かっしゃん。
薄暗い台所の中で、呆気ないほど軽い音がして、益田は振り向いた。
見下ろした足元はいつも此処の主である和寅が清潔にしている筈なのに、散乱する異物と先程音の正体を察した途端寒気めいたものが益田の背を這い登ってくる。
「…えっ」
硬い床に叩きつけられたのだろう―――砕け散った陶磁のカップが其処にはあった。つなぎ合わせる事も出来ないほど細かな破片となったものは、繊細な曲線を描いていた取っ手の部分に違いない。比較的大きな破片は幾つかの色に分かれているが、其れは縁を取り巻く金の箔と鮮やかな薔薇の模様であった事を益田は知っている。
すぐさまその場にしゃがみこみ、血の気の引いた顔の前に一片を持ち上げてみた。やはり間違い無い。
「…うわやっぱり、榎木津さんのカップだ!何だこれ、え、僕がやったの!?」
「その通りだよ益田君」
益田は肩をびくりと竦ませる。見上げた食器棚の陰から、書生姿の男が姿を現した。
「和寅さん!」
「だから台所に勝手に入るなと云ってるのに」
太い眉を顰めて大袈裟な溜息を吐く。益田の手から抜け落ちた破片が、更に四散した。
「いや、僕にも何が何だか解んなくて…これは不幸な事故なんですよう」
「事故なものか。君は私の目を盗んでつまみ食いをしようとしたんだろう。菓子の類は食器棚の奥に隠してある。先生のカップも同じ段に仕舞っているんだ。君は奥の菓子を出す時に、横着して先生のカップを退けなかったね。しかも棚の戸をちゃんと閉めていなかった。だから益田君が歩いた振動で、滑り落ちてしまったんだ」
益田は横目でちらりと流し台に置きっぱなしの煎餅袋を見て、子犬のように目を伏せる。和寅は片割れを失ってしまったソーサーを名残惜しげに繰りながら、へたり込んでいる益田を―――木っ端微塵になったカップの成れの果てを見下ろした。
泣き声とも溜息ともつかない呻き声をあげる益田の前に、和寅が屈みこむ。その手は比較的大きな破片を拾い上げては、懐紙の上に乗せていく。益田など居ないように着々と作業は進み、最後に残ったどうにもならない砂のようなものは箒で集めて捨ててしまった。
紙ごと破片を持ち上げ、すたすたと歩き出す和寅の背に、益田が声をかける。
「和寅さん、それどうするんですか」
「備品が壊れたので先生に報告するんだよ」
―――榎木津さんに、報告!?
聞くや否や益田は立ち上がり、半べそで和寅に詰め寄った。
「ちょちょちょちょっ、報告!? 報告って、報告ですか!」
「何を云っているのかね君は。当たり前だろう。先生が目を覚まし次第そうするつもりだよ」
和寅は五月蠅げに歩を進めるが、益田とて譲らない。進行方向に回り込んで、ぺこぺこと頭を下げながら懇願している。必死ながらも、榎木津を起こさないように声は業とらしいほど抑えた上で。
「榎木津さんなんか何でお茶飲んだって一緒みたいな人ですよ、わざわざ波風立てるこたぁ無いじゃないですか!しかも寝起きって…不機嫌の極みですよ、ここは事務所の平和のためにも不幸な事故ということでどうかひとつ!」
「事故じゃないじゃないか、人災だよ。君のヘマの片棒を担ぐなんて、私ゃ御免だね」
「今回はたまたま僕が原因だったかも知れませんが、榎木津さんのカップですよ、いつか壊れてたに決まってますって!きっと今日がその時だったんです、カップは僕が自腹で弁償しますし、和寅さんに庇って頂いた御恩はいつかお返ししますから、今日のところは、ねぇねぇ」
「しつこいな君も!」
探偵机の上に破片を置くと、和寅は益田の方に身を翻した。榎木津とは違った意味で日本人離れした顔が、益田をぎっと睨みあげている。
「其れにね、幾ら言い訳だてしたって駄目さ。何せ私ゃ『見てる』んだからね」
益田がコソコソと台所に侵入する背中から、扉の隙間からちらりと見える不安定なカップ、其れが真っ逆さまに落下する所まで、全てだ。益田もよもや忘れてはいまい、探偵が榎木津礼二郎である限り、言い逃れなど何一つ効かないと云う事位。益田の肩がゆっくりと下がり、大きな溜息と共に脱力する。
解れば良いのだと、和寅は仕事に戻ろうとした。益田の横をすり抜けて、持ち場に戻ろうとしたのだ。
しかし其れは止められた。思いがけず伸びてきた益田の腕に、割烹着の袖を掴まれたからだ。重く垂れた前髪から、思いつめた黒い瞳が覗いている。
「……忘れてください」
「ハァ?」
「和寅さんさえ忘れてくれれば、全部円く収まるんですっ!榎木津さんが目を覚ます前に、すっきりさっぱり忘れちゃってください!」
「どうかしてしまったのかね君は!窓の汚れじゃあるまいし、ハイそうですかと綺麗さっぱり行くものか!」
振り払おうとしたもう片方の腕も握られて、いつの間にか掴み合いになってしまった。力では恐らく和寅に分があるものの、妙に必死な益田も両腕を離そうとしない。押し合い引き合いで、2人の足が奇妙なステップを踏む。
「そこを何とか、お願いします!」
「ちょ、落ち着、うわぁ!」
毛足の長い絨毯に足を取られ、二人の視界が傾ぐ。あわや転倒しかけたが、幸運な事に応接用のソファが2人ともを受け止めた。和寅は背中から落ち、その上から益田が倒れこむ。
しかし不幸な事があった。落ちたカップと同じように勢いのついた和寅の後頭部が、木製の肘掛と強かにぶつかってしまったのだ。余程良い具合に決まったのか、目の前に星が飛ぶ。
「痛ッ!」
しかも、不幸と云うものは得てして続いてしまうもので。
「何だ下僕ども、朝から五月蝿いぞ!」
眠りから覚めた暴君が、衝立の陰から遂に姿を現してしまったのである。
怒りに燃えていた鳶色の瞳がどんどん透明度を増して行くのを、不幸な下僕2名は同時に見た。
彼らは榎木津のような不思議な能力を有している訳では無いが、彼の目にどんな光景が映っているのかは、容易に想像できた。
黒髪を振り乱した痩せた男が息を荒げながら、書生姿に割烹着の給仕(頭をぶつけた所為で、目には涙すら浮かんでいる)を、ソファに組み敷いているという、地獄のような有様に相違無い―――
憤然と腰掛ける榎木津の目の前で、被告人―――もとい、下僕2名が小さくなって座っている。
下僕の1人、益田はぼそぼそと思いつく限りの謝罪を繰り返していた。
「…えっと、榎木津さんが寝てる間につまみ食いしようとしてすみません…」
「それじゃない」
「榎木津さんの大事なカップ割っちゃってすみません…」
「それじゃない」
「和寅さんと喧嘩して、榎木津さんのお休みを妨害して…」
「何処まで頭が悪いのだ、バカバカバカバカオロカめ!自分の罪状すら把握してないんじゃ、自首の意味が無いぞ!」
榎木津が乱暴に醤油煎餅を拳で打つ音にすら、びくついてしまう。裁判官の木槌の要領で振り下ろされた拳によって、硬い煎餅は粉々に砕けた。
「僕が寝てる隙に、しかもソファで事に及ぼうとしただろう!寝起きに不愉快なものを見せるな!」
「こ、事って!それは誤解ですよ!しかもよりによって和寅さんとなんて、絶対有り得ませんから!」
「それはこっちの台詞だよ。誰が益田君なんかに」
憮然と答えた和寅が、ぶつけた後頭部を摩っている。短く刈り込んだ髪の感触に加え、やや熱を持った瘤があるのが解った。
「言い訳しない!僕には全部視えてるんだ、隠し事するなバカども!」
勿論2人とも忘れてはいない。
探偵が榎木津礼二郎である限り、正であろうと誤であろうと、一切の弁明は通用しないと云う事を。まだ嵐は収まりそうに無い。
苛苛と煎餅の破片を噛む榎木津の前で、益田がそっと和寅に囁きかける。
「…ところで和寅さん、頭ぶつけて忘れたりしてません?」
「忘れるものかね。死んだって忘れないよ、この件については」
「ですよねぇ」
「不味いっ!」
木っ端微塵の煎餅が雨のように浴びせかけられ、2人は同時に身を竦めた。
――――
ま さ か の 益 和
本当に薔薇十字探偵社の可能性は無限大ですね!
薄暗い台所の中で、呆気ないほど軽い音がして、益田は振り向いた。
見下ろした足元はいつも此処の主である和寅が清潔にしている筈なのに、散乱する異物と先程音の正体を察した途端寒気めいたものが益田の背を這い登ってくる。
「…えっ」
硬い床に叩きつけられたのだろう―――砕け散った陶磁のカップが其処にはあった。つなぎ合わせる事も出来ないほど細かな破片となったものは、繊細な曲線を描いていた取っ手の部分に違いない。比較的大きな破片は幾つかの色に分かれているが、其れは縁を取り巻く金の箔と鮮やかな薔薇の模様であった事を益田は知っている。
すぐさまその場にしゃがみこみ、血の気の引いた顔の前に一片を持ち上げてみた。やはり間違い無い。
「…うわやっぱり、榎木津さんのカップだ!何だこれ、え、僕がやったの!?」
「その通りだよ益田君」
益田は肩をびくりと竦ませる。見上げた食器棚の陰から、書生姿の男が姿を現した。
「和寅さん!」
「だから台所に勝手に入るなと云ってるのに」
太い眉を顰めて大袈裟な溜息を吐く。益田の手から抜け落ちた破片が、更に四散した。
「いや、僕にも何が何だか解んなくて…これは不幸な事故なんですよう」
「事故なものか。君は私の目を盗んでつまみ食いをしようとしたんだろう。菓子の類は食器棚の奥に隠してある。先生のカップも同じ段に仕舞っているんだ。君は奥の菓子を出す時に、横着して先生のカップを退けなかったね。しかも棚の戸をちゃんと閉めていなかった。だから益田君が歩いた振動で、滑り落ちてしまったんだ」
益田は横目でちらりと流し台に置きっぱなしの煎餅袋を見て、子犬のように目を伏せる。和寅は片割れを失ってしまったソーサーを名残惜しげに繰りながら、へたり込んでいる益田を―――木っ端微塵になったカップの成れの果てを見下ろした。
泣き声とも溜息ともつかない呻き声をあげる益田の前に、和寅が屈みこむ。その手は比較的大きな破片を拾い上げては、懐紙の上に乗せていく。益田など居ないように着々と作業は進み、最後に残ったどうにもならない砂のようなものは箒で集めて捨ててしまった。
紙ごと破片を持ち上げ、すたすたと歩き出す和寅の背に、益田が声をかける。
「和寅さん、それどうするんですか」
「備品が壊れたので先生に報告するんだよ」
―――榎木津さんに、報告!?
聞くや否や益田は立ち上がり、半べそで和寅に詰め寄った。
「ちょちょちょちょっ、報告!? 報告って、報告ですか!」
「何を云っているのかね君は。当たり前だろう。先生が目を覚まし次第そうするつもりだよ」
和寅は五月蠅げに歩を進めるが、益田とて譲らない。進行方向に回り込んで、ぺこぺこと頭を下げながら懇願している。必死ながらも、榎木津を起こさないように声は業とらしいほど抑えた上で。
「榎木津さんなんか何でお茶飲んだって一緒みたいな人ですよ、わざわざ波風立てるこたぁ無いじゃないですか!しかも寝起きって…不機嫌の極みですよ、ここは事務所の平和のためにも不幸な事故ということでどうかひとつ!」
「事故じゃないじゃないか、人災だよ。君のヘマの片棒を担ぐなんて、私ゃ御免だね」
「今回はたまたま僕が原因だったかも知れませんが、榎木津さんのカップですよ、いつか壊れてたに決まってますって!きっと今日がその時だったんです、カップは僕が自腹で弁償しますし、和寅さんに庇って頂いた御恩はいつかお返ししますから、今日のところは、ねぇねぇ」
「しつこいな君も!」
探偵机の上に破片を置くと、和寅は益田の方に身を翻した。榎木津とは違った意味で日本人離れした顔が、益田をぎっと睨みあげている。
「其れにね、幾ら言い訳だてしたって駄目さ。何せ私ゃ『見てる』んだからね」
益田がコソコソと台所に侵入する背中から、扉の隙間からちらりと見える不安定なカップ、其れが真っ逆さまに落下する所まで、全てだ。益田もよもや忘れてはいまい、探偵が榎木津礼二郎である限り、言い逃れなど何一つ効かないと云う事位。益田の肩がゆっくりと下がり、大きな溜息と共に脱力する。
解れば良いのだと、和寅は仕事に戻ろうとした。益田の横をすり抜けて、持ち場に戻ろうとしたのだ。
しかし其れは止められた。思いがけず伸びてきた益田の腕に、割烹着の袖を掴まれたからだ。重く垂れた前髪から、思いつめた黒い瞳が覗いている。
「……忘れてください」
「ハァ?」
「和寅さんさえ忘れてくれれば、全部円く収まるんですっ!榎木津さんが目を覚ます前に、すっきりさっぱり忘れちゃってください!」
「どうかしてしまったのかね君は!窓の汚れじゃあるまいし、ハイそうですかと綺麗さっぱり行くものか!」
振り払おうとしたもう片方の腕も握られて、いつの間にか掴み合いになってしまった。力では恐らく和寅に分があるものの、妙に必死な益田も両腕を離そうとしない。押し合い引き合いで、2人の足が奇妙なステップを踏む。
「そこを何とか、お願いします!」
「ちょ、落ち着、うわぁ!」
毛足の長い絨毯に足を取られ、二人の視界が傾ぐ。あわや転倒しかけたが、幸運な事に応接用のソファが2人ともを受け止めた。和寅は背中から落ち、その上から益田が倒れこむ。
しかし不幸な事があった。落ちたカップと同じように勢いのついた和寅の後頭部が、木製の肘掛と強かにぶつかってしまったのだ。余程良い具合に決まったのか、目の前に星が飛ぶ。
「痛ッ!」
しかも、不幸と云うものは得てして続いてしまうもので。
「何だ下僕ども、朝から五月蝿いぞ!」
眠りから覚めた暴君が、衝立の陰から遂に姿を現してしまったのである。
怒りに燃えていた鳶色の瞳がどんどん透明度を増して行くのを、不幸な下僕2名は同時に見た。
彼らは榎木津のような不思議な能力を有している訳では無いが、彼の目にどんな光景が映っているのかは、容易に想像できた。
黒髪を振り乱した痩せた男が息を荒げながら、書生姿に割烹着の給仕(頭をぶつけた所為で、目には涙すら浮かんでいる)を、ソファに組み敷いているという、地獄のような有様に相違無い―――
憤然と腰掛ける榎木津の目の前で、被告人―――もとい、下僕2名が小さくなって座っている。
下僕の1人、益田はぼそぼそと思いつく限りの謝罪を繰り返していた。
「…えっと、榎木津さんが寝てる間につまみ食いしようとしてすみません…」
「それじゃない」
「榎木津さんの大事なカップ割っちゃってすみません…」
「それじゃない」
「和寅さんと喧嘩して、榎木津さんのお休みを妨害して…」
「何処まで頭が悪いのだ、バカバカバカバカオロカめ!自分の罪状すら把握してないんじゃ、自首の意味が無いぞ!」
榎木津が乱暴に醤油煎餅を拳で打つ音にすら、びくついてしまう。裁判官の木槌の要領で振り下ろされた拳によって、硬い煎餅は粉々に砕けた。
「僕が寝てる隙に、しかもソファで事に及ぼうとしただろう!寝起きに不愉快なものを見せるな!」
「こ、事って!それは誤解ですよ!しかもよりによって和寅さんとなんて、絶対有り得ませんから!」
「それはこっちの台詞だよ。誰が益田君なんかに」
憮然と答えた和寅が、ぶつけた後頭部を摩っている。短く刈り込んだ髪の感触に加え、やや熱を持った瘤があるのが解った。
「言い訳しない!僕には全部視えてるんだ、隠し事するなバカども!」
勿論2人とも忘れてはいない。
探偵が榎木津礼二郎である限り、正であろうと誤であろうと、一切の弁明は通用しないと云う事を。まだ嵐は収まりそうに無い。
苛苛と煎餅の破片を噛む榎木津の前で、益田がそっと和寅に囁きかける。
「…ところで和寅さん、頭ぶつけて忘れたりしてません?」
「忘れるものかね。死んだって忘れないよ、この件については」
「ですよねぇ」
「不味いっ!」
木っ端微塵の煎餅が雨のように浴びせかけられ、2人は同時に身を竦めた。
――――
ま さ か の 益 和
本当に薔薇十字探偵社の可能性は無限大ですね!
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