最初の違和感は、ドアベルの音だった。
カランカラン、と静かなベルの音に、最初は客が入ってきたのかと思った。書類を束ねる手を止めて、顔を上げる。
そこに立っていたのは、意外なことに事務所の主だった。意気揚々と出かけた時と同じ、見事な正装のままだ。いつも好き勝手な方向に流れている亜麻色の髪も撫で付けられて、ちゃんとした御曹司に見える。磨き上げられた革靴を履いた足元は、常ならば大股でずかずかと歩いてくるはずだが、今日の彼はそうはせずにドアを静かに閉めた。
「なんだ、榎木津さんですか。もう、そんなそーっと入ってこられたら吃驚するじゃないですか。あ、別にサボってた訳じゃないですよ。真面目にやっていましたとも。まぁ『探偵の仕事じゃない』仕事の話なんで榎木津さんには関係ないんですけどね。で、どうでしたか、首尾は」
「ああ、上々だったよ。これで早苗さんも少しは気が晴れるといいのだが」
「え」
予期せぬ返答に、益田の方が面食らう。目の前の男は優雅な微笑みを浮かべたまま、キョトンとしている益田の横をすり抜け、いつもの椅子につく。益田は、今にも榎木津が「あー疲れたッ!和寅、いないのか。じゃあお前でいいや、マスヤマ、茶」とでも言ってどかりと机に両足を乗せることを期待していたが、彼はそれをしなかった。それどころか、机の上に一応置いておいた報告書に目を通す様子すら見せているではないか。
窓から惜しげもなく注がれる日光が、榎木津の白い礼服に反射してますますその肌を白く見せていた。
茫然自失だった益田も、得心したように顔を上げ、ケケケと笑う。
「そうそう、僕が言うのもなんですがご尊顔はちょっと見られない美形ですし、今日はちょっと豪奢すぎますけどまともな格好してますし。ちゃんとした探偵に見えますよ」
「そうかい?少し仰々しいかと思っていたんだが、そう言って貰えて嬉しいよ。ありがとう」
「もうなんですかその口調は。そりゃ富裕層とか若い娘さんならコロっと騙せるでしょうけど、今事務所僕しかいないですよ」
「ははは、そうか。じゃあもう格式ばる必要もないな」
「そうですよ、もう。可っ笑しいんですから榎木津さんは」
益田とひとしきり笑いあった榎木津は、羽織っていたジャケットを綺麗に畳んで机の上に置き、また、仕事に、戻った。
「…イヤイヤイヤ!そうじゃないでしょ!」
「ああそうか、衣文掛けに掛けないと服に折り皺が」
「違いますよ!」
探偵机の分厚い天板を、益田の掌がバンと叩く。
「いつもの破天荒で傍若無人な榎木津礼二郎はどこ行ったんですか!」
白い指を組み合わせて何事か考えていた榎木津は、ああ、と顔を上げた。
「どうもこうも、これがぼくの本来の性格だよ。もともと躁病の気があっただろう?中禅寺が哲哉の取り巻きに暗示をかけた要領で、ついでに治療してもらったんだ」
「そんなまさか」
「君にも今まで苦労をかけたね。助手に甘えすぎていた。これからはぼくももっと探偵としての自覚をもたないと」
探偵としての自覚―それは榎木津にとって、神としての自覚だったはずだ。それは十分すぎるほど持っていた。やれやれといった様子で思索に耽る彼の睫の影は呆れるほどに美しいが、表情に乏しい面差しは本物の飾り人形のようで、益田の胸をざわめかせる。
堅く拳を握りこむと、爪が掌に食い込んで痛む。一人まどろみに見た悪い夢なら覚めてほしいと思ったのに。
「…じゃあ、今迄の榎木津さんは」
「もう現れないよ。もう消えた、というべきかな。もうぼくが出鱈目な言動で人々を困らせることもない」
「そんな…」
益田は確実に動揺していた。机に縋り付かなければ立っていられないほどだ。
突然目の前に燦然と現れ、なにもかもを壊し、ついでに益田の世界をも壊した彼がいないだって?
新しく組みなおした世界には、榎木津の形が確実に組み込まれていた。それが抜け落ちてしまったら、もう世界は形を保っていられない。
榎木津が死んだわけでもないのに。現に目の前で、心配そうに益田を見上げる顔はよく知っているそれだ。
だが、これは誰だ?
「大丈夫か?」
椅子を引いて立ち上がった榎木津―だったもの―は益田の前髪を捲り上げて額に手を当ててくる。あれほど脅威だったあの鳶色の瞳も、陶磁器のように皇かな肌もここにある。なのにどうしようもない不安で、益田は動くことが出来なかった。
「君にそんな顔をさせたくない。益―――」
「やめてください!」
益田は飛びのいた、つもりだったが足に力が入らず、床に尻餅をついてしまった。
逆光でぼやける榎木津のシルエットに、震える声で言う。
「…呼んでくださいよ、いつものように、馬鹿って、オロカって」
「君こそらしくない。いつも軽薄に流されて生きるのがポリシーじゃなかったのか」
「そうなんですけど、でも」
全身で感情を表す、あの神の姿を思い描こうとした。
けれど詳細に思い出そうとすると、近づくほどにぼやけて薄くなる。
自分にも、彼と同じ目があればよかったのに。
「い、やです。榎木津さんじゃないと…榎木津さんがい、な、いと…」
最後のほうは嗚咽がこみ上げて、うまく声が出なかった。
立ち上がることもせず、そのままの姿勢で、涙ははらはらと流れるままになっている。
その場に立ったままの榎木津は、ぽつりと、声を落とした。
「そんなにぼくが恋しいか、馬鹿オロカ」
「え」
反射的に見上げたその顔は、2つに裂けたかと思うほど笑っている。
「うわははははははは、だめだ、もうだめだ!面白すぎる!はいおしまい!もうおしまーい!」
と同時に、カウベルがガランガランと音を立て、事務所内にどやどやと人が入ってくる。
魂が抜けたようになっている益田を挟んで、榎木津と彼ら――本島と和寅と鳥口だ―――は談笑を始めた。
「もうちょっと持つかと思ったけど、まぁいいか。ぼくもそろそろ飽きてきたところだった」
「え」
「ど、どうも…とんだところにお邪魔して」
「え」
「面白いことになってるっていうから入らないで待ってたのに、益田君が泣いてるところなんかここじゃ珍しくもない」
「え」
「益田君こっち向いて、記念に一枚」
「ええ!?」
申し訳なそうに薄笑いを浮かべる本島、勝手場に消えていく和寅の背中、写真機を構えている鳥口を順番に見た益田は、最後に満面の笑みを浮かべている榎木津を見上げた。
「今回のことはマスヤマの調査がよく出来ていたからうまくいったので、労ってやれと京極堂に言われたからな!だがただ労うだけじゃあ面白くないし、馬鹿オロカが調子に乗ったらもっと面白くないので、ぼくなりに色をつけてみた」
「い、色って」
「破天荒で傍若無人と言ったな。神がただの面白くもなんともない人間になった気分はどうだった?」
御曹司の仮面を剥いだ榎木津は、ああもうこんなもんいらん、と言って正絹のネクタイをむしりとり、髪をわしわしを掻き乱している。落ちてきた前髪の隙間から見える大きな瞳は、悪戯の成功にキラキラと輝く。
良く事態が飲み込めないが、神が戻ってきたことだけは理解した益田の目には、また涙が溢れてきた。
「どうだ、ぼくが戻ってきて嬉しいか!」
仁王立ちしている榎木津の顔が見られず、益田はしゃくりあげながら頷く。やっと親を見つけた迷子の子供のようだった。事実益田にとっては、その通りとも言えた。
「いつもそのように素直でいれば、可愛くないこともないぞ」
大きな手がわしゃわしゃと益田の前髪を掻き乱す。
あうう、と泣き続ける益田を取り囲む面々のもとに、和寅が人数分の茶を運んできた。
――――
あれでもう少しまともなら、と思ってはいるけど結局いつもの神が一番好きな益田。ある意味ツンデレ?
五徳猫のよそ行き榎木津にしたかったのになんか気持ち悪い人になっちゃって反省。そのうちリベンジ。
カランカラン、と静かなベルの音に、最初は客が入ってきたのかと思った。書類を束ねる手を止めて、顔を上げる。
そこに立っていたのは、意外なことに事務所の主だった。意気揚々と出かけた時と同じ、見事な正装のままだ。いつも好き勝手な方向に流れている亜麻色の髪も撫で付けられて、ちゃんとした御曹司に見える。磨き上げられた革靴を履いた足元は、常ならば大股でずかずかと歩いてくるはずだが、今日の彼はそうはせずにドアを静かに閉めた。
「なんだ、榎木津さんですか。もう、そんなそーっと入ってこられたら吃驚するじゃないですか。あ、別にサボってた訳じゃないですよ。真面目にやっていましたとも。まぁ『探偵の仕事じゃない』仕事の話なんで榎木津さんには関係ないんですけどね。で、どうでしたか、首尾は」
「ああ、上々だったよ。これで早苗さんも少しは気が晴れるといいのだが」
「え」
予期せぬ返答に、益田の方が面食らう。目の前の男は優雅な微笑みを浮かべたまま、キョトンとしている益田の横をすり抜け、いつもの椅子につく。益田は、今にも榎木津が「あー疲れたッ!和寅、いないのか。じゃあお前でいいや、マスヤマ、茶」とでも言ってどかりと机に両足を乗せることを期待していたが、彼はそれをしなかった。それどころか、机の上に一応置いておいた報告書に目を通す様子すら見せているではないか。
窓から惜しげもなく注がれる日光が、榎木津の白い礼服に反射してますますその肌を白く見せていた。
茫然自失だった益田も、得心したように顔を上げ、ケケケと笑う。
「そうそう、僕が言うのもなんですがご尊顔はちょっと見られない美形ですし、今日はちょっと豪奢すぎますけどまともな格好してますし。ちゃんとした探偵に見えますよ」
「そうかい?少し仰々しいかと思っていたんだが、そう言って貰えて嬉しいよ。ありがとう」
「もうなんですかその口調は。そりゃ富裕層とか若い娘さんならコロっと騙せるでしょうけど、今事務所僕しかいないですよ」
「ははは、そうか。じゃあもう格式ばる必要もないな」
「そうですよ、もう。可っ笑しいんですから榎木津さんは」
益田とひとしきり笑いあった榎木津は、羽織っていたジャケットを綺麗に畳んで机の上に置き、また、仕事に、戻った。
「…イヤイヤイヤ!そうじゃないでしょ!」
「ああそうか、衣文掛けに掛けないと服に折り皺が」
「違いますよ!」
探偵机の分厚い天板を、益田の掌がバンと叩く。
「いつもの破天荒で傍若無人な榎木津礼二郎はどこ行ったんですか!」
白い指を組み合わせて何事か考えていた榎木津は、ああ、と顔を上げた。
「どうもこうも、これがぼくの本来の性格だよ。もともと躁病の気があっただろう?中禅寺が哲哉の取り巻きに暗示をかけた要領で、ついでに治療してもらったんだ」
「そんなまさか」
「君にも今まで苦労をかけたね。助手に甘えすぎていた。これからはぼくももっと探偵としての自覚をもたないと」
探偵としての自覚―それは榎木津にとって、神としての自覚だったはずだ。それは十分すぎるほど持っていた。やれやれといった様子で思索に耽る彼の睫の影は呆れるほどに美しいが、表情に乏しい面差しは本物の飾り人形のようで、益田の胸をざわめかせる。
堅く拳を握りこむと、爪が掌に食い込んで痛む。一人まどろみに見た悪い夢なら覚めてほしいと思ったのに。
「…じゃあ、今迄の榎木津さんは」
「もう現れないよ。もう消えた、というべきかな。もうぼくが出鱈目な言動で人々を困らせることもない」
「そんな…」
益田は確実に動揺していた。机に縋り付かなければ立っていられないほどだ。
突然目の前に燦然と現れ、なにもかもを壊し、ついでに益田の世界をも壊した彼がいないだって?
新しく組みなおした世界には、榎木津の形が確実に組み込まれていた。それが抜け落ちてしまったら、もう世界は形を保っていられない。
榎木津が死んだわけでもないのに。現に目の前で、心配そうに益田を見上げる顔はよく知っているそれだ。
だが、これは誰だ?
「大丈夫か?」
椅子を引いて立ち上がった榎木津―だったもの―は益田の前髪を捲り上げて額に手を当ててくる。あれほど脅威だったあの鳶色の瞳も、陶磁器のように皇かな肌もここにある。なのにどうしようもない不安で、益田は動くことが出来なかった。
「君にそんな顔をさせたくない。益―――」
「やめてください!」
益田は飛びのいた、つもりだったが足に力が入らず、床に尻餅をついてしまった。
逆光でぼやける榎木津のシルエットに、震える声で言う。
「…呼んでくださいよ、いつものように、馬鹿って、オロカって」
「君こそらしくない。いつも軽薄に流されて生きるのがポリシーじゃなかったのか」
「そうなんですけど、でも」
全身で感情を表す、あの神の姿を思い描こうとした。
けれど詳細に思い出そうとすると、近づくほどにぼやけて薄くなる。
自分にも、彼と同じ目があればよかったのに。
「い、やです。榎木津さんじゃないと…榎木津さんがい、な、いと…」
最後のほうは嗚咽がこみ上げて、うまく声が出なかった。
立ち上がることもせず、そのままの姿勢で、涙ははらはらと流れるままになっている。
その場に立ったままの榎木津は、ぽつりと、声を落とした。
「そんなにぼくが恋しいか、馬鹿オロカ」
「え」
反射的に見上げたその顔は、2つに裂けたかと思うほど笑っている。
「うわははははははは、だめだ、もうだめだ!面白すぎる!はいおしまい!もうおしまーい!」
と同時に、カウベルがガランガランと音を立て、事務所内にどやどやと人が入ってくる。
魂が抜けたようになっている益田を挟んで、榎木津と彼ら――本島と和寅と鳥口だ―――は談笑を始めた。
「もうちょっと持つかと思ったけど、まぁいいか。ぼくもそろそろ飽きてきたところだった」
「え」
「ど、どうも…とんだところにお邪魔して」
「え」
「面白いことになってるっていうから入らないで待ってたのに、益田君が泣いてるところなんかここじゃ珍しくもない」
「え」
「益田君こっち向いて、記念に一枚」
「ええ!?」
申し訳なそうに薄笑いを浮かべる本島、勝手場に消えていく和寅の背中、写真機を構えている鳥口を順番に見た益田は、最後に満面の笑みを浮かべている榎木津を見上げた。
「今回のことはマスヤマの調査がよく出来ていたからうまくいったので、労ってやれと京極堂に言われたからな!だがただ労うだけじゃあ面白くないし、馬鹿オロカが調子に乗ったらもっと面白くないので、ぼくなりに色をつけてみた」
「い、色って」
「破天荒で傍若無人と言ったな。神がただの面白くもなんともない人間になった気分はどうだった?」
御曹司の仮面を剥いだ榎木津は、ああもうこんなもんいらん、と言って正絹のネクタイをむしりとり、髪をわしわしを掻き乱している。落ちてきた前髪の隙間から見える大きな瞳は、悪戯の成功にキラキラと輝く。
良く事態が飲み込めないが、神が戻ってきたことだけは理解した益田の目には、また涙が溢れてきた。
「どうだ、ぼくが戻ってきて嬉しいか!」
仁王立ちしている榎木津の顔が見られず、益田はしゃくりあげながら頷く。やっと親を見つけた迷子の子供のようだった。事実益田にとっては、その通りとも言えた。
「いつもそのように素直でいれば、可愛くないこともないぞ」
大きな手がわしゃわしゃと益田の前髪を掻き乱す。
あうう、と泣き続ける益田を取り囲む面々のもとに、和寅が人数分の茶を運んできた。
――――
あれでもう少しまともなら、と思ってはいるけど結局いつもの神が一番好きな益田。ある意味ツンデレ?
五徳猫のよそ行き榎木津にしたかったのになんか気持ち悪い人になっちゃって反省。そのうちリベンジ。
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