連日の雨の後は、うだるような暑さが待っていた。
本格的な夏の前に訪れた暑さは、湿気が腕や顔に絡むようで気分が悪い。纏わりつく不快感ごと、青木は剥き出しの腕で顔を拭った。後から後から湧き出す汗で張り付いた髪が滑る。
なにぶん急な気温の変化で、彼の職場である署内も対応しきれていない。扇風機は倉庫の奥深くだ。警官らが老いも若きも寿司詰め状態で、どこもかしこも蒸し風呂の如きである。服を着ないでいい分だけ、蒸し風呂の方がまだ爽やかだとも云える。ぐったりとした男どもの中で、立ち上がって吠えたのは木場だった。汗みずくの腕が、小銭の入った財布を投げつけてくる。
「青木!お前ちょっと出て、なんか冷たいもん買ってこい!」
―――そんな訳で、現在青木は太陽を避けつつ商店の軒下を覗き込んで歩いている。
冷たいもの、と云われても選択の幅は広い。かちわりの氷を入れたコーヒー、駄菓子屋の軒先できらきらと輝く瓶入りのラムネ。氷水の中にぷかぷか浮かぶわらび餅。アイスクリームなど買って帰ったら「餓鬼の使いか」と怒られるだろうか。いや、ああ見えて彼は喜んで食べてくれるかもしれない。
「あっ青木さんだ!青木さーん!」
何処かから名を呼ぶ声がして、俯き加減だった青木は顔を上げる。並木の下に落ちた濃い影の中で、ぶんぶんと手を振るシルエット。もう嫌な予感しかしなかったが、見てしまった以上無視するわけにもいかない。立ち上がった影法師に近寄れば、其れは八重歯を剥き出しにしてけけけと笑った。
「青木さんがサボタージュなんて珍しいですねぇ」
「決め付けてくれるなよ。僕のはおつかい。益田君こそこんな所で何してるんだい」
「良くぞ聞いてくれましたっ!」
木陰の中でも解るほど、黒い瞳が輝いている。前髪が汗でやや湿っているせいか、いつもより顔がよく見えた。
「僕はこれから榎木津さんと、氷を食べるんですよ!」
「へぇ、そうなんだ。氷も良いな、有難う参考にするよ。じゃあ」
「待ってくださいよう!」
ネクタイをがしりと掴まれて、青木はやれやれと項垂れた。嫌な予感というのは当たるものだ。
「榎木津さんが「暑いから氷が食べたい、氷イチゴだっ!」って仰ってですね、でも僕ぁ依頼人と約束があったので先に出なきゃいけなかったんです。そしたら榎木津さん、なんて仰ったと思います?」
「さあ…」
「僕も後から行くから、氷屋の前で待っていなさい!ですって!この暑いのに外で待たせるなんて、しょうがないお人ですよねほんとに!」
口ぶりの割に上機嫌な益田にネクタイを揺さぶられて、青木の首がぐらぐらと揺れる。この暑さでのぼせあがっているとしか思えない浮かれようだ。どうにか益田の手からネクタイを奪い取る。ただでさえ湿っていたのにぎゅうと握り締められて形が崩れてしまった。
そんな事には全く構わず、益田は夢見るような表情で遠くを見ている。
「待ち合わせして氷菓子ですよ…デートみたいじゃないですか、ねぇ」
なにぶん浮かれているので、炎天下の待ちぼうけにも全く堪えていないと見える。女学生でもしないようなポーズではしゃぐ益田を呆然と見つめていた青木だが、ふと肩口に揺れるものを見つけた。益田が跳ねるたびに、其れもゆらゆらと揺れる。
「益田君、何かついてるよ」
軽く引っ張ってみたが、取れない。よく見れば、益田のシャツの襟刳りから飛び出した木綿糸だった。縫い目がほつれてしまったらしい。
益田も気づいて引っ張ってはみたが、縫い目が引き攣れるばかりで全く切れる様子が無い。それどころか、ますます解けて長く伸びているようだった。
「もう触らない方が良いよ、切った方が良い」
「こういうのって一回気にすると気になっちゃうんですよねぇ。こんなに伸びちゃって参ったなぁ。青木さん何とかしてくださいよう」
「何で僕が何とかしなきゃいけないんだよ、糸切り鋏なんて持ってないよ?」
「青木さんが教えてくれたんじゃないですか、これから榎木津さんと会うのに、こんな状態で恥ずかしいですっ」
ふざけているのか、本気なのか。どちらにしても、青木を軽い苛立ちが襲った。只でさえ暑いのに、暑苦しい小ネタを挟まないで欲しい。
ともかく季節外れの熱は青木の頭をも逆上せさせたようで、気づけば益田の襟首を掴み上げていた。目をぱちくりさせている益田を、じとりと睨みつける。
「じっとして」
襟元に顔を寄せると、汗の匂いと、僅かに洗濯石鹸の香りがした。
青木は木綿糸を口に含み、きりと歯を立てる。犬歯に挟んだ白糸はあっけなく切れ、唖然としている益田の目の前で、舌の上に残った糸の端を出してやった。
「はい、切れた」
「あ、ど、どうも」
乱暴に手を放せば、益田がふらふらと地に立った。千切れた糸を捨てれば、直ぐに日光に紛れて見えなくなる。影の角度が少し変わったのを感じ、青木は本来の目的を思い出した。茹で蛸になった先輩が、彼の帰りを待っているのだ。
軽くでも別れを告げようと益田に目をやると、ふと違和感を憶える。まだ日は高く、依然として青木の背を汗が流れて行くというのに、益田の顔は何故か蒼白だ。凍りついたその視線は、青木の肩越しに集中している。
「益田君?」
「え、え、え、榎木津さん……?」
青木が振り向くと、ぎらぎらと照りつける太陽光線をものともせずに、仁王立ちしている榎木津が居た。眩しい日光にもひるまぬ美貌は、不機嫌を通り越して明らかに怒りに満ちている。
「待っててやったのに、コケシ君と遊んでいたのか!」
「いや、その、違いますよ。青木さんとはここで偶然会って、ねぇ青木さん」
「え、あ」
眉をぎゅっと寄せた榎木津としどろもどろの益田に挟まれて、青木は狼狽する。どう云ったものか。証拠の木綿糸は捨ててしまったし、榎木津にかかってはあんなものが証拠になるかどうかすらも怪しいものだ。くるりと背を向けて帰ろうとした榎木津を、涙目になった益田が引き止めた。
「いやああ榎木津さん待ってください!青木さんもほら、止めて!」
炎天下で、それも男3人の愁嘆場を演じるのはご免だったが、どうも帰れそうな雰囲気でも無い。入る筈だった氷屋の客は、色とりどりの氷山をつつきながら突如始まった修羅場を興味深げに見つめている。
暑さに参りながらも戻らぬ青木を引き取りに来た木場と、参考人を渡さぬと云った榎木津が殴るわ蹴るわで揉めたりと、不意に訪れた夏日は正しく青木の周囲を焼き尽くすに至って。
此処まで含めての『嫌な予感』だったとは流石に気づかなかったと思う青木の背と濡れたシャツの隙間とを、幾分冷えた風が擦り抜けた。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
いかさんが青木と益田書いてくださったので嬉しくなってつい…。
お題…どっか行った…。
本格的な夏の前に訪れた暑さは、湿気が腕や顔に絡むようで気分が悪い。纏わりつく不快感ごと、青木は剥き出しの腕で顔を拭った。後から後から湧き出す汗で張り付いた髪が滑る。
なにぶん急な気温の変化で、彼の職場である署内も対応しきれていない。扇風機は倉庫の奥深くだ。警官らが老いも若きも寿司詰め状態で、どこもかしこも蒸し風呂の如きである。服を着ないでいい分だけ、蒸し風呂の方がまだ爽やかだとも云える。ぐったりとした男どもの中で、立ち上がって吠えたのは木場だった。汗みずくの腕が、小銭の入った財布を投げつけてくる。
「青木!お前ちょっと出て、なんか冷たいもん買ってこい!」
―――そんな訳で、現在青木は太陽を避けつつ商店の軒下を覗き込んで歩いている。
冷たいもの、と云われても選択の幅は広い。かちわりの氷を入れたコーヒー、駄菓子屋の軒先できらきらと輝く瓶入りのラムネ。氷水の中にぷかぷか浮かぶわらび餅。アイスクリームなど買って帰ったら「餓鬼の使いか」と怒られるだろうか。いや、ああ見えて彼は喜んで食べてくれるかもしれない。
「あっ青木さんだ!青木さーん!」
何処かから名を呼ぶ声がして、俯き加減だった青木は顔を上げる。並木の下に落ちた濃い影の中で、ぶんぶんと手を振るシルエット。もう嫌な予感しかしなかったが、見てしまった以上無視するわけにもいかない。立ち上がった影法師に近寄れば、其れは八重歯を剥き出しにしてけけけと笑った。
「青木さんがサボタージュなんて珍しいですねぇ」
「決め付けてくれるなよ。僕のはおつかい。益田君こそこんな所で何してるんだい」
「良くぞ聞いてくれましたっ!」
木陰の中でも解るほど、黒い瞳が輝いている。前髪が汗でやや湿っているせいか、いつもより顔がよく見えた。
「僕はこれから榎木津さんと、氷を食べるんですよ!」
「へぇ、そうなんだ。氷も良いな、有難う参考にするよ。じゃあ」
「待ってくださいよう!」
ネクタイをがしりと掴まれて、青木はやれやれと項垂れた。嫌な予感というのは当たるものだ。
「榎木津さんが「暑いから氷が食べたい、氷イチゴだっ!」って仰ってですね、でも僕ぁ依頼人と約束があったので先に出なきゃいけなかったんです。そしたら榎木津さん、なんて仰ったと思います?」
「さあ…」
「僕も後から行くから、氷屋の前で待っていなさい!ですって!この暑いのに外で待たせるなんて、しょうがないお人ですよねほんとに!」
口ぶりの割に上機嫌な益田にネクタイを揺さぶられて、青木の首がぐらぐらと揺れる。この暑さでのぼせあがっているとしか思えない浮かれようだ。どうにか益田の手からネクタイを奪い取る。ただでさえ湿っていたのにぎゅうと握り締められて形が崩れてしまった。
そんな事には全く構わず、益田は夢見るような表情で遠くを見ている。
「待ち合わせして氷菓子ですよ…デートみたいじゃないですか、ねぇ」
なにぶん浮かれているので、炎天下の待ちぼうけにも全く堪えていないと見える。女学生でもしないようなポーズではしゃぐ益田を呆然と見つめていた青木だが、ふと肩口に揺れるものを見つけた。益田が跳ねるたびに、其れもゆらゆらと揺れる。
「益田君、何かついてるよ」
軽く引っ張ってみたが、取れない。よく見れば、益田のシャツの襟刳りから飛び出した木綿糸だった。縫い目がほつれてしまったらしい。
益田も気づいて引っ張ってはみたが、縫い目が引き攣れるばかりで全く切れる様子が無い。それどころか、ますます解けて長く伸びているようだった。
「もう触らない方が良いよ、切った方が良い」
「こういうのって一回気にすると気になっちゃうんですよねぇ。こんなに伸びちゃって参ったなぁ。青木さん何とかしてくださいよう」
「何で僕が何とかしなきゃいけないんだよ、糸切り鋏なんて持ってないよ?」
「青木さんが教えてくれたんじゃないですか、これから榎木津さんと会うのに、こんな状態で恥ずかしいですっ」
ふざけているのか、本気なのか。どちらにしても、青木を軽い苛立ちが襲った。只でさえ暑いのに、暑苦しい小ネタを挟まないで欲しい。
ともかく季節外れの熱は青木の頭をも逆上せさせたようで、気づけば益田の襟首を掴み上げていた。目をぱちくりさせている益田を、じとりと睨みつける。
「じっとして」
襟元に顔を寄せると、汗の匂いと、僅かに洗濯石鹸の香りがした。
青木は木綿糸を口に含み、きりと歯を立てる。犬歯に挟んだ白糸はあっけなく切れ、唖然としている益田の目の前で、舌の上に残った糸の端を出してやった。
「はい、切れた」
「あ、ど、どうも」
乱暴に手を放せば、益田がふらふらと地に立った。千切れた糸を捨てれば、直ぐに日光に紛れて見えなくなる。影の角度が少し変わったのを感じ、青木は本来の目的を思い出した。茹で蛸になった先輩が、彼の帰りを待っているのだ。
軽くでも別れを告げようと益田に目をやると、ふと違和感を憶える。まだ日は高く、依然として青木の背を汗が流れて行くというのに、益田の顔は何故か蒼白だ。凍りついたその視線は、青木の肩越しに集中している。
「益田君?」
「え、え、え、榎木津さん……?」
青木が振り向くと、ぎらぎらと照りつける太陽光線をものともせずに、仁王立ちしている榎木津が居た。眩しい日光にもひるまぬ美貌は、不機嫌を通り越して明らかに怒りに満ちている。
「待っててやったのに、コケシ君と遊んでいたのか!」
「いや、その、違いますよ。青木さんとはここで偶然会って、ねぇ青木さん」
「え、あ」
眉をぎゅっと寄せた榎木津としどろもどろの益田に挟まれて、青木は狼狽する。どう云ったものか。証拠の木綿糸は捨ててしまったし、榎木津にかかってはあんなものが証拠になるかどうかすらも怪しいものだ。くるりと背を向けて帰ろうとした榎木津を、涙目になった益田が引き止めた。
「いやああ榎木津さん待ってください!青木さんもほら、止めて!」
炎天下で、それも男3人の愁嘆場を演じるのはご免だったが、どうも帰れそうな雰囲気でも無い。入る筈だった氷屋の客は、色とりどりの氷山をつつきながら突如始まった修羅場を興味深げに見つめている。
暑さに参りながらも戻らぬ青木を引き取りに来た木場と、参考人を渡さぬと云った榎木津が殴るわ蹴るわで揉めたりと、不意に訪れた夏日は正しく青木の周囲を焼き尽くすに至って。
此処まで含めての『嫌な予感』だったとは流石に気づかなかったと思う青木の背と濡れたシャツの隙間とを、幾分冷えた風が擦り抜けた。
お題提供:『キンモクセイの泣いた夜』様
――――
いかさんが青木と益田書いてくださったので嬉しくなってつい…。
お題…どっか行った…。
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