―――眠った。
耳の真横で聞こえる呼吸音が深く静かなものになった事を知り、益田はそっと瞼を開く。卑怯者らしく横目で伺うと、其処には榎木津の寝顔が淡い橙色の灯りに照らされて浮かび上がっている。開いたままの口から漏れ聞こえる寝息はあっけらかんとしていて、子供の寝息を思わせた。子供と一緒に眠った事など、益田には無いのだが。
汗ばんだ身体に纏わりつく布団を掻き分けて、恐る恐る爪先を床に下ろす。部屋を満たす夜気は脚にやたらと冷たく、元通り引っ込めてしまいたい欲求に駆られたがどうにか耐えた。履いたままの靴下は残念ながら何の助けにもならない。ベッドの下にぺしゃりと落ちていた下着から拾って順番に身につけていくうち、益田は寝室と事務所を隔てる扉の前に立っていた。ちらりと寝台の上を省みると、自分が横たわっていた場所にはいつの間にか寝返りを打った榎木津の裸の腕が伸びていた。最初から一人しか居なかったように見える。当たり前だ。この寝台は益田が此処に来るずっと前からあって、榎木津が一人で眠るために用意されている物なのだから。
滑り出た事務所は広いだけあって余計に寒々しい。折りたたんである毛布を広げ、例の如く長椅子に横たわる。張られた質の良い革は服越しにでもひたりと張り付いてえらく冷たい。毛布を肩まで被り、膝を丸めて益田は冷えに耐えた。夜は深く静かで、寝入ってしまいさえすれば朝は直ぐに来るだろう。だがこんな窮屈な姿勢では安寧な眠りは期待できそうにも無い。挙句冬は直ぐ傍まで迫っていて、先日など日も昇らぬうちからあまりの寒さに目を覚ましてしまったほどだ。丸めた腰は痛むし、悪夢を見そうだ。
明日こそは家に帰って、誰にも邪魔されずゆっくり寝よう。
爪先までを無理やり毛布に仕舞いこんで、益田はそう誓いながら遅い眠りについた。
■
目が覚めても益田の誓いはなお堅く、訝しがる寅吉に適当な口上を述べ上げつつ退社し、夜8時には自室に着いていた。先程銭湯から戻ったばかりの身体はまだ温かい。何処からか忍び込んでくる冷気すら火照った肌に心地よい程だ。
褪せた畳に布団をばさりと広げた益田は、見慣れた花模様を見下ろしながら一仕事終えた満足感を持ってひとり笑んだ。
「やっぱり一人で寝るにはこれで十分だなぁ、安物だけど」
枕に巻きつけた貰い物の手拭いすら愛おしい。目の前にぶら下がっている紐を引くと、音を立てて明かりが落ちた。曇り硝子から降り注ぐ月明かりすら、草臥れたカーテンで覆ってしまう。益田は掛け布団をめくり上げると、朝まで約束された筈の安寧な眠りに向かい、うきうきと布団に潜り込んだ。枕に詰まったそば殻の音を懐かしいもののように思いながら、目を閉じれば、己を包む綿の感触に沈むように意識がすうっと鎮まっていく。
―――筈だったのだが。
闇の中、黒曜石の瞳が落ち着かない様子で宙を彷徨っている。意識は鎮まるどころか益々はっきりとして、戸惑うばかりだ。
枕が落ち着かないのだろうか。枕を裏返したり表返したり、挙句立ててみたりしたが、違和感は消えない。消えないどころか益々強くなって、益田を苛んだ。綿の詰まった布団は重いだけでなく冷たくて、折角暖めた手足が芯から冷えていくようだ。
「ま、参ったなぁ…そりゃ確かにあの羽布団に寝ちゃったら普通の布団でなんか寝られる気しないけど、あんなの僕の給金じゃ100年経っても買える気が…」
答える者の無い空笑いが狭い部屋に溶けて消える。いたたまれなくなって、益田は頭の天辺まで布団を引き寄せた。
本当は判っている。長椅子に毛布一枚でもどうにか眠れる自分だ。慣れた自分の寝具で眠れない道理が無い。
何故布団がこんなに冷たいのか。一人分しか無い空間が、どうしてこんなにも心許ない。
気が付けばいつもそうするように膝を丸めていた。その姿勢が厭で、今日はわざわざ夕食も断って帰って来たのに。
名前を呼んでしまわないように、寒さに耐えるふりをして唇を噛み締めた。呼んだところで、此処には誰も居ないのだ。居る時には逃げ出して、居ない時には求めるなど、虫が良すぎる。それでも頭の何処かで、今すぐ電車に飛び乗ればまたあの眠りづらい場所に戻れる事も考えている。
愚かと呼ばれても良い。
本当に、今此処に、貴方が居てくれたら。
―――
久々に榎木津のベッドで夜を明かさない益田を書きました。
とはいえ、なんだかんだでほだされかけているようです。
耳の真横で聞こえる呼吸音が深く静かなものになった事を知り、益田はそっと瞼を開く。卑怯者らしく横目で伺うと、其処には榎木津の寝顔が淡い橙色の灯りに照らされて浮かび上がっている。開いたままの口から漏れ聞こえる寝息はあっけらかんとしていて、子供の寝息を思わせた。子供と一緒に眠った事など、益田には無いのだが。
汗ばんだ身体に纏わりつく布団を掻き分けて、恐る恐る爪先を床に下ろす。部屋を満たす夜気は脚にやたらと冷たく、元通り引っ込めてしまいたい欲求に駆られたがどうにか耐えた。履いたままの靴下は残念ながら何の助けにもならない。ベッドの下にぺしゃりと落ちていた下着から拾って順番に身につけていくうち、益田は寝室と事務所を隔てる扉の前に立っていた。ちらりと寝台の上を省みると、自分が横たわっていた場所にはいつの間にか寝返りを打った榎木津の裸の腕が伸びていた。最初から一人しか居なかったように見える。当たり前だ。この寝台は益田が此処に来るずっと前からあって、榎木津が一人で眠るために用意されている物なのだから。
滑り出た事務所は広いだけあって余計に寒々しい。折りたたんである毛布を広げ、例の如く長椅子に横たわる。張られた質の良い革は服越しにでもひたりと張り付いてえらく冷たい。毛布を肩まで被り、膝を丸めて益田は冷えに耐えた。夜は深く静かで、寝入ってしまいさえすれば朝は直ぐに来るだろう。だがこんな窮屈な姿勢では安寧な眠りは期待できそうにも無い。挙句冬は直ぐ傍まで迫っていて、先日など日も昇らぬうちからあまりの寒さに目を覚ましてしまったほどだ。丸めた腰は痛むし、悪夢を見そうだ。
明日こそは家に帰って、誰にも邪魔されずゆっくり寝よう。
爪先までを無理やり毛布に仕舞いこんで、益田はそう誓いながら遅い眠りについた。
■
目が覚めても益田の誓いはなお堅く、訝しがる寅吉に適当な口上を述べ上げつつ退社し、夜8時には自室に着いていた。先程銭湯から戻ったばかりの身体はまだ温かい。何処からか忍び込んでくる冷気すら火照った肌に心地よい程だ。
褪せた畳に布団をばさりと広げた益田は、見慣れた花模様を見下ろしながら一仕事終えた満足感を持ってひとり笑んだ。
「やっぱり一人で寝るにはこれで十分だなぁ、安物だけど」
枕に巻きつけた貰い物の手拭いすら愛おしい。目の前にぶら下がっている紐を引くと、音を立てて明かりが落ちた。曇り硝子から降り注ぐ月明かりすら、草臥れたカーテンで覆ってしまう。益田は掛け布団をめくり上げると、朝まで約束された筈の安寧な眠りに向かい、うきうきと布団に潜り込んだ。枕に詰まったそば殻の音を懐かしいもののように思いながら、目を閉じれば、己を包む綿の感触に沈むように意識がすうっと鎮まっていく。
―――筈だったのだが。
闇の中、黒曜石の瞳が落ち着かない様子で宙を彷徨っている。意識は鎮まるどころか益々はっきりとして、戸惑うばかりだ。
枕が落ち着かないのだろうか。枕を裏返したり表返したり、挙句立ててみたりしたが、違和感は消えない。消えないどころか益々強くなって、益田を苛んだ。綿の詰まった布団は重いだけでなく冷たくて、折角暖めた手足が芯から冷えていくようだ。
「ま、参ったなぁ…そりゃ確かにあの羽布団に寝ちゃったら普通の布団でなんか寝られる気しないけど、あんなの僕の給金じゃ100年経っても買える気が…」
答える者の無い空笑いが狭い部屋に溶けて消える。いたたまれなくなって、益田は頭の天辺まで布団を引き寄せた。
本当は判っている。長椅子に毛布一枚でもどうにか眠れる自分だ。慣れた自分の寝具で眠れない道理が無い。
何故布団がこんなに冷たいのか。一人分しか無い空間が、どうしてこんなにも心許ない。
気が付けばいつもそうするように膝を丸めていた。その姿勢が厭で、今日はわざわざ夕食も断って帰って来たのに。
名前を呼んでしまわないように、寒さに耐えるふりをして唇を噛み締めた。呼んだところで、此処には誰も居ないのだ。居る時には逃げ出して、居ない時には求めるなど、虫が良すぎる。それでも頭の何処かで、今すぐ電車に飛び乗ればまたあの眠りづらい場所に戻れる事も考えている。
愚かと呼ばれても良い。
本当に、今此処に、貴方が居てくれたら。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
―――
久々に榎木津のベッドで夜を明かさない益田を書きました。
とはいえ、なんだかんだでほだされかけているようです。
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