「僕がこんなに立派になれたのも、何もかも榎木津さんのお陰です」
目の前の生き物が聞き慣れた声で喋ったので、榎木津は驚いてしまった。
榎木津ビルヂングを横に倒したのと同じくらい長く大きな龍が居る。
漆黒に艶めく体表には黒雲母の切片に似た鱗がびっしりと張り付いて、四肢には大きな爪が生えている。
麒麟のような立派な角は輝き、意志を持ってゆらゆらと揺れている長い髭。
ふさりと流れる体毛から見え隠れする瞳に下僕の面影を見て、榎木津はようやっと得心した。
成程――龍、か。
「僕ぁ天に帰ります。その前にお礼をしたいんです。榎木津さん、僕の背に乗ってください」
ぺこりと頭をこちらに下げるだけで、ふわりと空気の流れが起こる。
榎木津が黒い体毛の一片を手綱のように掴んだのを確認して、龍は天へと舞い上がった。
みるみる地上は遠くなり、雑踏はあっと云う間に消えてなくなった。
全身を包み込む爽快な風と、耳元で絶えず鳴り響くごうごうと云う音。榎木津は高らかに笑った。
「うはははは、凄いぞ! お前が此処に来てから一番いい仕事だ!」
「ありがとうございます、あっほらあそこ、眩暈坂です。中禅寺さんの家が見えますよ」
地上を蛇のように這う道が見える。
歩いていると永遠に続くような気すらするあの妙な坂も、一瞬で飛び越えてしまった。
真正面から吹き付ける暴風を感じながら、榎木津はそっと鱗の一枚を撫でた。
榎木津の掌ほどもある其れはとても硬く、触れると冷たい。
「――どうするんだ、こんなに大きくなっちゃって」
風の来る方向に見える龍の頭は、金文字に飾られた扉よりも、硝子窓よりも大きい。
「精々一生懸命仕えて、事務所改築しなさい!
馬鹿でっかいお前でも入れるような大きなドアを作るんだ」
こぉのくらい、と両手を広げた途端、風に呷られて、榎木津の身体が離れる。
あっと思った時には宙に投げ出されていた。自由にならない全身が空中で踊る。
見上げた空は遮蔽物が一切なく、あまりにも広く、黒い龍が横切っていく。
「マス、ヤマ」
もう届かない手を伸ばすと、龍は悠然とこちらを振り向いた。
黒い眼が妙にはっきりと見える。
その瞳からもうあらゆる情が消えうせているのが判り、榎木津は初めて、大きな声で叫んだ。
■
「…人の家で絶叫しないでくれ。それと、僕の本を枕にするのも止めてくれ」
榎木津は呆然と辺りを見渡した。
積み上げられた古書の山、葉ずれの音、憎い相手の死体が生き返った時のように憮然としている主人。
身体の下の畳は温まっている。
「…なんだこりゃ」
頭の下に敷いていた本を拾い上げる。中身も確認せずに適当な山の上に乗せた。
どうせその辺の山の一番上から抜いたのだ。
蛇がのたくったような題字が記された表紙に「古龍」と書かれているのが見える。
恐らく一生読まない類いの本だ。ゆらりと榎木津が立ち上がった。
「帰るのかね」
「うん」
中禅寺は引き止めるでも挨拶するでも無く、元通り活字に視線を落とした。
ふらふらと縁側に出ると、季節と共に透明度を増した秋空が広がっている。
青の中央を横切るのは、刷いたような一条の薄雲。
空の彼方でふつりと途切れる其れを見送って、榎木津はきりと唇を噛んだ。
――――
誰も呼ばないけど益田の下の名前かっこよすぎると思います。
目の前の生き物が聞き慣れた声で喋ったので、榎木津は驚いてしまった。
榎木津ビルヂングを横に倒したのと同じくらい長く大きな龍が居る。
漆黒に艶めく体表には黒雲母の切片に似た鱗がびっしりと張り付いて、四肢には大きな爪が生えている。
麒麟のような立派な角は輝き、意志を持ってゆらゆらと揺れている長い髭。
ふさりと流れる体毛から見え隠れする瞳に下僕の面影を見て、榎木津はようやっと得心した。
成程――龍、か。
「僕ぁ天に帰ります。その前にお礼をしたいんです。榎木津さん、僕の背に乗ってください」
ぺこりと頭をこちらに下げるだけで、ふわりと空気の流れが起こる。
榎木津が黒い体毛の一片を手綱のように掴んだのを確認して、龍は天へと舞い上がった。
みるみる地上は遠くなり、雑踏はあっと云う間に消えてなくなった。
全身を包み込む爽快な風と、耳元で絶えず鳴り響くごうごうと云う音。榎木津は高らかに笑った。
「うはははは、凄いぞ! お前が此処に来てから一番いい仕事だ!」
「ありがとうございます、あっほらあそこ、眩暈坂です。中禅寺さんの家が見えますよ」
地上を蛇のように這う道が見える。
歩いていると永遠に続くような気すらするあの妙な坂も、一瞬で飛び越えてしまった。
真正面から吹き付ける暴風を感じながら、榎木津はそっと鱗の一枚を撫でた。
榎木津の掌ほどもある其れはとても硬く、触れると冷たい。
「――どうするんだ、こんなに大きくなっちゃって」
風の来る方向に見える龍の頭は、金文字に飾られた扉よりも、硝子窓よりも大きい。
「精々一生懸命仕えて、事務所改築しなさい!
馬鹿でっかいお前でも入れるような大きなドアを作るんだ」
こぉのくらい、と両手を広げた途端、風に呷られて、榎木津の身体が離れる。
あっと思った時には宙に投げ出されていた。自由にならない全身が空中で踊る。
見上げた空は遮蔽物が一切なく、あまりにも広く、黒い龍が横切っていく。
「マス、ヤマ」
もう届かない手を伸ばすと、龍は悠然とこちらを振り向いた。
黒い眼が妙にはっきりと見える。
その瞳からもうあらゆる情が消えうせているのが判り、榎木津は初めて、大きな声で叫んだ。
■
「…人の家で絶叫しないでくれ。それと、僕の本を枕にするのも止めてくれ」
榎木津は呆然と辺りを見渡した。
積み上げられた古書の山、葉ずれの音、憎い相手の死体が生き返った時のように憮然としている主人。
身体の下の畳は温まっている。
「…なんだこりゃ」
頭の下に敷いていた本を拾い上げる。中身も確認せずに適当な山の上に乗せた。
どうせその辺の山の一番上から抜いたのだ。
蛇がのたくったような題字が記された表紙に「古龍」と書かれているのが見える。
恐らく一生読まない類いの本だ。ゆらりと榎木津が立ち上がった。
「帰るのかね」
「うん」
中禅寺は引き止めるでも挨拶するでも無く、元通り活字に視線を落とした。
ふらふらと縁側に出ると、季節と共に透明度を増した秋空が広がっている。
青の中央を横切るのは、刷いたような一条の薄雲。
空の彼方でふつりと途切れる其れを見送って、榎木津はきりと唇を噛んだ。
――――
誰も呼ばないけど益田の下の名前かっこよすぎると思います。
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