃがみ込んで、大きな瞳でまじまじと眺めている。こっちの方は想像してみたことも無い姿かたちをしていたので、恐ろしがれば良いのか違うのかも良く判らなかった。
二人の『人間』は僕を真ん中に据えて、何やら話し合っている。
「これは酷い。綺麗な脚が真っ赤っ赤になってしまっているじゃないか!よおし痛いだろう。直ぐに外してやるぞ」
「良いのかい?その罠を仕掛けたのはきっと地元の猟師だろう。獲物を勝手に逃がしてしまって…」
「猟師と云うからには猟をするのが仕事のはずだぞ。鉄砲やら弓矢やら持って追いかけてバンとやるのが猟だ。こんな所にトラバサミなんか仕掛けて放っといて自分は家の中でぬくぬく眠っているのなんか猟じゃない!大体トラバサミというなら虎を取れば良い。これはどう見たって虎じゃないだろう」
「そりゃあまぁ、虎では無いけども」
「虎じゃないんだから釣りで云うなら外道だ。外道は逃がすものだ。そうでなくたって僕のする事に文句云えるやつなんか居ない!」
バチン、と音を立てて刃が口を開いた。固まっている僕を無視し、白い手は真新しい傷口にぐるぐると何か布を巻きつけた。痛みが全く治まったとは云わないまでも、仲間のもとまでは歩いていけそうだ。
「そうら、これで良い。行きなさい」
ぽん、と背を叩かれ、僕は雪原へと駆け出した。茂みの中に飛び込んで、そっと様子を伺う。二人の人間は足跡を残して元来た道を引き返していく所だった。
(あれが、人間かぁ――)
乾いた血がこびり付いているからっぽの罠が、月光に照らされている。
少し考えてから、雪面に残った二つの足跡を追いかけた。小さな足跡が点々と続いていく。
恩を返したい。というか、自分もあんな風になりたい。なってみたい。
まだ痛む後足を引きずりながら、僕――若い狐は強く思っていた。
■
どうにか転がり込んだあの時の人間――榎木津さんの居室の窓から往来を見下ろしながら、そんな事を思い出していた。いやぁ人間やる気になれば何でも出来るもんだなぁ、僕ぁ厳密には人間じゃないけど――などと考えていると、背後で扉が開く気配がした。
「益田君、益田君」
「あぁはい和寅さん、なんでしょう」
呼ばれて振り向けば、そこにはぶすくれた顔をした和寅さんが立っている。和寅さんは大股でずかずかと近づいてくると、手にした箒で僕の尻を小突いてきた。
「尻尾!出てる!」
云われてみると確かに、毛足の長い山吹色の尻尾がゆらゆら揺れている。自慢の尻尾だけれど、この姿で尻尾を生やしていたら変態以外の何者でもないとここ数ヶ月の生活で僕は学んでいた。いつも持ち歩いている木の葉を頭に乗せて秘伝の呪文を唱えれば、嘘のように尻尾はかき消える。
「いやぁどうもどうも、気が緩んじゃってつい」
「どうもどうもじゃないよ。何処に人の目があるか解らないんだからそんな事じゃあ此処じゃあ生きて行けないんだ」
「この身体が心許ないんですよう。足だって二本しか無いし、尻尾でも出しとかないとバランス取れないじゃないすか。耳もこんな小さいし変な所についてるから聞こえが悪いし。まぁそこは毎日の耳掃除で何とかフォローしてるんですけどね?」
「そんな事は承知の上で人里に降りてきたんだろう。文句があるなら山に帰るがいいですぜ。止めやしないから」
和寅さんは良い先輩なのだが、偶にこうしてお小言を云ってくるから参る。僕は調子よく笑って、誤魔化しの体勢に入った。
「ありゃりゃ手厳しい。生憎ですけどね、僕ぁ此処で仕事続けますよ。和寅さんこそ偶には実家の山に帰って尻尾の虫干しでもすればいいんですよ」
和寅さんの丸い頬がぷうと膨れたので、僕は一瞬正体を明かしたのかと思ってしまった。けれど僕より少し年上の彼はそんな事くらいでは文字通り尻尾を出したりはしないらしい。
「私の家は代々榎木津家の裏山に住まわせて頂いてるんだ。ご奉公させて貰わないと」
はぁそりゃ大変だ、と適当な事を云って僕は再び窓の外に視線を投げた。大小の人間が蟻のように行き交っている。誰一人尻尾をくっつけている者は居ない。
「こうして見てると誰が人間で誰がキツネかなんて解らないですよねぇ」
和寅さんも僕の横から顔を出してきた。やはり彼からは獣のにおいがする。僕と似ているようで、全然違うにおいだ。近づいて慎重にかぎわけなければ解らない程微かなものだから、此処に飛び込んできて直ぐ和寅さんに呼び止められて「君、狐だろう」と云われた時は面食らってしまった。そんな僕を落ち着かせるように茶色くてふくふくした丸い尻尾を見せてくれた優しさは幻でしたとでも云うように、冷たい眼差しが僕を射る。
「君が化けるのが下手なんだ。化かすつもりならもう少し上手くやりたまえよ」
「ひっどいなぁ。僕ぁ上手く化けてるつもりですよ?そりゃあまだまだ美女に化けてお侍の馬を掠め取るなんて芸当は無理ですけどね。電車乗ってここまで来るまで誰にも気づかれなかったし」
呆れた溜息を吐いて、和寅さんは窓にもたれて遠くを見ている。空は青いが、ほんの少し煙っている。人が沢山居る場所では仕方ないのだと教えてくれたのも彼だった。
人間は不思議だ。あんなに沢山居て、街は危険な事ばかりなのに、群れを作らないなんて。そのくせ探偵助手である僕の所には「彼女が居なければ生きていけない」とか「彼無しには居られない」という人がしばしばやって来る。
でも僕は、榎木津さんがそんな事を云っているのを聞いたことが無い。
「不思議だなぁ、榎木津さんって」
「なんだね今更」
「榎木津さんは、もし僕が狐だって知っても追い出したりしないですかね」
「うちの先生はそんな事じゃあ追い出したりしないよ。追い出されるとしたらそりゃあ、君が何かやらかした時だろうな」
「ちょっと、止めてくださいよ!縁起が悪いなぁ」
「イヤならせめて私の仕事を手伝いたまえよ。猫の手も借りたい程忙しいんだから、油売ってる暇なんか無いよ」
「はァいお貸ししますよう。狐の手でよければ」
両手の先を丸めてふざけてみせると、和寅さんは大げさに肩を竦めた。手渡された箒を受け取る時に、僅かに掠めた指先が知らない体温を知覚する。――ああそうか。これが人の身体というものか。
その考えは唐突ではあったものの、既に用意されていた場所があるように、すとんと僕の、見せ掛けの身体の中に落ちてきた。
―――
第二夜はキツネ益田とタヌキ和寅でした。もうハロウィンじゃない。
身体が半ば雪に埋もれていることで、良かったことと悪かったことがある。良かったことは、傷口の痛みが麻痺してもうそんなに痛くはないということ。悪かったことは、もうとにかく寒くて寒くて仕方が無いということだ。四肢の先端は冷たいを通り越してただじんじんと痺れているし、腹も冷えている。腹どころか内臓も冷えている。これは物凄く――危ないと思う。何せまだ短い人生、こんな危機に直面したことが無かったので、何がどう危ないのかは具体的には知らない。ただ、この雪深い箱根山で二度と出会う事の無かった仲間たちの行方と何か関係があるように思えて、寒さとは関係無く身が震えた。
尖った鼻先を天に向けると、葉の落ちた木々の隙間から明るい月が見下ろしているのが見えた。月はいくら明るくとも、太陽のように暖めてくれる訳ではない。悲しげな声を上げて鼻を鳴らしても、誰も助けてくれない。
(僕ぁこのまま此処で終わるのかなぁ――)
漠然とそう考えていると、突然茂みががさがさと蠢き、僕は咄嗟に身を起こした。飛び散った雪の塊の向こうに、なにやら大きな影が見える。
(えっ)
片足は鎖に繋がれていて、おまけに刃物が食い込んでいる。一応足を引いてみたが、抉られた傷口が悲鳴を上げるばかりで。逃げる事は不可能だ。仲間のものよりもずっと大きな気配は、近づいてきている。
(狼!? いやまさか…クマ!? いやいやまさか…)
身動きが取れない中、頭だけが必死に回っているのを感じる。この深い雪の中にあっては、狼も熊も等しく飢えているに違いない。きっと血の匂いを嗅ぎ付けてやってきたのだ。
しかし今頭の中を占めているのは、もっと違う生き物だった。この罠を仕掛けた、得体の知れない何か。母親のその母親の母親から、ずっと伝え続けられていた事を今更思い出していた。
―アレに捕まったら、死ぬより恐ろしい目に遭わされるのだよ―
そして遂に姿を現した『アレ』を目の当たりにした僕は、凍りついたように全ての思考が止まってしまうのを感じた。
「――おお、こんな所に何か居るじゃないか!」
(嗚呼――!)
『アレ』は二人居た。一人は、寒そうに背を丸めて立っている。その顔は山の中でも良く見かける猿を大きくしたようなもので、話に聞くよりも恐ろしくは無い。もう一人は罠の傍らにしゃがみ込んで、大きな瞳でまじまじと眺めている。こっちの方は想像してみたことも無い姿かたちをしていたので、恐ろしがれば良いのか違うのかも良く判らなかった。
二人の『人間』は僕を真ん中に据えて、何やら話し合っている。
「これは酷い。綺麗な脚が真っ赤っ赤になってしまっているじゃないか!よおし痛いだろう。直ぐに外してやるぞ」
「良いのかい?その罠を仕掛けたのはきっと地元の猟師だろう。獲物を勝手に逃がしてしまって…」
「猟師と云うからには猟をするのが仕事のはずだぞ。鉄砲やら弓矢やら持って追いかけてバンとやるのが猟だ。こんな所にトラバサミなんか仕掛けて放っといて自分は家の中でぬくぬく眠っているのなんか猟じゃない!大体トラバサミというなら虎を取れば良い。これはどう見たって虎じゃないだろう」
「そりゃあまぁ、虎では無いけども」
「虎じゃないんだから釣りで云うなら外道だ。外道は逃がすものだ。そうでなくたって僕のする事に文句云えるやつなんか居ない!」
バチン、と音を立てて刃が口を開いた。固まっている僕を無視し、白い手は真新しい傷口にぐるぐると何か布を巻きつけた。痛みが全く治まったとは云わないまでも、仲間のもとまでは歩いていけそうだ。
「そうら、これで良い。行きなさい」
ぽん、と背を叩かれ、僕は雪原へと駆け出した。茂みの中に飛び込んで、そっと様子を伺う。二人の人間は足跡を残して元来た道を引き返していく所だった。
(あれが、人間かぁ――)
乾いた血がこびり付いているからっぽの罠が、月光に照らされている。
少し考えてから、雪面に残った二つの足跡を追いかけた。小さな足跡が点々と続いていく。
恩を返したい。というか、自分もあんな風になりたい。なってみたい。
まだ痛む後足を引きずりながら、僕――若い狐は強く思っていた。
■
どうにか転がり込んだあの時の人間――榎木津さんの居室の窓から往来を見下ろしながら、そんな事を思い出していた。いやぁ人間やる気になれば何でも出来るもんだなぁ、僕ぁ厳密には人間じゃないけど――などと考えていると、背後で扉が開く気配がした。
「益田君、益田君」
「あぁはい和寅さん、なんでしょう」
呼ばれて振り向けば、そこにはぶすくれた顔をした和寅さんが立っている。和寅さんは大股でずかずかと近づいてくると、手にした箒で僕の尻を小突いてきた。
「尻尾!出てる!」
云われてみると確かに、毛足の長い山吹色の尻尾がゆらゆら揺れている。自慢の尻尾だけれど、この姿で尻尾を生やしていたら変態以外の何者でもないとここ数ヶ月の生活で僕は学んでいた。いつも持ち歩いている木の葉を頭に乗せて秘伝の呪文を唱えれば、嘘のように尻尾はかき消える。
「いやぁどうもどうも、気が緩んじゃってつい」
「どうもどうもじゃないよ。何処に人の目があるか解らないんだからそんな事じゃあ此処じゃあ生きて行けないんだ」
「この身体が心許ないんですよう。足だって二本しか無いし、尻尾でも出しとかないとバランス取れないじゃないすか。耳もこんな小さいし変な所についてるから聞こえが悪いし。まぁそこは毎日の耳掃除で何とかフォローしてるんですけどね?」
「そんな事は承知の上で人里に降りてきたんだろう。文句があるなら山に帰るがいいですぜ。止めやしないから」
和寅さんは良い先輩なのだが、偶にこうしてお小言を云ってくるから参る。僕は調子よく笑って、誤魔化しの体勢に入った。
「ありゃりゃ手厳しい。生憎ですけどね、僕ぁ此処で仕事続けますよ。和寅さんこそ偶には実家の山に帰って尻尾の虫干しでもすればいいんですよ」
和寅さんの丸い頬がぷうと膨れたので、僕は一瞬正体を明かしたのかと思ってしまった。けれど僕より少し年上の彼はそんな事くらいでは文字通り尻尾を出したりはしないらしい。
「私の家は代々榎木津家の裏山に住まわせて頂いてるんだ。ご奉公させて貰わないと」
はぁそりゃ大変だ、と適当な事を云って僕は再び窓の外に視線を投げた。大小の人間が蟻のように行き交っている。誰一人尻尾をくっつけている者は居ない。
「こうして見てると誰が人間で誰がキツネかなんて解らないですよねぇ」
和寅さんも僕の横から顔を出してきた。やはり彼からは獣のにおいがする。僕と似ているようで、全然違うにおいだ。近づいて慎重にかぎわけなければ解らない程微かなものだから、此処に飛び込んできて直ぐ和寅さんに呼び止められて「君、狐だろう」と云われた時は面食らってしまった。そんな僕を落ち着かせるように茶色くてふくふくした丸い尻尾を見せてくれた優しさは幻でしたとでも云うように、冷たい眼差しが僕を射る。
「君が化けるのが下手なんだ。化かすつもりならもう少し上手くやりたまえよ」
「ひっどいなぁ。僕ぁ上手く化けてるつもりですよ?そりゃあまだまだ美女に化けてお侍の馬を掠め取るなんて芸当は無理ですけどね。電車乗ってここまで来るまで誰にも気づかれなかったし」
呆れた溜息を吐いて、和寅さんは窓にもたれて遠くを見ている。空は青いが、ほんの少し煙っている。人が沢山居る場所では仕方ないのだと教えてくれたのも彼だった。
人間は不思議だ。あんなに沢山居て、街は危険な事ばかりなのに、群れを作らないなんて。そのくせ探偵助手である僕の所には「彼女が居なければ生きていけない」とか「彼無しには居られない」という人がしばしばやって来る。
でも僕は、榎木津さんがそんな事を云っているのを聞いたことが無い。
「不思議だなぁ、榎木津さんって」
「なんだね今更」
「榎木津さんは、もし僕が狐だって知っても追い出したりしないですかね」
「うちの先生はそんな事じゃあ追い出したりしないよ。追い出されるとしたらそりゃあ、君が何かやらかした時だろうな」
「ちょっと、止めてくださいよ!縁起が悪いなぁ」
「イヤならせめて私の仕事を手伝いたまえよ。猫の手も借りたい程忙しいんだから、油売ってる暇なんか無いよ」
「はァいお貸ししますよう。狐の手でよければ」
両手の先を丸めてふざけてみせると、和寅さんは大げさに肩を竦めた。手渡された箒を受け取る時に、僅かに掠めた指先が知らない体温を知覚する。――ああそうか。これが人の身体というものか。
その考えは唐突ではあったものの、既に用意されていた場所があるように、すとんと僕の、見せ掛けの身体の中に落ちてきた。
―――
第二夜はキツネ益田とタヌキ和寅でした。もうハロウィンじゃない。
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