まずい事になった。
駅に向かう人波を掻き分けるようにして、益田は急いでいる。向かい側から歩いてくる人間を避けるのに精一杯で、脇の小道から飛び出してきた男にも気が付かなかった。結果二人は衝突し、跳ね飛ばされた益田は街路樹にぶつかって転倒を免れたものの、ぶつかって来た方の人物はもんどりうって派手に転んだ。
はっとして見下ろせば、路上にひっくり返っているのは見知った顔。
「鳥口君!」
「そういう君は益田君じゃないすか。いやはや、どうも…痛ってて」
腰を擦りながら立ち上がった鳥口は、益田と目が合うや否や不安げな顔をしてみせた。恐らく益田も同様だろう。何せ彼らは本来この時間、『こんな処に居てはならない』のだ。
「見た所益田君も大分お急ぎで」
「そうなんですよもう、妾宅で本妻さんと二号さんが依頼人交えて大騒ぎで、そういう鳥口君も」
「取材先から直帰のつもりだったんで道に迷っちゃ世話ないです、ってことは、うへぇ」
「と、とにかく急がないと!」
全力疾走で縺れる足を叱咤し、息を切らせて走り抜ける。
駅前に辿り着いた時にはもう日はとっぷりと落ちて、点った街灯の下はそれぞれの行き先に向かう者達で満ちていた。二人はようやく立ち止まり、きょろきょろと辺りを見渡す。直ぐに鳥口があっと声を上げた。
「良かった、まだ居た!」
「いやぁ良かぁないでしょう、ありゃかなり怒ってますよ…」
ロータリーの中央、約束の時刻を二周りも過ぎた文字盤の下に、無表情で突っ立っている若い刑事の姿があった。
*
長く伸びた影に添って、おずおずと声をかける。
「ど、どうも青木さん…お待たせしました…」
「お腹空きましたよね。なんて、空いてないわけないか…」
青木はちらりと黒い瞳を二人に向けたが、またふいと駅舎へと視線を戻した。表情は全く変わらず、平素ならこけしに似ていると云って笑ってやるところだが全くそんな雰囲気では無い。辺りは仕事を終えた人々が放つ開放感に満ちているというのに、三人の周りだけやたらと空気が重いのだ。
「あ、あのう青木さん、こんな所で立ってるのもなんですし、行きません?」
益田がへらりと調子良く笑うと、ようやく青木の首が二人の方向を向いた。――だが。
「すみません、貴方達はどなたですか」
「…へぇ!?」
「生憎僕は友人二人を待っているところですので」
きっぱりとそう云うと、フィルムを巻き戻すようにして青木は姿勢を元に戻してしまった。鳥口と益田はぽかんと口を開けて、その横顔を見ているしかない。
一足先に我に返った鳥口が、未だ呆然としている益田の脇腹を小突いた。
「益田君、益田君」
「あ――ああはい、ど、どうしましょう」
「どうもニッケルも無いでしょう、うへぇ、申し訳無い事したなぁ」
うっかりすると幼くすら見える青木の輪郭が、明らかな拒絶の意志を持って夜の町に浮かび上がっている。
行き交う人々は三人の事を見もしないが、見たとしても、人待ちの様子で遠くを見ている男とその傍らで突っ立っている二人が結びつく事は無いだろう。その位深くて長い溝が、地面を這う影に溶け込んだまま口を開けているように思える。
こういう空気が誰よりも苦手なのは、益田だ。
「どうしたんですよ青木さん!凄く遅れたのは申し訳無いんですが、これには訳がありまして」
「貴方の事情を伺ってる程暇じゃないんですよ僕は」
見もしない。益田はがっくりと肩を落とした。
まぁまぁ、と間に入るようにして鳥口が口を開く。
「まぁ聞いてくださいよ、お互い急ぎすぎて僕と益田君、其処でぶつかったんです。下僕も歩けば僕に当たるとはまさにこのことですよ」
「寒い」
切り捨てられた。鳥口はうへぇ、と悲しげにつぶやいて、それきり黙ってしまう。飼い主に叱られた犬の其れだ。
代わって益田が青木の横に立ち、妙に甘えたような口調で縋りつく。
「ねっ、青木さんお腹空きません?今日は奢りますからパーっと飲んでお怒りを鎮めてくださいよぅ。僕良いお店知ってるんです。生うにお好きじゃないですか?」
「あぁ良いですねぇ、美味しそうじゃないですか。最近寒くなってきたし、熱燗をきゅっといきたい所ですよねぇ」
「鳥口君もこう云ってますし、行きましょうよ青木さん。お店閉まっちゃいますよ」
時計に凭れている青木は、もう返事すらしない。本当に他人の会話を聞いているような態度だ。
溝どころか高い壁を感じる。青木さん、と小さな声で名を呼ぶのが精一杯だ。皆誰かと楽しげに歩き、或いは自分を待つ誰かの元へ行こうとしている中、ひとりで佇んでいた青木を見つけてからどれ程の時間が経っただろう。
呼びかける事も出来なくなった二人に目もくれず、呼吸をひとつ落とした青木が、後頭部をことりと支柱に預けた。
「――僕の友人はね、謝りもしないで奢りなんかで済まそうなんて云う薄情な連中じゃあないんですよ」
天を振り仰いだ横顔は、やはり誰かを、何かを待っているようで。
そして――酷く寂しそうなものだ。
鳥口と益田はその表情を見つめ、二人で顔を見合わせ、口々に叫んだ。
「…青木さぁぁん!ごめんなさぁぁい!」
「本当にごめんなさい!僕達が、いや!僕が馬鹿でした!つまんない事云ってうやむやにしようとして、僕ぁ最低だ」
「いや馬鹿なのは僕もです!そうですよ何より最初に頭を下げなきゃいけなかったんだ!本当に申し訳ない!僕ぁ榎木津さんの云う通り、馬鹿で愚かなカマ野郎なんですよぅぅ!」
「いやカマは関係無くない!?」
「………………くくっ」
はたと口を噤んだ二人の目の前で、青木が口に手を当てて笑っている。間隔は狭いが人懐っこい瞳と切れ長の黒い目がぶつかって、それから満面の笑みに変わった。
「やったー青木さんが笑ったー!やったー!」
「笑ってくれました!良かった!本当に良かった!」
通行人の中には、まだ酔っ払いが出るには早い時間帯でありながら路上で万歳三唱している男二人を訝しげに見る者も居る。
青木にばんと背中を叩かれて、二人は両手を高々と挙げたままで振り向いた。
「もう解ったよ。僕も大人げ無かったです、すみませんね」
「じゃあ皆ごめんなさいって事で、丸く収まったって事で良いでしょうか!」
「これにて一件着陸。いやァ良かった良かった」
ようやく時計の下を離れた青木が、悪戯っぽくにやりと笑う。
「奢ってくれるんでしょう」
「結局聞いてるんじゃないですか、参ったなァ」
「まぁ此処は僕等の割り勘って事でいいじゃないすか、ね」
約束の時間を遅れる事二時間半、三人は辿るべき道程に足を進めた。
もう彼等が他人で無い事を疑う者など、何処にも居ない。
―――
今日も仲良し薔薇十字。
駅に向かう人波を掻き分けるようにして、益田は急いでいる。向かい側から歩いてくる人間を避けるのに精一杯で、脇の小道から飛び出してきた男にも気が付かなかった。結果二人は衝突し、跳ね飛ばされた益田は街路樹にぶつかって転倒を免れたものの、ぶつかって来た方の人物はもんどりうって派手に転んだ。
はっとして見下ろせば、路上にひっくり返っているのは見知った顔。
「鳥口君!」
「そういう君は益田君じゃないすか。いやはや、どうも…痛ってて」
腰を擦りながら立ち上がった鳥口は、益田と目が合うや否や不安げな顔をしてみせた。恐らく益田も同様だろう。何せ彼らは本来この時間、『こんな処に居てはならない』のだ。
「見た所益田君も大分お急ぎで」
「そうなんですよもう、妾宅で本妻さんと二号さんが依頼人交えて大騒ぎで、そういう鳥口君も」
「取材先から直帰のつもりだったんで道に迷っちゃ世話ないです、ってことは、うへぇ」
「と、とにかく急がないと!」
全力疾走で縺れる足を叱咤し、息を切らせて走り抜ける。
駅前に辿り着いた時にはもう日はとっぷりと落ちて、点った街灯の下はそれぞれの行き先に向かう者達で満ちていた。二人はようやく立ち止まり、きょろきょろと辺りを見渡す。直ぐに鳥口があっと声を上げた。
「良かった、まだ居た!」
「いやぁ良かぁないでしょう、ありゃかなり怒ってますよ…」
ロータリーの中央、約束の時刻を二周りも過ぎた文字盤の下に、無表情で突っ立っている若い刑事の姿があった。
*
長く伸びた影に添って、おずおずと声をかける。
「ど、どうも青木さん…お待たせしました…」
「お腹空きましたよね。なんて、空いてないわけないか…」
青木はちらりと黒い瞳を二人に向けたが、またふいと駅舎へと視線を戻した。表情は全く変わらず、平素ならこけしに似ていると云って笑ってやるところだが全くそんな雰囲気では無い。辺りは仕事を終えた人々が放つ開放感に満ちているというのに、三人の周りだけやたらと空気が重いのだ。
「あ、あのう青木さん、こんな所で立ってるのもなんですし、行きません?」
益田がへらりと調子良く笑うと、ようやく青木の首が二人の方向を向いた。――だが。
「すみません、貴方達はどなたですか」
「…へぇ!?」
「生憎僕は友人二人を待っているところですので」
きっぱりとそう云うと、フィルムを巻き戻すようにして青木は姿勢を元に戻してしまった。鳥口と益田はぽかんと口を開けて、その横顔を見ているしかない。
一足先に我に返った鳥口が、未だ呆然としている益田の脇腹を小突いた。
「益田君、益田君」
「あ――ああはい、ど、どうしましょう」
「どうもニッケルも無いでしょう、うへぇ、申し訳無い事したなぁ」
うっかりすると幼くすら見える青木の輪郭が、明らかな拒絶の意志を持って夜の町に浮かび上がっている。
行き交う人々は三人の事を見もしないが、見たとしても、人待ちの様子で遠くを見ている男とその傍らで突っ立っている二人が結びつく事は無いだろう。その位深くて長い溝が、地面を這う影に溶け込んだまま口を開けているように思える。
こういう空気が誰よりも苦手なのは、益田だ。
「どうしたんですよ青木さん!凄く遅れたのは申し訳無いんですが、これには訳がありまして」
「貴方の事情を伺ってる程暇じゃないんですよ僕は」
見もしない。益田はがっくりと肩を落とした。
まぁまぁ、と間に入るようにして鳥口が口を開く。
「まぁ聞いてくださいよ、お互い急ぎすぎて僕と益田君、其処でぶつかったんです。下僕も歩けば僕に当たるとはまさにこのことですよ」
「寒い」
切り捨てられた。鳥口はうへぇ、と悲しげにつぶやいて、それきり黙ってしまう。飼い主に叱られた犬の其れだ。
代わって益田が青木の横に立ち、妙に甘えたような口調で縋りつく。
「ねっ、青木さんお腹空きません?今日は奢りますからパーっと飲んでお怒りを鎮めてくださいよぅ。僕良いお店知ってるんです。生うにお好きじゃないですか?」
「あぁ良いですねぇ、美味しそうじゃないですか。最近寒くなってきたし、熱燗をきゅっといきたい所ですよねぇ」
「鳥口君もこう云ってますし、行きましょうよ青木さん。お店閉まっちゃいますよ」
時計に凭れている青木は、もう返事すらしない。本当に他人の会話を聞いているような態度だ。
溝どころか高い壁を感じる。青木さん、と小さな声で名を呼ぶのが精一杯だ。皆誰かと楽しげに歩き、或いは自分を待つ誰かの元へ行こうとしている中、ひとりで佇んでいた青木を見つけてからどれ程の時間が経っただろう。
呼びかける事も出来なくなった二人に目もくれず、呼吸をひとつ落とした青木が、後頭部をことりと支柱に預けた。
「――僕の友人はね、謝りもしないで奢りなんかで済まそうなんて云う薄情な連中じゃあないんですよ」
天を振り仰いだ横顔は、やはり誰かを、何かを待っているようで。
そして――酷く寂しそうなものだ。
鳥口と益田はその表情を見つめ、二人で顔を見合わせ、口々に叫んだ。
「…青木さぁぁん!ごめんなさぁぁい!」
「本当にごめんなさい!僕達が、いや!僕が馬鹿でした!つまんない事云ってうやむやにしようとして、僕ぁ最低だ」
「いや馬鹿なのは僕もです!そうですよ何より最初に頭を下げなきゃいけなかったんだ!本当に申し訳ない!僕ぁ榎木津さんの云う通り、馬鹿で愚かなカマ野郎なんですよぅぅ!」
「いやカマは関係無くない!?」
「………………くくっ」
はたと口を噤んだ二人の目の前で、青木が口に手を当てて笑っている。間隔は狭いが人懐っこい瞳と切れ長の黒い目がぶつかって、それから満面の笑みに変わった。
「やったー青木さんが笑ったー!やったー!」
「笑ってくれました!良かった!本当に良かった!」
通行人の中には、まだ酔っ払いが出るには早い時間帯でありながら路上で万歳三唱している男二人を訝しげに見る者も居る。
青木にばんと背中を叩かれて、二人は両手を高々と挙げたままで振り向いた。
「もう解ったよ。僕も大人げ無かったです、すみませんね」
「じゃあ皆ごめんなさいって事で、丸く収まったって事で良いでしょうか!」
「これにて一件着陸。いやァ良かった良かった」
ようやく時計の下を離れた青木が、悪戯っぽくにやりと笑う。
「奢ってくれるんでしょう」
「結局聞いてるんじゃないですか、参ったなァ」
「まぁ此処は僕等の割り勘って事でいいじゃないすか、ね」
約束の時間を遅れる事二時間半、三人は辿るべき道程に足を進めた。
もう彼等が他人で無い事を疑う者など、何処にも居ない。
―――
今日も仲良し薔薇十字。
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