駄目だ、駄目だ、駄目だ。
背筋がそそけ立つこの感覚を、僕は確かに知っている。
「根念寺―――薬石茶寮のことじゃないんですか」
「コンネン?」
榎木津の視線が外され、益田は全身の力が抜けるのを感じた。
話題の中心はもう別のことに移っている。榎木津の意識もだ。
助かった―――。益田はぼんやりとした頭をゆっくり振った。今更掌にはじっとりと汗をかいていることに気づき、気づかれないようにズボンで拭う。突然緊張を強いられたせいか、座っていただけなのに息があがりそうだ。場違いな声が漏れてしまいそうなのを、必死に飲み込む。
今榎木津は、言葉を使って益田の記憶を引き出し、それらを検分していたのだ。殆ど見えないという片目は、代わりに人智を超えた領域を視ているという。榎木津が見る世界の色はどんなものか、益田は少し考えてやめてしまった。一介の人間が踏み入れば、きっと心を壊される。
榎木津に記憶を探られている間、益田はどうすることもできなかった。逃げることも、目をそらすことも。ただ彼の言葉に鸚鵡返しで、望む記憶の像を引き出されただけだ。けれど震える両目は、異常に近くにあった榎木津の顔の部品を追っていた。面食らいつつも、彼の顔を合法的に見つめる機会を見逃さなかった自分の意地汚さに、益田は自嘲する。
眉骨の上に正確に乗った眉は、榎木津の感情に連動して自由に角度を変え、作り物のような貌に表情という彩を添える。
切り込んだようにはっきりとした二重瞼を飾る睫は、量こそ多いが鳥の羽のような曲線を描いて持ち上がっており、榎木津の瞳を隠すことはない。
すっと伸びた鼻梁は少しの狂いもなく、人工物のようですらあると思う。
唇の隙間からは狂いなく並ぶ歯列と、益田を追い詰めるたびに動く舌が見えていた。
これが自分の限界の距離だと益田は感じた。蝋燭を前にした虫のようだ。近づけば羽根を焼かれ、全身を焼かれる。それでも近づかずにはいられない。焼かれない程度に炎の温もりを感じられるギリギリの距離を知っている、自分の卑怯さを知る。これほど離れていれば、小さな自分が見えることはない。ないけれど。
指一本すら触れていないのに、翻弄される。
自分はこのままだとどうなってしまうのだろうか。益田はそれが恐ろしくもあり、喜ばしくもあった。益田を変えるのは、今までもこれからも、榎木津の存在だけだ。
それを思うと、背骨を何かが駆け上がるような感じを憶える。
益田はこの感覚を知っていた。これはきっと。確かに―――
「…尖っているぞ!ヤマアラシだなッ!」
大声にはっと我に帰ると、いつの間にか話は終わっていた。
榎木津の大きな瞳はこうしちゃいられないとばかりに力を漲らせている。
大股ですたすた歩き出す彼を先頭に、ぞろぞろと関口や本島も続く。益田も慌てて立ち上がり、彼らについていこうとした。
「あ、そうそう、マスヤマ」
「はい」
振り向いた榎木津は、無表情のままで益田を見ていた。
「お前視られるだけでそれか。安上がりなやつめ」
その目は益田の記憶ではなく、益田自身を注視している。
拭ったばかりの汗が、また噴きだすのを感じた。
――――
益田殺すにゃ刃物は要らぬ。
背筋がそそけ立つこの感覚を、僕は確かに知っている。
「根念寺―――薬石茶寮のことじゃないんですか」
「コンネン?」
榎木津の視線が外され、益田は全身の力が抜けるのを感じた。
話題の中心はもう別のことに移っている。榎木津の意識もだ。
助かった―――。益田はぼんやりとした頭をゆっくり振った。今更掌にはじっとりと汗をかいていることに気づき、気づかれないようにズボンで拭う。突然緊張を強いられたせいか、座っていただけなのに息があがりそうだ。場違いな声が漏れてしまいそうなのを、必死に飲み込む。
今榎木津は、言葉を使って益田の記憶を引き出し、それらを検分していたのだ。殆ど見えないという片目は、代わりに人智を超えた領域を視ているという。榎木津が見る世界の色はどんなものか、益田は少し考えてやめてしまった。一介の人間が踏み入れば、きっと心を壊される。
榎木津に記憶を探られている間、益田はどうすることもできなかった。逃げることも、目をそらすことも。ただ彼の言葉に鸚鵡返しで、望む記憶の像を引き出されただけだ。けれど震える両目は、異常に近くにあった榎木津の顔の部品を追っていた。面食らいつつも、彼の顔を合法的に見つめる機会を見逃さなかった自分の意地汚さに、益田は自嘲する。
眉骨の上に正確に乗った眉は、榎木津の感情に連動して自由に角度を変え、作り物のような貌に表情という彩を添える。
切り込んだようにはっきりとした二重瞼を飾る睫は、量こそ多いが鳥の羽のような曲線を描いて持ち上がっており、榎木津の瞳を隠すことはない。
すっと伸びた鼻梁は少しの狂いもなく、人工物のようですらあると思う。
唇の隙間からは狂いなく並ぶ歯列と、益田を追い詰めるたびに動く舌が見えていた。
これが自分の限界の距離だと益田は感じた。蝋燭を前にした虫のようだ。近づけば羽根を焼かれ、全身を焼かれる。それでも近づかずにはいられない。焼かれない程度に炎の温もりを感じられるギリギリの距離を知っている、自分の卑怯さを知る。これほど離れていれば、小さな自分が見えることはない。ないけれど。
指一本すら触れていないのに、翻弄される。
自分はこのままだとどうなってしまうのだろうか。益田はそれが恐ろしくもあり、喜ばしくもあった。益田を変えるのは、今までもこれからも、榎木津の存在だけだ。
それを思うと、背骨を何かが駆け上がるような感じを憶える。
益田はこの感覚を知っていた。これはきっと。確かに―――
「…尖っているぞ!ヤマアラシだなッ!」
大声にはっと我に帰ると、いつの間にか話は終わっていた。
榎木津の大きな瞳はこうしちゃいられないとばかりに力を漲らせている。
大股ですたすた歩き出す彼を先頭に、ぞろぞろと関口や本島も続く。益田も慌てて立ち上がり、彼らについていこうとした。
「あ、そうそう、マスヤマ」
「はい」
振り向いた榎木津は、無表情のままで益田を見ていた。
「お前視られるだけでそれか。安上がりなやつめ」
その目は益田の記憶ではなく、益田自身を注視している。
拭ったばかりの汗が、また噴きだすのを感じた。
――――
益田殺すにゃ刃物は要らぬ。
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