五感の全てを疑った。
こんな街中で、焼け焦げるような匂いに噎せそうになるなんて、絶対に信じられない。
見慣れたビルヂングの窓から、もうもうと立ち昇る白い煙。
あまりの光景に取り落とした買い物袋からは、玉葱がころころと転げ出ている。
口の中がカラカラに乾いて、声も出ない。
益田と同じ衝撃を受けているだろう和寅が、無理やりに搾り出した声でこう告げた。
「―――先生が、まだ中に」
益田と和寅を取り囲む雑踏はただ一点を見上げており、その中にはテーラーの主人や、2階のテナントで幾度か見掛けた店子も居た。
同じ建物の中で違った生活をしていた人々が、こんな形でひとところに集まる事になろうとは。だからと云って、どうもとんだ事でなどと挨拶を交わす気にもならない。彼らは、呆然と佇む男2人が煙を吐き出すフロアの従業員である事を知っているらしく、不安げな視線を向けてきた。つい目を伏せる。
2階から下の窓は相変わらず青い空を映していて、それが逆に階上の異常事態を強調している。階下に火は回っていないようだったが、あの煙の勢いでは時間の問題であるように思えた。誰が持ってきたのか、水の入ったバケツが幾つも並べられているが、手をつけられた様子は無い。
酷い煙だ―――消防はまだか―――中に人が居るって―――あれではきっと助かるまい―――人波に紛れて、益田は聞きたくもない声ばかりを聞く。和寅の耳にも其れは届いてしまったようで、耳を塞ぐ姿が痛々しかった。
僅かに留守にしただけだったのに。榎木津の寝顔を、確かめる事すらせずに。
買い物袋の中には、彼に食べさせたいものばかりが詰まっていた。
「……おい、今誰か居たぞ!」
はっとして、白煙の向こうに目をこらす。確かに、ちらりと人影のようなものが揺れた。
和寅が声を上げる。
「先生!」
群集も口々に叫んだ。
生きてるのか。大丈夫か。飛び降りろ。3階だぞ。そこを動くな。てんでバラバラの声は悲鳴と混ざって雑音と化す。音の波に包まれながら、ただ窓辺を見上げる益田の頭は妙に冴えていた。
仕事から戻った益田を近所中に響く声で怒鳴りつけたり、子どものように大きく手を振っていた姿を思い出す。
「―――益田君何処へ行くんだ!先生ならきっと大丈夫だから、消防が来るまで」
「榎木津さんを、迎えに行ってきます」
バケツの一つを引っ繰り返し、頭から勢い良く水を浴びた。濡れた全身に触れた風があまりに冷たかったが、構っていられない。どうせ直ぐに熱くなる。
貼りついた前髪を振り払うと、益田は暗い階段を駆け登った。
階段に火の手は無かったが、探偵社へ続く踊り場で流石に一旦足が止まった。雲の如く厚い白煙に覆われて、金のドアノブも擦り硝子も見えない。幾度と無く行き来した階段が、死へと述べられた道のようだ。
「こんな煙…榎木津さんは」
一瞬脳裏を過ぎった最悪のイメージを振り払い、階段を駆け上がる。不思議と熱さは感じなかった。ぶつかるように扉を開け、転がり込んだ事務所の中は、一面煙と嫌な匂いが充満している。強い刺激で気管が言う事を聞かず、益田は咳き込んだ。目を開けていられない程だ。だが目を閉じる訳には行かないのだ。
「ゲホッ…榎木津さん!」
がむしゃらに腕を振り回して、煙を払う。一瞬切れた視界の向こうに、栗色の髪が見えた。白い世界の中に浮かび上がる影を、必死に追いかける。
辿り着いたのは探偵机の前で、鳶色の瞳を丸くした榎木津がしゃがみこんでいた。ほっとする以前に、益田の頭を占めたのは焦りだった。榎木津の周囲は煙が一際濃かったのだ。炎が直ぐ近くに迫っているに違いない―――びしょ濡れの額に、さらに冷や汗が伝う。
「益、」
考えている暇は無い。
何か言いかけた榎木津の頭から、益田はバケツの水を浴びせかけた。
「うわっ」
榎木津の声に混じって、じゅうう、と長い音が響いた。何かが燃え尽きるような音。空になったバケツをかなぐり捨てて、益田が榎木津の手を引く。
「なんだ今の音、火、消えたのかな…いやでも、安心出来ないぞ。榎木津さん、直ぐに逃げ」
次いで事務所内に鳴り渡ったのは、意外にも派手な打音であった。益田が握っていないほうの手で、榎木津が彼の頬を打ち据えた音。
「なにをするんだ、バカオロカ!」
「なにをするんだって…あっこの手ですか、照れてる時じゃないでしょう!さぁ早く」
益田が言い切る前に、返す手の甲がもう片方の頬を張る。
事態が飲み込めず、じんじんと痛む頬を押さえて呆然としている益田の目の前で、榎木津が吼えた。
「夕食のおかずが台無しじゃないかぁ!」
急速に薄れていく煙の中から、ゆっくりと、事の元凶―――水浸しの七輪が姿を現した。
今やしんと静まり返ったフロア内には、2人から落ちる水滴がぽつぽつと床を打つ音ばかりがしている。
「―――え、榎木津さん、魚焼いてて火事出しちゃったんですか」
「火事になんかなるものか!」
「ですけど、凄い煙が外にまで…ビルヂングの人も避難して、近所中が見物に」
「凄い煙が出たから窓全部開けて焼いてたのに、だぁれも気づかなかったのか。皆そろってバカオロカじゃないか!」
濡れた髪を振り乱しながら、榎木津が「火元」を示す。3人分の焼き魚は大量の水に洗われて、何の魚かも解らない。水溜りの中でくすぶる七輪は、京極堂の庭で見た事がある気がする。益田の実家でも七輪は使っていたが、これは水で濡らすと灰が詰まってしまって掃除が大変面倒なのだ。ましてこの七輪は土製だ。熱くなっている所に思い切り水を浴びせたのだ、最悪割れてしまったかもしれない。
持ち主の地獄の釜を開けてしまったような仏頂面と、先程までの必死な自分が交互に現れては消え、青くなったり赤くなったりしている益田の耳に、近づいてくるサイレンの音が聞こえてきた。
「…あぁあ!消防!ど、どうするんですか榎木津さん!きっと凄く怒られますよ!」
「消防より僕に怒られる心配をしたらどうだ、オロカ者!」
握ったままの手を引かれる。煙に燻されたソファに投げ出され、益田は目を瞬かせた。逃げていった煙の向こうに、暮れかけた空が見える。
「何が榎木津さぁん、だ。僕が死ぬわけないじゃないか」
室内に未だ残る焼け焦げた匂いをかき消すように榎木津の吐息が吹き込まれ、煙を浴びた時よりももっともっと泣けた。
これはお題がもったいない!!
最近益田の乙女が過ぎるので男を見せて欲しかったんです、と意味不明の供述を続けています。
こんな街中で、焼け焦げるような匂いに噎せそうになるなんて、絶対に信じられない。
見慣れたビルヂングの窓から、もうもうと立ち昇る白い煙。
あまりの光景に取り落とした買い物袋からは、玉葱がころころと転げ出ている。
口の中がカラカラに乾いて、声も出ない。
益田と同じ衝撃を受けているだろう和寅が、無理やりに搾り出した声でこう告げた。
「―――先生が、まだ中に」
益田と和寅を取り囲む雑踏はただ一点を見上げており、その中にはテーラーの主人や、2階のテナントで幾度か見掛けた店子も居た。
同じ建物の中で違った生活をしていた人々が、こんな形でひとところに集まる事になろうとは。だからと云って、どうもとんだ事でなどと挨拶を交わす気にもならない。彼らは、呆然と佇む男2人が煙を吐き出すフロアの従業員である事を知っているらしく、不安げな視線を向けてきた。つい目を伏せる。
2階から下の窓は相変わらず青い空を映していて、それが逆に階上の異常事態を強調している。階下に火は回っていないようだったが、あの煙の勢いでは時間の問題であるように思えた。誰が持ってきたのか、水の入ったバケツが幾つも並べられているが、手をつけられた様子は無い。
酷い煙だ―――消防はまだか―――中に人が居るって―――あれではきっと助かるまい―――人波に紛れて、益田は聞きたくもない声ばかりを聞く。和寅の耳にも其れは届いてしまったようで、耳を塞ぐ姿が痛々しかった。
僅かに留守にしただけだったのに。榎木津の寝顔を、確かめる事すらせずに。
買い物袋の中には、彼に食べさせたいものばかりが詰まっていた。
「……おい、今誰か居たぞ!」
はっとして、白煙の向こうに目をこらす。確かに、ちらりと人影のようなものが揺れた。
和寅が声を上げる。
「先生!」
群集も口々に叫んだ。
生きてるのか。大丈夫か。飛び降りろ。3階だぞ。そこを動くな。てんでバラバラの声は悲鳴と混ざって雑音と化す。音の波に包まれながら、ただ窓辺を見上げる益田の頭は妙に冴えていた。
仕事から戻った益田を近所中に響く声で怒鳴りつけたり、子どものように大きく手を振っていた姿を思い出す。
「―――益田君何処へ行くんだ!先生ならきっと大丈夫だから、消防が来るまで」
「榎木津さんを、迎えに行ってきます」
バケツの一つを引っ繰り返し、頭から勢い良く水を浴びた。濡れた全身に触れた風があまりに冷たかったが、構っていられない。どうせ直ぐに熱くなる。
貼りついた前髪を振り払うと、益田は暗い階段を駆け登った。
階段に火の手は無かったが、探偵社へ続く踊り場で流石に一旦足が止まった。雲の如く厚い白煙に覆われて、金のドアノブも擦り硝子も見えない。幾度と無く行き来した階段が、死へと述べられた道のようだ。
「こんな煙…榎木津さんは」
一瞬脳裏を過ぎった最悪のイメージを振り払い、階段を駆け上がる。不思議と熱さは感じなかった。ぶつかるように扉を開け、転がり込んだ事務所の中は、一面煙と嫌な匂いが充満している。強い刺激で気管が言う事を聞かず、益田は咳き込んだ。目を開けていられない程だ。だが目を閉じる訳には行かないのだ。
「ゲホッ…榎木津さん!」
がむしゃらに腕を振り回して、煙を払う。一瞬切れた視界の向こうに、栗色の髪が見えた。白い世界の中に浮かび上がる影を、必死に追いかける。
辿り着いたのは探偵机の前で、鳶色の瞳を丸くした榎木津がしゃがみこんでいた。ほっとする以前に、益田の頭を占めたのは焦りだった。榎木津の周囲は煙が一際濃かったのだ。炎が直ぐ近くに迫っているに違いない―――びしょ濡れの額に、さらに冷や汗が伝う。
「益、」
考えている暇は無い。
何か言いかけた榎木津の頭から、益田はバケツの水を浴びせかけた。
「うわっ」
榎木津の声に混じって、じゅうう、と長い音が響いた。何かが燃え尽きるような音。空になったバケツをかなぐり捨てて、益田が榎木津の手を引く。
「なんだ今の音、火、消えたのかな…いやでも、安心出来ないぞ。榎木津さん、直ぐに逃げ」
次いで事務所内に鳴り渡ったのは、意外にも派手な打音であった。益田が握っていないほうの手で、榎木津が彼の頬を打ち据えた音。
「なにをするんだ、バカオロカ!」
「なにをするんだって…あっこの手ですか、照れてる時じゃないでしょう!さぁ早く」
益田が言い切る前に、返す手の甲がもう片方の頬を張る。
事態が飲み込めず、じんじんと痛む頬を押さえて呆然としている益田の目の前で、榎木津が吼えた。
「夕食のおかずが台無しじゃないかぁ!」
急速に薄れていく煙の中から、ゆっくりと、事の元凶―――水浸しの七輪が姿を現した。
今やしんと静まり返ったフロア内には、2人から落ちる水滴がぽつぽつと床を打つ音ばかりがしている。
「―――え、榎木津さん、魚焼いてて火事出しちゃったんですか」
「火事になんかなるものか!」
「ですけど、凄い煙が外にまで…ビルヂングの人も避難して、近所中が見物に」
「凄い煙が出たから窓全部開けて焼いてたのに、だぁれも気づかなかったのか。皆そろってバカオロカじゃないか!」
濡れた髪を振り乱しながら、榎木津が「火元」を示す。3人分の焼き魚は大量の水に洗われて、何の魚かも解らない。水溜りの中でくすぶる七輪は、京極堂の庭で見た事がある気がする。益田の実家でも七輪は使っていたが、これは水で濡らすと灰が詰まってしまって掃除が大変面倒なのだ。ましてこの七輪は土製だ。熱くなっている所に思い切り水を浴びせたのだ、最悪割れてしまったかもしれない。
持ち主の地獄の釜を開けてしまったような仏頂面と、先程までの必死な自分が交互に現れては消え、青くなったり赤くなったりしている益田の耳に、近づいてくるサイレンの音が聞こえてきた。
「…あぁあ!消防!ど、どうするんですか榎木津さん!きっと凄く怒られますよ!」
「消防より僕に怒られる心配をしたらどうだ、オロカ者!」
握ったままの手を引かれる。煙に燻されたソファに投げ出され、益田は目を瞬かせた。逃げていった煙の向こうに、暮れかけた空が見える。
「何が榎木津さぁん、だ。僕が死ぬわけないじゃないか」
室内に未だ残る焼け焦げた匂いをかき消すように榎木津の吐息が吹き込まれ、煙を浴びた時よりももっともっと泣けた。
お題提供:『BALDWIN』様
――――これはお題がもったいない!!
最近益田の乙女が過ぎるので男を見せて欲しかったんです、と意味不明の供述を続けています。
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