カタンカタンと電車が走る音が遠く聞こえる。
茶びた卓上でくらくら煮える鉄鍋の中では、良い具合にサシの回った薔薇色の肉が割り下と共に踊り、絹漉しの豆腐の白と相まって目の御馳走と云った風情だ。
鍋に突っ込まれている箸は二膳。箸置きの上に並んでいるのが一膳。一膳の男――益田は茶のお代わりを求めて厨房に向かったのだ。あとの2人は良い具合に火が通った肉を引き出しては、口に運んでいる。
そのうちの1人は湯気で曇った金縁眼鏡を拭きながら、思い出したように顔を上げた。
「―――あっ、そうだ」
もう1人の男も目を上げる。踊る豆腐の肌に勝るとも劣らぬ白い肌に付いた割り下を、美貌に似合わぬ乱暴な仕草で拭いながら。
「ごめんエヅ、云ってなかったっけ」
「何を」
「こないだ益田ちゃんに会った時さ、嗚呼こないだって云っても6月の話だからこないだでも無いかなぁ」
「何が」
「お前が益田ちゃんの話してた事、益田ちゃんに喋っちゃった」
湯気の向こうで日焼け肌がくしゃりと歪む。バツの悪そうな、けれど何処か得意げな表情。
「…」
榎木津は肉を租借しつつ飴色の瞳でじっと司を見ている。他に客の居ない個室で、鍋が煮えるくつくつという音だけが響いていた。其処に司が手酌をするとくとくという音が重なり、更に笑み交じりの声が続く。
「僕はさ、そこで初めてエヅが云うところの『馬鹿』があの子だって知ったわけじゃない?なんせ馬鹿とかオロカとか、およそ人の名前じゃない言葉ばっかり出てくるんだもの。唯一其れっぽかったのが『マスヤマ』だからね、益田ですとか云うからアレ?なんて思っちゃって。だからついポロっと云っちゃったわけさ」
「ふうん」
「イヤふうんじゃなくて聞きなよ。こっからが面白いんだから。あの子見るからに真面目そうだし、実際僕のナリを見てきょとーんとしちゃって、それから訝しげにしてるのさ。まぁそれは良いんだけどね、エヅの名前が出た途端だよ」
冷酒をぐいと煽り、箸先をびしりと榎木津の鼻先に突きつける。指を向けられた猫のように、丸い目がしきりに瞬いた。
それを見て、司は満足したように云う。
「――榎木津さんが僕のことを何か云ってたんですかぁ、だってぇ。身乗り出しちゃってさ、黒い目がキラキラしてたよう」
おっと肉が煮えちゃう、と云って伸ばされかけた箸の先から、榎木津の箸が素早く肉を奪い取る。
苦笑する司を無視して、榎木津は其れを白飯と共に口内へとかきこんだ。
曇りを拭ったレンズの奥で、さも楽しげに細められた瞳が榎木津を見据えている。
「面白い子じゃないか、ちょっと真面目すぎるのが駄目だけど」
「バカばっかりやるから最初は面白いけど、あんまりオロカだから段々苛苛してくるよ」
「あぁそう!良いじゃないの、真っ直ぐで。エヅにも見せてやりたかったねぇ、あの時の益田ちゃん」
わざと云っているのか忘れているのかは知らないが、云われるまでも無く榎木津の目には『あの時』とやらがしっかりと視えていた。
曖昧な笑みで頷いていたかと思えば、興味深げに目を丸くして、其れから直ぐにおどおどと視線を彷徨わせる姿。揺れる前髪の向こうで、思いのほかくるくる変わる表情。
司はと云うと、空になった榎木津のグラスにも酒を注いでいる。
「大事にしてあげなよう?助手孝行したい時には助手は無しってね。フラっと居なくなっちゃっても知らないよう」
「居なくならないよ」
榎木津の答えを聞き、今度は司の目が見開かれる。
「おや自信ありげ。そりゃあ益田ちゃんは随分熱心なようだけど、愛想尽かししないとも限らないでしょ?そう云えばお茶を貰いに行くとか云って、随分戻って来ないけど」
「居なくならないね」
司が注いだ酒をぐいと煽り、白い首の中で喉仏が上下する。
高い音を立ててグラスが置かれた時、榎木津の顔は笑っていた。自信と確信に満ちた、勝者の笑み。
「何故なら神が許さないからだ!」
座敷はしん、と静まりかえる。
鍋が煮立つ音、窓越しの雑踏。二、三度瞬きをしたきり呆然としている司と、満面の笑顔を崩さない榎木津。最初に口を開いたのは、司の方だった。
面白くて仕方が無いと云う代わりに、身を仰け反らせて大声で笑っている。ひとしきり笑うと、ふうと一息吐き、当初の姿勢に戻った。
「あー面白い。こんな話に本気出しちゃって、エヅは真面目だなぁ――おっと」
司が襖に目を向ける。その向こうに続く廊下の先から、ぱたぱたと足音がしたからだ。
給仕人にしては洗練されておらず、気が急いている事ばかりが伝わる其れは恐らく益田のものだろう。
「今の話益田ちゃんにしたら、あの子喜ぶかなぁ」
「僕の許可無く下僕を甘やかすな!」
「解ってるって。云ってみただけ」
浅黒い手は幾度目かの継ぎ足しをしようとしたが、瓶の先からは申し訳程度に雫が落ちただけだった。
と同時に、すらりと襖が開く。
「―――かわいいねぇ」
五厘に刈った頭を掻いて、男はくつくつと笑った。
――――
流行に便乗。割と最近まで司を下の名前だと思っていました。
茶びた卓上でくらくら煮える鉄鍋の中では、良い具合にサシの回った薔薇色の肉が割り下と共に踊り、絹漉しの豆腐の白と相まって目の御馳走と云った風情だ。
鍋に突っ込まれている箸は二膳。箸置きの上に並んでいるのが一膳。一膳の男――益田は茶のお代わりを求めて厨房に向かったのだ。あとの2人は良い具合に火が通った肉を引き出しては、口に運んでいる。
そのうちの1人は湯気で曇った金縁眼鏡を拭きながら、思い出したように顔を上げた。
「―――あっ、そうだ」
もう1人の男も目を上げる。踊る豆腐の肌に勝るとも劣らぬ白い肌に付いた割り下を、美貌に似合わぬ乱暴な仕草で拭いながら。
「ごめんエヅ、云ってなかったっけ」
「何を」
「こないだ益田ちゃんに会った時さ、嗚呼こないだって云っても6月の話だからこないだでも無いかなぁ」
「何が」
「お前が益田ちゃんの話してた事、益田ちゃんに喋っちゃった」
湯気の向こうで日焼け肌がくしゃりと歪む。バツの悪そうな、けれど何処か得意げな表情。
「…」
榎木津は肉を租借しつつ飴色の瞳でじっと司を見ている。他に客の居ない個室で、鍋が煮えるくつくつという音だけが響いていた。其処に司が手酌をするとくとくという音が重なり、更に笑み交じりの声が続く。
「僕はさ、そこで初めてエヅが云うところの『馬鹿』があの子だって知ったわけじゃない?なんせ馬鹿とかオロカとか、およそ人の名前じゃない言葉ばっかり出てくるんだもの。唯一其れっぽかったのが『マスヤマ』だからね、益田ですとか云うからアレ?なんて思っちゃって。だからついポロっと云っちゃったわけさ」
「ふうん」
「イヤふうんじゃなくて聞きなよ。こっからが面白いんだから。あの子見るからに真面目そうだし、実際僕のナリを見てきょとーんとしちゃって、それから訝しげにしてるのさ。まぁそれは良いんだけどね、エヅの名前が出た途端だよ」
冷酒をぐいと煽り、箸先をびしりと榎木津の鼻先に突きつける。指を向けられた猫のように、丸い目がしきりに瞬いた。
それを見て、司は満足したように云う。
「――榎木津さんが僕のことを何か云ってたんですかぁ、だってぇ。身乗り出しちゃってさ、黒い目がキラキラしてたよう」
おっと肉が煮えちゃう、と云って伸ばされかけた箸の先から、榎木津の箸が素早く肉を奪い取る。
苦笑する司を無視して、榎木津は其れを白飯と共に口内へとかきこんだ。
曇りを拭ったレンズの奥で、さも楽しげに細められた瞳が榎木津を見据えている。
「面白い子じゃないか、ちょっと真面目すぎるのが駄目だけど」
「バカばっかりやるから最初は面白いけど、あんまりオロカだから段々苛苛してくるよ」
「あぁそう!良いじゃないの、真っ直ぐで。エヅにも見せてやりたかったねぇ、あの時の益田ちゃん」
わざと云っているのか忘れているのかは知らないが、云われるまでも無く榎木津の目には『あの時』とやらがしっかりと視えていた。
曖昧な笑みで頷いていたかと思えば、興味深げに目を丸くして、其れから直ぐにおどおどと視線を彷徨わせる姿。揺れる前髪の向こうで、思いのほかくるくる変わる表情。
司はと云うと、空になった榎木津のグラスにも酒を注いでいる。
「大事にしてあげなよう?助手孝行したい時には助手は無しってね。フラっと居なくなっちゃっても知らないよう」
「居なくならないよ」
榎木津の答えを聞き、今度は司の目が見開かれる。
「おや自信ありげ。そりゃあ益田ちゃんは随分熱心なようだけど、愛想尽かししないとも限らないでしょ?そう云えばお茶を貰いに行くとか云って、随分戻って来ないけど」
「居なくならないね」
司が注いだ酒をぐいと煽り、白い首の中で喉仏が上下する。
高い音を立ててグラスが置かれた時、榎木津の顔は笑っていた。自信と確信に満ちた、勝者の笑み。
「何故なら神が許さないからだ!」
座敷はしん、と静まりかえる。
鍋が煮立つ音、窓越しの雑踏。二、三度瞬きをしたきり呆然としている司と、満面の笑顔を崩さない榎木津。最初に口を開いたのは、司の方だった。
面白くて仕方が無いと云う代わりに、身を仰け反らせて大声で笑っている。ひとしきり笑うと、ふうと一息吐き、当初の姿勢に戻った。
「あー面白い。こんな話に本気出しちゃって、エヅは真面目だなぁ――おっと」
司が襖に目を向ける。その向こうに続く廊下の先から、ぱたぱたと足音がしたからだ。
給仕人にしては洗練されておらず、気が急いている事ばかりが伝わる其れは恐らく益田のものだろう。
「今の話益田ちゃんにしたら、あの子喜ぶかなぁ」
「僕の許可無く下僕を甘やかすな!」
「解ってるって。云ってみただけ」
浅黒い手は幾度目かの継ぎ足しをしようとしたが、瓶の先からは申し訳程度に雫が落ちただけだった。
と同時に、すらりと襖が開く。
「―――かわいいねぇ」
五厘に刈った頭を掻いて、男はくつくつと笑った。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
流行に便乗。割と最近まで司を下の名前だと思っていました。
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