直接描写はありませんが益榎益っぽいです。
榎木津は首を傾げた。弓形に整った濃い眉は、疑念によって顰められている。
寝台に張られた新品のシーツが冷たいからでも、珍しく下僕が自分の上に乗り上げているからでも無い。自分を見下ろしている男が、両腕を突っ張ったまま硬直している事が純粋に不思議でならなかったからだ。
幾度か情も交わしている。今更緊張で動けないという話だとしたらお笑いだ。折角なのでじろじろと検分してみれば、普段からやや血色の悪い貌は白を通り越して真っ青だった。記憶を確認するまでも無く一点を見つめ続けている黒い瞳は固まって、正しく黒曜石に似ていた。
「どうしたマスヤマ」
「い、いえ…なんでもないですよ」
慌てたように視線は逸らされ、なんでもないどころか語調すら上ずっている。
見え見えの誤魔化しは何時だって榎木津を苛立たせた。今回も其れは例外では無く、榎木津の背が一瞬沈んだかと思うと勢い良く跳ね上がり、ついでとばかりに長い脚が益田を蹴り飛ばす。次の瞬間には魔法か手品のように両者の体勢は入れ替わっていた。下僕の膝を割って君臨する榎木津と、肘を支えに辛うじて上体を起こしている益田。
声にならぬ声を漏らしながら狼狽する益田に、榎木津が吼える。
「どうしたって聞いてる!!」
怒鳴られた益田の目は、涙を湛えながらも再び一点に吸い寄せられた。
「ひぃ、だ、だって、榎木津さんの首が」
「首ィ?」
大きな手が首筋をなぞると同時に、益田の頭上に記憶の像が浮かび上がる。骨ばった指先に、僅かに赤い痣のような物が視えた。
「虫刺されだ」
「…へ?」
「あっ痒い!今まで気付いてなかったのに、バカオロカが変な事云うからだ!どうしてくれる」
乱暴に首を掻き毟る榎木津の目の前で、益田の左肩ががくんと落ちた。肘の力が抜けたのだ。その視線は呆然と、けれど鳶色の瞳に向けられている。瞳に込められた感情が色を変えたのを察し、榎木津は益田に云った。
「で、僕の首がどうしたって?」
「い、いやその、ほんとに何でも無いですよ」
半分だけ笑って、立てた肘でずるずると体を引き摺りながら逃げを打つ益田を見下ろしながら、榎木津は今度こそ得心して、ははぁんと大袈裟に声を上げ、それからにやりと嗤った。
「僕が何処ぞのお嬢さんに首を吸われたとでも思ったんだろうなぁ、バカでオロカで偏執狂の益山君は」
「ぼ、僕ぁその…」
「まぁ間違っちゃ居ないな、蚊は雌しか血を吸わない」
榎木津がくつくつと笑う度にボタンを外したシャツから胸元がちらちらと覗く。益田も愛想笑いをしながら少しずつ戸口へ向けて下がっていく様子を見せたが、彼が立ち上がるよりも榎木津がその足首を掴む方が早かった。
「何処へ行く」
益田が少しずつ稼いだ距離など、榎木津の1歩にも満たない。現に足首からずるずると引き戻され、益田の身体は榎木津から落ちる影の下にすっぽりと収まってしまった。
益田が見上げる先に、丁度榎木津の首についた虫刺されの痕が見える。榎木津が掻き毟った所為で、益々赤い。痣の意味を知って尚、ぎくりとしてしまうのを止められない。
榎木津の指先が、其処をとんと突いた。
「―――お前も付けるか?これ」
「え…えぇッ!?」
「此れを見た時のマスカマの反応ときたらなかったぞ。嫉妬したか?生意気にも」
「いやいやそんな、滅相も無いですって!榎木津さんがご婦人とどうなろうと、僕には全然関係の無い話で」
「ご婦人には違いないが、蚊だぞ、蚊。蚊にも出来る事が出来ないのか、根性無しめ。マスヤマは下僕以下どころか、虫以下だな!バカと呼ぶのも勿体無い、ふらふらするからボウフラオロカだ!」
日中、日差しに満ちた明るい事務所で投げられるのと変わらぬ悪口雑言が、榎木津の寝室で、それも真上から降り注ぐ。襟元が緩んだぶんだけ、榎木津の放つ空気は何処か気安い。
だからこそ、安い挑発に乗ってみる気になったのかもしれない。榎木津の襟首を引っ掴むなど、日頃ならどれ程の罵詈を叩かれようと絶対にしない。
引き寄せた白い首筋に丸く残った紅を目印に、噛み付くように食いついた。
「…ッ」
益田から、行き場を失った息が吐き出される。どの程度の力で吸い付けば痣が残るのかなど、彼は知らないのだ。それでも傷口から毒を吸い出すようにして一回強く吸うと、口付けた時の勢いとは裏腹に、おずおずと離れた。
楕円形に赤みの範囲を増した痣が、僅かに濡れているのが気恥ずかしくて、益田は思わず目を逸らす。後頭部がごとりと床に落ちて、細い黒髪がばらけた。
当の榎木津は顔色ひとつ変えていない。ただ首元を撫でて、妙にしみじみと呟いた。
「下手だなぁ、マスヤマは」
「放っといてくださいよ、これでも必死で…あぁあ偉いことした…もともと虫刺されの上だったからともかく、どれくらい残るもんなんだ…」
「どこまで覚えが悪いんだ」
―――覚えが悪い?
反省を中断してきょとんとする益田の首の後ろに、榎木津の指がするりと差し入れられる。盆の窪のあたりをきゅうと押し上げられて、何故か肩が弾んだ。
「―――いつも此処を吸ってやってたのに」
しん、と寝室が静まり返る。
状況を把握した益田が悲鳴とともに跳ね起き、額がぶつかりそうになった。激突を免れたのは、榎木津が先んじて身を起こしたためだ。
「い、い、いつも!?」
「お前が背中を向けて寝ているのが悪いんだ、ざまぁみろ」
「向かい合って寝るなんて出来る訳ないでしょ、っていうか…エェッ!?」
咄嗟に榎木津が触れた辺りに、自分でも触れた。僅かに後ろ髪がかかる程度の場所は、当然ながら自分では全く見えないが、急に熱を帯びたような気がして顔面にまで血が昇った。
「胸を張ってれば見えないよ。――まぁ俯いてうじうじめそめそしてたら、どうかなぁ?」
僕はそんな事しないから解らない!と云って、榎木津がけらけらと笑っている。
あまりの衝撃にくらくらとする益田の視界で、白い首筋に残る赤い痕跡ばかりが鮮烈で、更に強い眩暈を憶えた。
お題提供:『BALDWIN』様
―――
久々の更新がこれかぁ…(半笑いで)
寝台に張られた新品のシーツが冷たいからでも、珍しく下僕が自分の上に乗り上げているからでも無い。自分を見下ろしている男が、両腕を突っ張ったまま硬直している事が純粋に不思議でならなかったからだ。
幾度か情も交わしている。今更緊張で動けないという話だとしたらお笑いだ。折角なのでじろじろと検分してみれば、普段からやや血色の悪い貌は白を通り越して真っ青だった。記憶を確認するまでも無く一点を見つめ続けている黒い瞳は固まって、正しく黒曜石に似ていた。
「どうしたマスヤマ」
「い、いえ…なんでもないですよ」
慌てたように視線は逸らされ、なんでもないどころか語調すら上ずっている。
見え見えの誤魔化しは何時だって榎木津を苛立たせた。今回も其れは例外では無く、榎木津の背が一瞬沈んだかと思うと勢い良く跳ね上がり、ついでとばかりに長い脚が益田を蹴り飛ばす。次の瞬間には魔法か手品のように両者の体勢は入れ替わっていた。下僕の膝を割って君臨する榎木津と、肘を支えに辛うじて上体を起こしている益田。
声にならぬ声を漏らしながら狼狽する益田に、榎木津が吼える。
「どうしたって聞いてる!!」
怒鳴られた益田の目は、涙を湛えながらも再び一点に吸い寄せられた。
「ひぃ、だ、だって、榎木津さんの首が」
「首ィ?」
大きな手が首筋をなぞると同時に、益田の頭上に記憶の像が浮かび上がる。骨ばった指先に、僅かに赤い痣のような物が視えた。
「虫刺されだ」
「…へ?」
「あっ痒い!今まで気付いてなかったのに、バカオロカが変な事云うからだ!どうしてくれる」
乱暴に首を掻き毟る榎木津の目の前で、益田の左肩ががくんと落ちた。肘の力が抜けたのだ。その視線は呆然と、けれど鳶色の瞳に向けられている。瞳に込められた感情が色を変えたのを察し、榎木津は益田に云った。
「で、僕の首がどうしたって?」
「い、いやその、ほんとに何でも無いですよ」
半分だけ笑って、立てた肘でずるずると体を引き摺りながら逃げを打つ益田を見下ろしながら、榎木津は今度こそ得心して、ははぁんと大袈裟に声を上げ、それからにやりと嗤った。
「僕が何処ぞのお嬢さんに首を吸われたとでも思ったんだろうなぁ、バカでオロカで偏執狂の益山君は」
「ぼ、僕ぁその…」
「まぁ間違っちゃ居ないな、蚊は雌しか血を吸わない」
榎木津がくつくつと笑う度にボタンを外したシャツから胸元がちらちらと覗く。益田も愛想笑いをしながら少しずつ戸口へ向けて下がっていく様子を見せたが、彼が立ち上がるよりも榎木津がその足首を掴む方が早かった。
「何処へ行く」
益田が少しずつ稼いだ距離など、榎木津の1歩にも満たない。現に足首からずるずると引き戻され、益田の身体は榎木津から落ちる影の下にすっぽりと収まってしまった。
益田が見上げる先に、丁度榎木津の首についた虫刺されの痕が見える。榎木津が掻き毟った所為で、益々赤い。痣の意味を知って尚、ぎくりとしてしまうのを止められない。
榎木津の指先が、其処をとんと突いた。
「―――お前も付けるか?これ」
「え…えぇッ!?」
「此れを見た時のマスカマの反応ときたらなかったぞ。嫉妬したか?生意気にも」
「いやいやそんな、滅相も無いですって!榎木津さんがご婦人とどうなろうと、僕には全然関係の無い話で」
「ご婦人には違いないが、蚊だぞ、蚊。蚊にも出来る事が出来ないのか、根性無しめ。マスヤマは下僕以下どころか、虫以下だな!バカと呼ぶのも勿体無い、ふらふらするからボウフラオロカだ!」
日中、日差しに満ちた明るい事務所で投げられるのと変わらぬ悪口雑言が、榎木津の寝室で、それも真上から降り注ぐ。襟元が緩んだぶんだけ、榎木津の放つ空気は何処か気安い。
だからこそ、安い挑発に乗ってみる気になったのかもしれない。榎木津の襟首を引っ掴むなど、日頃ならどれ程の罵詈を叩かれようと絶対にしない。
引き寄せた白い首筋に丸く残った紅を目印に、噛み付くように食いついた。
「…ッ」
益田から、行き場を失った息が吐き出される。どの程度の力で吸い付けば痣が残るのかなど、彼は知らないのだ。それでも傷口から毒を吸い出すようにして一回強く吸うと、口付けた時の勢いとは裏腹に、おずおずと離れた。
楕円形に赤みの範囲を増した痣が、僅かに濡れているのが気恥ずかしくて、益田は思わず目を逸らす。後頭部がごとりと床に落ちて、細い黒髪がばらけた。
当の榎木津は顔色ひとつ変えていない。ただ首元を撫でて、妙にしみじみと呟いた。
「下手だなぁ、マスヤマは」
「放っといてくださいよ、これでも必死で…あぁあ偉いことした…もともと虫刺されの上だったからともかく、どれくらい残るもんなんだ…」
「どこまで覚えが悪いんだ」
―――覚えが悪い?
反省を中断してきょとんとする益田の首の後ろに、榎木津の指がするりと差し入れられる。盆の窪のあたりをきゅうと押し上げられて、何故か肩が弾んだ。
「―――いつも此処を吸ってやってたのに」
しん、と寝室が静まり返る。
状況を把握した益田が悲鳴とともに跳ね起き、額がぶつかりそうになった。激突を免れたのは、榎木津が先んじて身を起こしたためだ。
「い、い、いつも!?」
「お前が背中を向けて寝ているのが悪いんだ、ざまぁみろ」
「向かい合って寝るなんて出来る訳ないでしょ、っていうか…エェッ!?」
咄嗟に榎木津が触れた辺りに、自分でも触れた。僅かに後ろ髪がかかる程度の場所は、当然ながら自分では全く見えないが、急に熱を帯びたような気がして顔面にまで血が昇った。
「胸を張ってれば見えないよ。――まぁ俯いてうじうじめそめそしてたら、どうかなぁ?」
僕はそんな事しないから解らない!と云って、榎木津がけらけらと笑っている。
あまりの衝撃にくらくらとする益田の視界で、白い首筋に残る赤い痕跡ばかりが鮮烈で、更に強い眩暈を憶えた。
お題提供:『BALDWIN』様
―――
久々の更新がこれかぁ…(半笑いで)
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