『4.覚悟はとうに出来ていた』の続きです。(時間軸的には前の話にあたります)
榎益榎の事後描写を含みます。直接描写はありません。
榎益榎の事後描写を含みます。直接描写はありません。
薄手のシーツも寝台のクッションも通り抜けてしまって、暗い闇の褥にふわふわ浮かんでいるようなイメージ。暗いけれど、おそろしくはない。目を閉じて漂う自分の上を、夜光虫に似た淡い光がちらちらと流れては消えていく。
安寧な眠りの世界。榎木津はその中で、不思議な音を聴いていた。
音は甲高いようでいて、押し殺した響きを伴っている。そのため、霧がかかったようにぼやけた意識でなんだろうと思ったところで、既に音は虚空に溶けてしまっていた。またとろとろと沈み込むうちに、何処からか聞こえてくるそれに気づく。
(…とり…?)
夜に囀る鳥が居るのだろうか―――榎木津は考える。と同時に、夢の世界ならば、昼も夜もあるまいとも思う。神が眠る時、外の世界は夜になる。ならば今彼の意識を擁するこの場所は昼であってもいい筈だ。また声が聞こえた。
夢の鳥の姿を見たいと思った。けれど辺りは闇ばかりで、何も見えない。理由は簡単だ、自分の瞼が邪魔なのだ。
ぱかり、と目を開く。
途端に闇は消え失せ、榎木津を迎えたのは僅かに青みを帯びる見慣れた寝室であった。
「…なぁんだ」
誰に言うでも無く榎木津は呟いた。冷えかけた夜気は彼の退屈を埋めない。
にゃあ、と奇妙な声をあげて榎木津が伸びをしたかと思うと、大きな目を瞬かせる。文字通り猫のように丸まった背が何かに触れたのだ。脱ぎ捨てた服や鞄ならいざ知らず、今彼の背にひたりと触れるものは確かな温度を持っている。榎木津は寝台の上で、ごろりと身を翻した。
「――あ」
薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がる横顔のライン。思わず身を起こし、見下ろす。
「マスヤマじゃあないか」
榎木津が眠る前と同じ場所に、身を延べる男が居た。すうすうと寝息を立てている。剥き出しの肩から続く、投げ出した細い腕は素肌で、掛け布団の下では恐らく下着すら纏っていないだろう。上下する胸を見て、きょとんとしていた榎木津は憶えずにまりと笑んだ。
益田が榎木津の寝台に居る、という事自体はなんら珍しい事では無い。不意にとは云え、榎木津が目を覚ました時に益田がまだ其処に居る―――それこそが重要だった。何せこの下僕と来たら榎木津が眠るや否や脱兎の如く寝室を飛び出してしまうのだ。高く昇った太陽に照らされるからっぽの寝床を幾度見ることになったか知れない。それが今夜はどうだ。ささやかな達成感めいたものを噛み締めるうち、今度はどんな顔をして眠っているのかが気になった。
榎木津は白い手を益田の顔に当て、ゆっくりと滑らせるように前髪を捲り上げていく。汗も乾きさらりとしている皮膚を撫でるうち、榎木津の眉がきゅっと顰められる。掌に不意に冷たさを憶えたからだ。今榎木津の手は益田の瞼の上に乗っている。そっと取り払えば、閉じられた目尻から耳の裏にかけて、一筋の道が月の光を跳ね返して光った。一部ではあったが確実に濡れた黒髪が、首の後ろで蟠っている。
益田の涙を移した拳を握りこむと、不覚にも温まった胸の裡が急速に冷えていくのを感じた。一旦振り上げられた右腕は益田を打つ事は無く、代わりに優しげな手つきで掛け布団ごと彼を揺さぶった。
「起きなさい、マスヤマ」
「…うあ」
時を置かず、黒い睫がゆっくりと持ち上がる。益田の目はぼんやりと宙を彷徨い、栗色の髪を捉えたかと思うと榎木津の視力でも解るほどに収束した。己の「失態」を悟った益田は、榎木津の予想通り布団を跳ね飛ばす勢いで飛び起きた。
「良く、寝ていたね」
―――泣き疲れて。
横切る涙の道と平行に頬を指でなぞられて、骨ばった肩が益々強張ったのが解る。
「あの、あの、すみません。出て行きますから、直ぐ」
「それで僕の見ていないところで泣くのか!」
益田の喉から「ひっ」と引き攣った声が漏れた。闇を切って届く、甲高い声。ただ癇に障るだけでは無く、榎木津の神経を掻き乱す。
「泣くなら黙って泣けばいいのに、ピーピーしゃくり上げて鬱陶しいったら無い!赤ちゃんはもっと大きな声で泣くが、その方がまだ良い!お母さんを呼ぶために大きな声で泣くんだから。マスカマは何の心算なんだ、そんな小さな声じゃお母さんには届かないぞ、隣で寝てる僕くらいだ、聞こえるのは。ああそうか、泣いてる事僕に知らせたいんだな!」
血の気の引いた唇が、形だけで「ちがいます」と云った。
「そうでもなきゃ、泣き疲れるほど泣く理由が無い。お前はいつも泣いているな。だからナキヤマだ。ナキヤマはどうしたいんだ。いや、どうされたいんだ?泣いていれば、僕が行ってお前の頭でも撫でてやると思っているのか?泣かなくて良い、良い子だからって?――だとしたら凄い馬鹿だ。結局逃げちゃうんだから、もっと意味が無い、無意味馬鹿だ」
殆ど吐息でしか無いか細い声が「やめてください」と告げたが、儚く夜に消えた。
「マスヤマは身の程知らずにも僕に対して意味が解らないとか云うなぁ。意味が解らないのは、お前の方だ!呼びもしないのに来た癖に、呼んだら逃げる!嫌なら着いて来なきゃあ良いんだ!僕なら絶対そうする。
でもな、お前は意味が解らないが解っていることが2つあるんだ。ひとつはお前が神の云う事を聞いた振りしてぜんぜん聞かないバカオロカだってこと。もうひとつは、それでも僕に着いて来るほど、お前は僕のことが、」
ぱん。
乾いた音。痺れる頬。僅かな空気の流れ。
一連の流れの中で、目を一杯に見開いた益田の顔だけがやけにゆっくりと見えた。
■
「…益田君、今日は来ませんでしたなぁ」
夕闇に染まりだした事務所の内鍵を落としながら、和寅がぽつりと呟いた。三角錐から長く伸びた影が、木の天板を横切っていく。榎木津は頬杖をついたまま、その行く先を見守っている。今はもう痛まないその頬を打った男は、夜半に寝室の扉を出て行ってきり姿を見せない。
もう今日は鳴らないであろうドアベルが、夕陽に煌く。
「先生、夕食はどうしますか」
「もう寝る」
「まだ日も暮れきってませんよ、せめて何か口に入れてから」
和寅の声を閉ざすように、扉を閉て切った。バタンと乱暴な音に続き、榎木津が寝台に埋まる。音も無く舞う塵を眺めていた鳶色の瞳が閉ざされては、また開くのを繰り返した。
まだ夜の来ない街は、榎木津の居室にまで生活音を届けている。往来を行く女学生の笑い声や、遥か遠くから聞こえるクラクション。けれど、瞼の裏で榎木津を待つもうひとつの世界には何ひとつ届かない。明かりも、声も、背に触れる温度すらも。
幾度目かに開いた瞳は、視る事が出来ない筈の「自らの記憶」を鮮明に映し出している。あの男は、まるで自分が打たれたように、からっぽの顔をしていた。
(―――静かすぎる)
夜鳴き鳥は、逃げてしまった。
――――
続きます。
安寧な眠りの世界。榎木津はその中で、不思議な音を聴いていた。
音は甲高いようでいて、押し殺した響きを伴っている。そのため、霧がかかったようにぼやけた意識でなんだろうと思ったところで、既に音は虚空に溶けてしまっていた。またとろとろと沈み込むうちに、何処からか聞こえてくるそれに気づく。
(…とり…?)
夜に囀る鳥が居るのだろうか―――榎木津は考える。と同時に、夢の世界ならば、昼も夜もあるまいとも思う。神が眠る時、外の世界は夜になる。ならば今彼の意識を擁するこの場所は昼であってもいい筈だ。また声が聞こえた。
夢の鳥の姿を見たいと思った。けれど辺りは闇ばかりで、何も見えない。理由は簡単だ、自分の瞼が邪魔なのだ。
ぱかり、と目を開く。
途端に闇は消え失せ、榎木津を迎えたのは僅かに青みを帯びる見慣れた寝室であった。
「…なぁんだ」
誰に言うでも無く榎木津は呟いた。冷えかけた夜気は彼の退屈を埋めない。
にゃあ、と奇妙な声をあげて榎木津が伸びをしたかと思うと、大きな目を瞬かせる。文字通り猫のように丸まった背が何かに触れたのだ。脱ぎ捨てた服や鞄ならいざ知らず、今彼の背にひたりと触れるものは確かな温度を持っている。榎木津は寝台の上で、ごろりと身を翻した。
「――あ」
薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がる横顔のライン。思わず身を起こし、見下ろす。
「マスヤマじゃあないか」
榎木津が眠る前と同じ場所に、身を延べる男が居た。すうすうと寝息を立てている。剥き出しの肩から続く、投げ出した細い腕は素肌で、掛け布団の下では恐らく下着すら纏っていないだろう。上下する胸を見て、きょとんとしていた榎木津は憶えずにまりと笑んだ。
益田が榎木津の寝台に居る、という事自体はなんら珍しい事では無い。不意にとは云え、榎木津が目を覚ました時に益田がまだ其処に居る―――それこそが重要だった。何せこの下僕と来たら榎木津が眠るや否や脱兎の如く寝室を飛び出してしまうのだ。高く昇った太陽に照らされるからっぽの寝床を幾度見ることになったか知れない。それが今夜はどうだ。ささやかな達成感めいたものを噛み締めるうち、今度はどんな顔をして眠っているのかが気になった。
榎木津は白い手を益田の顔に当て、ゆっくりと滑らせるように前髪を捲り上げていく。汗も乾きさらりとしている皮膚を撫でるうち、榎木津の眉がきゅっと顰められる。掌に不意に冷たさを憶えたからだ。今榎木津の手は益田の瞼の上に乗っている。そっと取り払えば、閉じられた目尻から耳の裏にかけて、一筋の道が月の光を跳ね返して光った。一部ではあったが確実に濡れた黒髪が、首の後ろで蟠っている。
益田の涙を移した拳を握りこむと、不覚にも温まった胸の裡が急速に冷えていくのを感じた。一旦振り上げられた右腕は益田を打つ事は無く、代わりに優しげな手つきで掛け布団ごと彼を揺さぶった。
「起きなさい、マスヤマ」
「…うあ」
時を置かず、黒い睫がゆっくりと持ち上がる。益田の目はぼんやりと宙を彷徨い、栗色の髪を捉えたかと思うと榎木津の視力でも解るほどに収束した。己の「失態」を悟った益田は、榎木津の予想通り布団を跳ね飛ばす勢いで飛び起きた。
「良く、寝ていたね」
―――泣き疲れて。
横切る涙の道と平行に頬を指でなぞられて、骨ばった肩が益々強張ったのが解る。
「あの、あの、すみません。出て行きますから、直ぐ」
「それで僕の見ていないところで泣くのか!」
益田の喉から「ひっ」と引き攣った声が漏れた。闇を切って届く、甲高い声。ただ癇に障るだけでは無く、榎木津の神経を掻き乱す。
「泣くなら黙って泣けばいいのに、ピーピーしゃくり上げて鬱陶しいったら無い!赤ちゃんはもっと大きな声で泣くが、その方がまだ良い!お母さんを呼ぶために大きな声で泣くんだから。マスカマは何の心算なんだ、そんな小さな声じゃお母さんには届かないぞ、隣で寝てる僕くらいだ、聞こえるのは。ああそうか、泣いてる事僕に知らせたいんだな!」
血の気の引いた唇が、形だけで「ちがいます」と云った。
「そうでもなきゃ、泣き疲れるほど泣く理由が無い。お前はいつも泣いているな。だからナキヤマだ。ナキヤマはどうしたいんだ。いや、どうされたいんだ?泣いていれば、僕が行ってお前の頭でも撫でてやると思っているのか?泣かなくて良い、良い子だからって?――だとしたら凄い馬鹿だ。結局逃げちゃうんだから、もっと意味が無い、無意味馬鹿だ」
殆ど吐息でしか無いか細い声が「やめてください」と告げたが、儚く夜に消えた。
「マスヤマは身の程知らずにも僕に対して意味が解らないとか云うなぁ。意味が解らないのは、お前の方だ!呼びもしないのに来た癖に、呼んだら逃げる!嫌なら着いて来なきゃあ良いんだ!僕なら絶対そうする。
でもな、お前は意味が解らないが解っていることが2つあるんだ。ひとつはお前が神の云う事を聞いた振りしてぜんぜん聞かないバカオロカだってこと。もうひとつは、それでも僕に着いて来るほど、お前は僕のことが、」
ぱん。
乾いた音。痺れる頬。僅かな空気の流れ。
一連の流れの中で、目を一杯に見開いた益田の顔だけがやけにゆっくりと見えた。
■
「…益田君、今日は来ませんでしたなぁ」
夕闇に染まりだした事務所の内鍵を落としながら、和寅がぽつりと呟いた。三角錐から長く伸びた影が、木の天板を横切っていく。榎木津は頬杖をついたまま、その行く先を見守っている。今はもう痛まないその頬を打った男は、夜半に寝室の扉を出て行ってきり姿を見せない。
もう今日は鳴らないであろうドアベルが、夕陽に煌く。
「先生、夕食はどうしますか」
「もう寝る」
「まだ日も暮れきってませんよ、せめて何か口に入れてから」
和寅の声を閉ざすように、扉を閉て切った。バタンと乱暴な音に続き、榎木津が寝台に埋まる。音も無く舞う塵を眺めていた鳶色の瞳が閉ざされては、また開くのを繰り返した。
まだ夜の来ない街は、榎木津の居室にまで生活音を届けている。往来を行く女学生の笑い声や、遥か遠くから聞こえるクラクション。けれど、瞼の裏で榎木津を待つもうひとつの世界には何ひとつ届かない。明かりも、声も、背に触れる温度すらも。
幾度目かに開いた瞳は、視る事が出来ない筈の「自らの記憶」を鮮明に映し出している。あの男は、まるで自分が打たれたように、からっぽの顔をしていた。
(―――静かすぎる)
夜鳴き鳥は、逃げてしまった。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
続きます。
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