雑踏や並木の葉ずれの音と云った生活音を遥か下に置き去りにして、薔薇十字探偵社は平素より幾らか静かな状態で其処にあった。寅吉の握る包丁が俎板の上で菜物を切るざくざくという音も今は無い。何より、榎木津と云う男の不在がそうさせていた。現在の事務所内では、鬱陶しい前髪を耳に引っ掛けた益田が書類に走らせるペンの音と、やや息苦しげな空咳が繰り返すのみだ。季節の変わり目に、迂闊に人ごみの中に入っていくものではないと益田は思う。何処かで風邪を貰ってきてしまった。
仕事をするには悪くない環境である筈だが、何だかんだで騒々しい日常に慣れてしまった益田は、静けさを慰めでもするかのように時折独り言を洩らす。幾度目かの独り言として「ああ喉痛い」と呟いた時、高らかに電話のベルが鳴り響いた。
万年筆を片手に握ったままでハイ薔薇十字探偵社ですがと名乗ると、受話器の向こうから妙に擦れた声が聞こえた。
「もしもし、君は、益田君かい?」
関口だ、と名乗って貰わなければそうと解らない程だった。
「如何にも僕は益田ですけど、どうしちゃったんですか関口さん」
「僕は風邪だよ、それより益田君」
酷く傷んだ声は痛ましく、聞き取りづらい。キゲンはどうだ、と聞かれた気がする。
「機嫌ですか?機嫌はまァ悪くは無いですけど」
「機嫌じゃない、加減だ。具合はどうだって聞いてるんだよ」
「ああすみません良く聞こえなくて。僕もちょっと風邪気味ですけど、関口さん程には悪くないですよ」
途端受話器の向こうから、凄まじい勢いで咳き込む声が聞こえ、益田は眉を顰めた。大丈夫ですかと聞く前に、ぜぇぜぇと息を乱す関口が「早く逃げろ」と云った。背中を丸めた小説家が、丸眼鏡の奥で必死な顔をしているのが何故か益田の頭に浮かぶ。
「―――榎さんが家に来たんだ、そして帰っていった」
「あらら、そりゃあどうも」
「彼は、僕が、妻に看病されているのを、見て―――」
「えっ、それで何で僕が逃げないといけないんですか」
関口の弱った声に被せるように、益田の背後でガラガラと盛大に鐘が鳴った。振り向けば其処には、矢張り栗色の髪を振り乱した榎木津が立っている。出掛けていった時は手ぶらだった筈だが、両手一杯に買い物袋を携えている。受話器を握ったままでぽかんと見上げる益田を見下ろす鳶色の瞳には、使命感めいたものが漲っているように見えた。
「お前、機嫌はどうだ」
「ハァ? いや機嫌は悪くないですけど、」
途端喉に異物感めいたものが競りあがってきて、思わず益田は咳き込む。受話器の向こうで待っている関口に謝罪する前に、飛んできた榎木津が益田の襟首を掴み上げた。
「うひゃあ、な、何ですよ!」
「病人か、お前病人だな!」
「そんな病人って云うほど大層なアレじゃあ」
「もしもし益田君、益田君」
痛々しい声で自分を呼ぶ関口と、大きな目を爛々と輝かせる榎木津に挟まれて、益田は混乱する。結局は直接相対している榎木津に浚われるような格好で、訳も解らないまま寝室に投げ込まれた。
所在無くぶら下がっている黒電話の受話器が、床に向けてぼそぼそと喋っている。
妻が僕を甲斐甲斐しく看病してくれているのを見て、何を思ったのか榎さんは
「僕もやってみたい」と云い出したんだ。
だが僕のことは全てあれがやってしまっていたから、自分で新しい病人を探すと云って飛び出していった。
自分の腕を揮う先を探しているんだ。
益田君が風邪をひいているなら、気をつけた方が良い。
あの男はこれから力の限り、君を甘やかすぞ――――
■
益田が自分の置かれている状況を把握した時、彼の状態はすっかり変わってしまっていた。
大人しく机に向かっていたはずが、無闇に広い寝台に寝かしつけられている。シャツもタイも剥ぎ取られ、真新しい寝巻きに着せ替えられた。誰にでも着せられるようにと思ったのか矢鱈サイズが大きいが、一面に輪切りの蜜柑が散りばめられた柄が異常に子どもっぽいのが気味悪い。そんな自分の姿を見たくなくて益田はそっと布団を被りなおした。熱など無いのに乗せられた濡れタオルから、染み出た冷水がだらりと伝った。
「…あのう、榎木津さん?」
ベッドに腰掛けている榎木津は、声も出さずにゆっくりと振り向いた。手元には半分開いた桃の缶詰と、缶切りが握られていたが、一旦其れを横に置くと体温計を取り出して強く振った。目盛を戻しているのだ。
「僕ぁこんなにされるほど重篤な病人じゃあ無いんですけれども」
「病人の癖に健康を語るんじゃないぞカゼヤマ!医者でも無い癖に、これから絶対に凄い熱が出ないって云えるのか。もう少しほっといて凄い熱が出てからの方が治し甲斐がありそうだけど、これ以上バカになったら手がつけられないから今のうちに看病するん、だッ」
「うぐっ」
口内に体温計の先端を突っ込まれ、益田は渋々其れを咥えた。舌の裏と唇で金属の感触が冷たい。ちらりと盗み見ると、榎木津は缶詰を開ける作業に戻っていた。きしきしと軋む音につれて、甘い蜜の香りが漏れてくる。高価な桃の缶詰、子どもの頃は中々口に入らなかったなぁなどと考えていると、益田の目の前で硝子の器に透明なシロップごと大きな桃がごろりと滑り出てきた。滑らかに整った表面がつやつやと輝く。
吐き出した体温計の目盛は当然平熱を示しており、榎木津はあからさまにつまらなそうな顔をしながらも、食器に盛られた桃を差し出してきた。
「食べなさい」
「はぁ、いただきま…」
「起きるな病気!」
「ぎゃあ!」
上体を僅かに起こした瞬間、榎木津の掌が益田の胸を押した。勢い良く寝台に戻され、塵が舞い上がる。埃に当てられて、また咳が漏れてしまった。
ぶ厚い果肉にざくりと銀の匙が突き立てられて、酷く嫌な予感がする。
「そら、口を開けろ」
…やっぱり。
「や、止めてくださいよぅ。僕ァ本当に元気なんですから、謙遜とかじゃなく本当に!」
「元気だと云うなら僕の云う事が聞けないのはおかしいぞ。サルでも出来る事が出来ないのかバカオロカ。あのおサルはお前と違って熱もあったけど、雪ちゃんがお口を開けてと云ったらちゃあんと開けていたぞ。実に良く躾が行き届いているじゃあないか!」
そうだったのか、関口さん…。
あの鬱々とした男が大人しく妻の看護を享受する様子は想像するだに奇妙で、意外な驚きに思わず唇を開いてしまう。
其処に小さく切り取られた桃とシロップとが、するりと流れ込んできた。
「う」
「あまぁいだろう」
「は、はい、甘いです。わ、わー、なんだかすっかり風邪が治った気がするなー」
引き攣った笑いを浮かべ、身を起こそうとしたが、先程と同じように押し戻される。まだ満足していないらしい。
ベッドサイドには榎木津が買い揃えた様々な看病道具が並んでいたが、中でも益田が気になったのは薬包紙に包まれた何かだ。榎木津が慣れた手つきで水差しからグラスに水を移しているのが、今後の展開を嫌でも予想させる。
「食べたら薬だ!そら飲め!」
…ほらね。
益田はろくでもない予感ばかりが良く当たる己の勘を呪った。
「ですから榎木津さん、僕ぁですね」
「飲まなきゃ治らない!まさか苦い薬は嫌だと云うんじゃないだろうな。関係ないよ、僕が飲むんじゃないんだから」
味の問題では無い。確かに何でもない時に苦い思いをするのも嫌だが、素人診断で適当に薬を呑んで良いものだろうか。
薬包紙の中から現れた真っ白い散薬はいかにも効きそうではあるが、不気味だ。
「いいから飲め!」
「嫌です!」
「面倒臭いやつだな、水に溶いてやったんだから、さぁ飲め!」
「嫌ですよぅ!本当に病院送りになっちゃったらどうするんですか!」
グラスを唇に押し付けられた益田と榎木津との押し問答は続いた。激しい抵抗に、額の濡れタオルが滑り落ちるほどに。
ついに痺れをきらした榎木津が身を起こしたかと思うと、思い切りグラスを呷るのを益田は見た。良くない未来予想図が、瞬時に頭の中で明滅する。
そして其れは現実となった。
「う…っ」
触れた唇が、流れ込んでくる水が冷たい。
直前に甘いものを摂った所為か口腔に広がった苦味は益田の想像より更に酷いものだった。舌を刺し、喉を焼くようだ。傷んだ粘膜を慰撫するように、榎木津の舌が這った。
唇が離れ、飲み込み損ねた雫が頬を伝って枕に染みる。呆然と見上げた先で、鳶色の瞳が瞬いた。
「あー苦かった」
お前が面倒をかけるからだ、と舌を出した榎木津が云う。
「な、な」
「ん?顔が赤くなってきたぞお前。ついに熱が出てきたか、それとも今のぐらいで照れているのか?」
「今のぐらいってなんですか!僕は、僕はですね!」
「きゃんきゃん吼えるなバカオロカ。薬を飲んだら次は寝るんだ。起きたらお粥を作ってやろう」
新しく絞ったタオルを額に乗せられ、布団を掛けなおされる。その上からぽんぽん、と叩かれて、赤子を寝かしつけるようだ。
僅かに濡れた唇から、耳に慣れた旋律が聞こえる。幼い頃熱を出した益田に、母親が歌ってくれた。
「関口さん家でも、そうやってたんですか…?」
「さーて、どうだかなぁ」
「どうなんでしょうね…」
会話にならない会話をして、益田は瞼を閉じる。
本当に子守唄で寝かしつけられる訳では無いが、ふわふわの布団と絶えず与えられるリズムが心地よい。午睡の機会を与えられたと思えば、これはこれで悪くない。
時折あやふやになる歌詞に耳を傾けながら、意識がゆっくりと解けていくのを感じていた。
…おかしい。
益田は目を開けた。どうもおかしい。
なんだか熱っぽい気がする。風邪が悪化したというなら、それは仕方が無いことだ。
だが病の熱は頭が熱かったりするものだが、この熱は胎の底から来ているような気がする。指先がむずむずして落ち着かない。
「…あのう、榎木津さん」
「なんだまだ起きていたのか、早く寝てしまえ」
「ところでさっきの薬は、何に効く薬なんでしょうか」
ああ、と榎木津は顔を上げた。
「熱冷ましも鼻水止めもあるけど、まだマスヤマは熱も鼻水も出てないから止めたんだ」
「そうですか、そりゃあ良かった」
「だから何にでも効きそうな、精がつく薬にしたんだ」
「えっ」
「男の元気が無い時に飲めばたちまち元気になるらしいぞ、良かったな」
「えっ」
それは…どう考えても用途が違うのでは無いだろうか。
第一その宣伝文句は病院と云うより、怪しげな薬局の店頭の張り紙で見かける気がするのだが。精力絶倫、とか云う―――
意識した途端、益田の全身をざわざわと良からぬ震えが駆け抜けた。
「ひえぇ…!」
「なんだマスヤマ、寝ろ!寝ないと効かないぞ!」
「じゃあ寝ません…!ていうか、こんな状態で、寝てられませんよぅ…!」
榎木津の行動は、益田ごときの拙き「予感」など、結局飛び越えてしまうものなのだ。
結果として益田の病状は悪化する事になるのだが、その理由であるとか原因であるとかは、室温に温くなった水差しのみが知っている。
―――
無記名でのリクエスト「益田のご機嫌をとる榎木津」でした。ありがとうございました。
これはただの看病プレイと云うのでは… 正直楽しかったです。
仕事をするには悪くない環境である筈だが、何だかんだで騒々しい日常に慣れてしまった益田は、静けさを慰めでもするかのように時折独り言を洩らす。幾度目かの独り言として「ああ喉痛い」と呟いた時、高らかに電話のベルが鳴り響いた。
万年筆を片手に握ったままでハイ薔薇十字探偵社ですがと名乗ると、受話器の向こうから妙に擦れた声が聞こえた。
「もしもし、君は、益田君かい?」
関口だ、と名乗って貰わなければそうと解らない程だった。
「如何にも僕は益田ですけど、どうしちゃったんですか関口さん」
「僕は風邪だよ、それより益田君」
酷く傷んだ声は痛ましく、聞き取りづらい。キゲンはどうだ、と聞かれた気がする。
「機嫌ですか?機嫌はまァ悪くは無いですけど」
「機嫌じゃない、加減だ。具合はどうだって聞いてるんだよ」
「ああすみません良く聞こえなくて。僕もちょっと風邪気味ですけど、関口さん程には悪くないですよ」
途端受話器の向こうから、凄まじい勢いで咳き込む声が聞こえ、益田は眉を顰めた。大丈夫ですかと聞く前に、ぜぇぜぇと息を乱す関口が「早く逃げろ」と云った。背中を丸めた小説家が、丸眼鏡の奥で必死な顔をしているのが何故か益田の頭に浮かぶ。
「―――榎さんが家に来たんだ、そして帰っていった」
「あらら、そりゃあどうも」
「彼は、僕が、妻に看病されているのを、見て―――」
「えっ、それで何で僕が逃げないといけないんですか」
関口の弱った声に被せるように、益田の背後でガラガラと盛大に鐘が鳴った。振り向けば其処には、矢張り栗色の髪を振り乱した榎木津が立っている。出掛けていった時は手ぶらだった筈だが、両手一杯に買い物袋を携えている。受話器を握ったままでぽかんと見上げる益田を見下ろす鳶色の瞳には、使命感めいたものが漲っているように見えた。
「お前、機嫌はどうだ」
「ハァ? いや機嫌は悪くないですけど、」
途端喉に異物感めいたものが競りあがってきて、思わず益田は咳き込む。受話器の向こうで待っている関口に謝罪する前に、飛んできた榎木津が益田の襟首を掴み上げた。
「うひゃあ、な、何ですよ!」
「病人か、お前病人だな!」
「そんな病人って云うほど大層なアレじゃあ」
「もしもし益田君、益田君」
痛々しい声で自分を呼ぶ関口と、大きな目を爛々と輝かせる榎木津に挟まれて、益田は混乱する。結局は直接相対している榎木津に浚われるような格好で、訳も解らないまま寝室に投げ込まれた。
所在無くぶら下がっている黒電話の受話器が、床に向けてぼそぼそと喋っている。
妻が僕を甲斐甲斐しく看病してくれているのを見て、何を思ったのか榎さんは
「僕もやってみたい」と云い出したんだ。
だが僕のことは全てあれがやってしまっていたから、自分で新しい病人を探すと云って飛び出していった。
自分の腕を揮う先を探しているんだ。
益田君が風邪をひいているなら、気をつけた方が良い。
あの男はこれから力の限り、君を甘やかすぞ――――
■
益田が自分の置かれている状況を把握した時、彼の状態はすっかり変わってしまっていた。
大人しく机に向かっていたはずが、無闇に広い寝台に寝かしつけられている。シャツもタイも剥ぎ取られ、真新しい寝巻きに着せ替えられた。誰にでも着せられるようにと思ったのか矢鱈サイズが大きいが、一面に輪切りの蜜柑が散りばめられた柄が異常に子どもっぽいのが気味悪い。そんな自分の姿を見たくなくて益田はそっと布団を被りなおした。熱など無いのに乗せられた濡れタオルから、染み出た冷水がだらりと伝った。
「…あのう、榎木津さん?」
ベッドに腰掛けている榎木津は、声も出さずにゆっくりと振り向いた。手元には半分開いた桃の缶詰と、缶切りが握られていたが、一旦其れを横に置くと体温計を取り出して強く振った。目盛を戻しているのだ。
「僕ぁこんなにされるほど重篤な病人じゃあ無いんですけれども」
「病人の癖に健康を語るんじゃないぞカゼヤマ!医者でも無い癖に、これから絶対に凄い熱が出ないって云えるのか。もう少しほっといて凄い熱が出てからの方が治し甲斐がありそうだけど、これ以上バカになったら手がつけられないから今のうちに看病するん、だッ」
「うぐっ」
口内に体温計の先端を突っ込まれ、益田は渋々其れを咥えた。舌の裏と唇で金属の感触が冷たい。ちらりと盗み見ると、榎木津は缶詰を開ける作業に戻っていた。きしきしと軋む音につれて、甘い蜜の香りが漏れてくる。高価な桃の缶詰、子どもの頃は中々口に入らなかったなぁなどと考えていると、益田の目の前で硝子の器に透明なシロップごと大きな桃がごろりと滑り出てきた。滑らかに整った表面がつやつやと輝く。
吐き出した体温計の目盛は当然平熱を示しており、榎木津はあからさまにつまらなそうな顔をしながらも、食器に盛られた桃を差し出してきた。
「食べなさい」
「はぁ、いただきま…」
「起きるな病気!」
「ぎゃあ!」
上体を僅かに起こした瞬間、榎木津の掌が益田の胸を押した。勢い良く寝台に戻され、塵が舞い上がる。埃に当てられて、また咳が漏れてしまった。
ぶ厚い果肉にざくりと銀の匙が突き立てられて、酷く嫌な予感がする。
「そら、口を開けろ」
…やっぱり。
「や、止めてくださいよぅ。僕ァ本当に元気なんですから、謙遜とかじゃなく本当に!」
「元気だと云うなら僕の云う事が聞けないのはおかしいぞ。サルでも出来る事が出来ないのかバカオロカ。あのおサルはお前と違って熱もあったけど、雪ちゃんがお口を開けてと云ったらちゃあんと開けていたぞ。実に良く躾が行き届いているじゃあないか!」
そうだったのか、関口さん…。
あの鬱々とした男が大人しく妻の看護を享受する様子は想像するだに奇妙で、意外な驚きに思わず唇を開いてしまう。
其処に小さく切り取られた桃とシロップとが、するりと流れ込んできた。
「う」
「あまぁいだろう」
「は、はい、甘いです。わ、わー、なんだかすっかり風邪が治った気がするなー」
引き攣った笑いを浮かべ、身を起こそうとしたが、先程と同じように押し戻される。まだ満足していないらしい。
ベッドサイドには榎木津が買い揃えた様々な看病道具が並んでいたが、中でも益田が気になったのは薬包紙に包まれた何かだ。榎木津が慣れた手つきで水差しからグラスに水を移しているのが、今後の展開を嫌でも予想させる。
「食べたら薬だ!そら飲め!」
…ほらね。
益田はろくでもない予感ばかりが良く当たる己の勘を呪った。
「ですから榎木津さん、僕ぁですね」
「飲まなきゃ治らない!まさか苦い薬は嫌だと云うんじゃないだろうな。関係ないよ、僕が飲むんじゃないんだから」
味の問題では無い。確かに何でもない時に苦い思いをするのも嫌だが、素人診断で適当に薬を呑んで良いものだろうか。
薬包紙の中から現れた真っ白い散薬はいかにも効きそうではあるが、不気味だ。
「いいから飲め!」
「嫌です!」
「面倒臭いやつだな、水に溶いてやったんだから、さぁ飲め!」
「嫌ですよぅ!本当に病院送りになっちゃったらどうするんですか!」
グラスを唇に押し付けられた益田と榎木津との押し問答は続いた。激しい抵抗に、額の濡れタオルが滑り落ちるほどに。
ついに痺れをきらした榎木津が身を起こしたかと思うと、思い切りグラスを呷るのを益田は見た。良くない未来予想図が、瞬時に頭の中で明滅する。
そして其れは現実となった。
「う…っ」
触れた唇が、流れ込んでくる水が冷たい。
直前に甘いものを摂った所為か口腔に広がった苦味は益田の想像より更に酷いものだった。舌を刺し、喉を焼くようだ。傷んだ粘膜を慰撫するように、榎木津の舌が這った。
唇が離れ、飲み込み損ねた雫が頬を伝って枕に染みる。呆然と見上げた先で、鳶色の瞳が瞬いた。
「あー苦かった」
お前が面倒をかけるからだ、と舌を出した榎木津が云う。
「な、な」
「ん?顔が赤くなってきたぞお前。ついに熱が出てきたか、それとも今のぐらいで照れているのか?」
「今のぐらいってなんですか!僕は、僕はですね!」
「きゃんきゃん吼えるなバカオロカ。薬を飲んだら次は寝るんだ。起きたらお粥を作ってやろう」
新しく絞ったタオルを額に乗せられ、布団を掛けなおされる。その上からぽんぽん、と叩かれて、赤子を寝かしつけるようだ。
僅かに濡れた唇から、耳に慣れた旋律が聞こえる。幼い頃熱を出した益田に、母親が歌ってくれた。
「関口さん家でも、そうやってたんですか…?」
「さーて、どうだかなぁ」
「どうなんでしょうね…」
会話にならない会話をして、益田は瞼を閉じる。
本当に子守唄で寝かしつけられる訳では無いが、ふわふわの布団と絶えず与えられるリズムが心地よい。午睡の機会を与えられたと思えば、これはこれで悪くない。
時折あやふやになる歌詞に耳を傾けながら、意識がゆっくりと解けていくのを感じていた。
…おかしい。
益田は目を開けた。どうもおかしい。
なんだか熱っぽい気がする。風邪が悪化したというなら、それは仕方が無いことだ。
だが病の熱は頭が熱かったりするものだが、この熱は胎の底から来ているような気がする。指先がむずむずして落ち着かない。
「…あのう、榎木津さん」
「なんだまだ起きていたのか、早く寝てしまえ」
「ところでさっきの薬は、何に効く薬なんでしょうか」
ああ、と榎木津は顔を上げた。
「熱冷ましも鼻水止めもあるけど、まだマスヤマは熱も鼻水も出てないから止めたんだ」
「そうですか、そりゃあ良かった」
「だから何にでも効きそうな、精がつく薬にしたんだ」
「えっ」
「男の元気が無い時に飲めばたちまち元気になるらしいぞ、良かったな」
「えっ」
それは…どう考えても用途が違うのでは無いだろうか。
第一その宣伝文句は病院と云うより、怪しげな薬局の店頭の張り紙で見かける気がするのだが。精力絶倫、とか云う―――
意識した途端、益田の全身をざわざわと良からぬ震えが駆け抜けた。
「ひえぇ…!」
「なんだマスヤマ、寝ろ!寝ないと効かないぞ!」
「じゃあ寝ません…!ていうか、こんな状態で、寝てられませんよぅ…!」
榎木津の行動は、益田ごときの拙き「予感」など、結局飛び越えてしまうものなのだ。
結果として益田の病状は悪化する事になるのだが、その理由であるとか原因であるとかは、室温に温くなった水差しのみが知っている。
―――
無記名でのリクエスト「益田のご機嫌をとる榎木津」でした。ありがとうございました。
これはただの看病プレイと云うのでは… 正直楽しかったです。
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