「ばれちゃい、ましたぁ」
開口一番そう言った益田の笑顔は、鳥口が知るどの笑顔とも異なっていた。眉尻を下げながらも上目遣いで、哀れを請うような笑みでも、八重歯を見せてけらけらと甲高く笑うものでも無い。誰が見ても微笑んでいるのに、何処か所在無げな。けれど鳥口はその表情を見て、何も汲み取ることは出来なかった。
とはいえいつも通りふらりと現れた様子からは深刻な気配を感じなかったので、鳥口は笑い混じりの口調で、軽く問いかける。
「えぇ、ばれちゃったって、何が? 尾け回してた後家さんに怒られちゃった?」
「怒られる前に逃げてきちゃいました」
「そういうの本当上手いなぁ益田君は」
「いやぁ、恐縮恐縮」
益田を横に立たせ、歩き出す。いつもの飲み屋はここから直ぐだ。適当な雑談を交わしながら、肩を並べて歩く。益田の横顔は相変わらず薄ら笑いを浮かべている。何のことは無い、意味を持たないただの笑顔だったのだ。鳥口はそう納得し、いつしか当初の僅かな疑問を忘れた。
そうこうするうちに2人の足は、1枚の木戸の前で止まる。ところが、もう日も落ちたというのに扉は閉て切られ、看板はおろか暖簾すら出ていない。益田が手をかけて引っ張ってみたが、扉はがたがたと軋むだけで2人を受け入れようとはしなかった。
「あれー益田君、今日何日だっけ?」
「25日ですけど」
「あっちゃあしまった、この飲み屋今日休みなんすよ。定休日」
前に編集長と飲みに来た時も閉まっていて、覚えておこうと思っていたのに今この瞬間まで忘れていた。鳥口はばつが悪げに後頭部を掻いた。今日の飲みに益田を誘ったのは、自分だったからだ。
「別の店にしましょうか」
「うーんどうだろう、今から別の店っていうのも江戸の敵を棒で打つ感じでなんか……あっそうだ、家来ません?」
「下宿でしょ?あんまり長居したら、下のお店に悪いですよ」
「大丈夫ですよ、多分。なんならザーサイのひとつも出してくれるんじゃない」
そうですかぁ、じゃあ甘えちゃおうかなぁ。
そう云う益田の顔は、やはり笑っている。待ち合わせ場所で会った時から、寸分違わぬ顔つきで。
そう広くない部屋だ。
酒瓶とグラス2つ、乾きものを乗せた皿。それを男2人で囲めば、ほとんど埋まってしまうほど。
時には手酌で、時にはふざけて酌をし合いながら過ごせば、いつしか瓶の中の水量は目減りしていく。瓶の口から最後の一滴を自分のグラスに落とした鳥口は、ふと益田の顔を見上げた。
「何か良いことあったの?」
「え、何でですか」
「いや、今日会ってから、ずうっと笑ってるから」
現にこの瞬間も、前髪越しの益田には笑みが張りついたままだ。
普段の益田も常にへらへらしているという点では「ずっと」と言えなくも無い。唇を尖らせて不平を述べたり、態と泣き真似をしてみせたり。今日の益田にはそれすら見られず、何をするにもこの調子だ。
「厭だなぁ、僕はいつでも笑顔を絶やさない男ですよ」
「そう言うんじゃなくて…」
鳥口の意識の果てに消えていた疑念が、再びふつりと湧き上がる。
グラスを置き、僅かに益田に顔を寄せる。表層を破って、内側を覗き込もうとするように。こんな仕草をする人間を、鳥口は知っていた。
「……何か、あったの?」
範囲を広げたようで、その実狭めた質問。益田はそれには答えなかった。代わりに、黒髪が靡いて頭ごと鳥口の肩に倒れこんでくる。どさり、という衝撃とともに空の酒瓶が倒れ、ごろごろと転がっていった。
唐突な行動に、慌てたのは鳥口だ。室内は電球が煌々と照らしている。僅かな明かりでもある限り、益田は決して過剰な接触には及ばなかった筈なのに。
「ま、益田君」
引き離す訳にも、肩を抱く訳にもいかず、鳥口の体は硬直したままだ。綿のシャツが、丸まった痩せた背中を覆っている。やや黄味がかった明かりの所為で、その下の肌色を思わせた。
「いつかはこうなるんじゃないかって思ってましたけど」
篭もった声がそう告げて、鳥口ははっとする。僅かに身じろいだ益田の前髪が肩口に擦れ、乾いた音がやけに大きく聞こえた。
「ばれちゃったんですよう」
それはもう聞いた、と言いかける前に、益田が顔を上げる。
ここで初めて、鳥口は間近に益田を見た。胸に埋まる白い顔は、微笑みの形。―――いや違う。
微笑みだと思っていたのは、鳥口が知らなかったからだ。目尻を下げ、口角を上げ。笑顔の面を被っているような、無機質さ。この顔に対しての表現で、「微笑み」以外の語彙を彼は持たない。咄嗟に古書に埋まる男が脳裏を過ぎった。彼ならば、名前を知っているのでは無いだろうか。
見上げる黒い瞳の中には、一際濃く光を吸い込む瞳孔よりも、もっともっと暗い闇を飼っている。
「―――榎木津さんに、僕の気持ち」
何も判らなかったのは、「何も無かった」からだと、鳥口は唐突に理解した。
――――
続きます。
開口一番そう言った益田の笑顔は、鳥口が知るどの笑顔とも異なっていた。眉尻を下げながらも上目遣いで、哀れを請うような笑みでも、八重歯を見せてけらけらと甲高く笑うものでも無い。誰が見ても微笑んでいるのに、何処か所在無げな。けれど鳥口はその表情を見て、何も汲み取ることは出来なかった。
とはいえいつも通りふらりと現れた様子からは深刻な気配を感じなかったので、鳥口は笑い混じりの口調で、軽く問いかける。
「えぇ、ばれちゃったって、何が? 尾け回してた後家さんに怒られちゃった?」
「怒られる前に逃げてきちゃいました」
「そういうの本当上手いなぁ益田君は」
「いやぁ、恐縮恐縮」
益田を横に立たせ、歩き出す。いつもの飲み屋はここから直ぐだ。適当な雑談を交わしながら、肩を並べて歩く。益田の横顔は相変わらず薄ら笑いを浮かべている。何のことは無い、意味を持たないただの笑顔だったのだ。鳥口はそう納得し、いつしか当初の僅かな疑問を忘れた。
そうこうするうちに2人の足は、1枚の木戸の前で止まる。ところが、もう日も落ちたというのに扉は閉て切られ、看板はおろか暖簾すら出ていない。益田が手をかけて引っ張ってみたが、扉はがたがたと軋むだけで2人を受け入れようとはしなかった。
「あれー益田君、今日何日だっけ?」
「25日ですけど」
「あっちゃあしまった、この飲み屋今日休みなんすよ。定休日」
前に編集長と飲みに来た時も閉まっていて、覚えておこうと思っていたのに今この瞬間まで忘れていた。鳥口はばつが悪げに後頭部を掻いた。今日の飲みに益田を誘ったのは、自分だったからだ。
「別の店にしましょうか」
「うーんどうだろう、今から別の店っていうのも江戸の敵を棒で打つ感じでなんか……あっそうだ、家来ません?」
「下宿でしょ?あんまり長居したら、下のお店に悪いですよ」
「大丈夫ですよ、多分。なんならザーサイのひとつも出してくれるんじゃない」
そうですかぁ、じゃあ甘えちゃおうかなぁ。
そう云う益田の顔は、やはり笑っている。待ち合わせ場所で会った時から、寸分違わぬ顔つきで。
そう広くない部屋だ。
酒瓶とグラス2つ、乾きものを乗せた皿。それを男2人で囲めば、ほとんど埋まってしまうほど。
時には手酌で、時にはふざけて酌をし合いながら過ごせば、いつしか瓶の中の水量は目減りしていく。瓶の口から最後の一滴を自分のグラスに落とした鳥口は、ふと益田の顔を見上げた。
「何か良いことあったの?」
「え、何でですか」
「いや、今日会ってから、ずうっと笑ってるから」
現にこの瞬間も、前髪越しの益田には笑みが張りついたままだ。
普段の益田も常にへらへらしているという点では「ずっと」と言えなくも無い。唇を尖らせて不平を述べたり、態と泣き真似をしてみせたり。今日の益田にはそれすら見られず、何をするにもこの調子だ。
「厭だなぁ、僕はいつでも笑顔を絶やさない男ですよ」
「そう言うんじゃなくて…」
鳥口の意識の果てに消えていた疑念が、再びふつりと湧き上がる。
グラスを置き、僅かに益田に顔を寄せる。表層を破って、内側を覗き込もうとするように。こんな仕草をする人間を、鳥口は知っていた。
「……何か、あったの?」
範囲を広げたようで、その実狭めた質問。益田はそれには答えなかった。代わりに、黒髪が靡いて頭ごと鳥口の肩に倒れこんでくる。どさり、という衝撃とともに空の酒瓶が倒れ、ごろごろと転がっていった。
唐突な行動に、慌てたのは鳥口だ。室内は電球が煌々と照らしている。僅かな明かりでもある限り、益田は決して過剰な接触には及ばなかった筈なのに。
「ま、益田君」
引き離す訳にも、肩を抱く訳にもいかず、鳥口の体は硬直したままだ。綿のシャツが、丸まった痩せた背中を覆っている。やや黄味がかった明かりの所為で、その下の肌色を思わせた。
「いつかはこうなるんじゃないかって思ってましたけど」
篭もった声がそう告げて、鳥口ははっとする。僅かに身じろいだ益田の前髪が肩口に擦れ、乾いた音がやけに大きく聞こえた。
「ばれちゃったんですよう」
それはもう聞いた、と言いかける前に、益田が顔を上げる。
ここで初めて、鳥口は間近に益田を見た。胸に埋まる白い顔は、微笑みの形。―――いや違う。
微笑みだと思っていたのは、鳥口が知らなかったからだ。目尻を下げ、口角を上げ。笑顔の面を被っているような、無機質さ。この顔に対しての表現で、「微笑み」以外の語彙を彼は持たない。咄嗟に古書に埋まる男が脳裏を過ぎった。彼ならば、名前を知っているのでは無いだろうか。
見上げる黒い瞳の中には、一際濃く光を吸い込む瞳孔よりも、もっともっと暗い闇を飼っている。
「―――榎木津さんに、僕の気持ち」
何も判らなかったのは、「何も無かった」からだと、鳥口は唐突に理解した。
お題提供:『BALDWIN』様
――――
続きます。
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