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2024/11/23 03:54 |
3.アリスのわすれもの
朝起きた時から予感はあったのだ。
妙に空気が肌に絡み、薄汚れた窓から見上げた空には重そうな雲が垂れ込めて、太陽を覆い隠している。
なるほどな、と思った益田は、下駄箱から一本の傘を引きずり出した。何の変哲も無い蝙蝠傘は、神奈川から連れてきた荷物のひとつだ。大分年季が入ったそれは骨が2,3本曲がっており不格好ではあったが、多少の雨を凌ぐには十分だ。益田はいつもの鞄に、くたびれた傘を携えて事務所へ向かった。すれ違う人々も同様で、それぞれに長短の傘を連れている。
益田の予感は実際当たり、午後にはぽつりぽつりと雫が落ち始め、夕方には大雨となった。ひっきりなしに窓硝子を叩く雨の音を聞き、仕事を終えた益田は立ち上がる。外套を羽織り、玄関脇に手を伸ばしたところで、はたと気がついた。

「あれ?」

無い。無くなっている。
立てかけていた黒い傘が、何処にも見あたらない。
益田はきょろきょろと周囲を見渡し、念のために廊下まで覗き込んでみる。益田の傘は無かったが、階段を上ってきていた和寅と出くわした。藍染めの着物と揃いの傘から、水が滴り落ちている。

「和寅さん、僕の傘持って行ってませんよね?」
「いいや知らないよ。この通り、私が持っているのは自前さ。どんな傘だね」
「骨が何本か折れてますが、普通の黒い傘ですよ。出社した時このへんに立てといたんですけどねぇ」

扉の裏側まで回り込んでみたが、やはり見つからない。
階段を上り終えた和寅が、床を衝いて水滴を払いながら顔を上げた。

「その傘なら見たな」
「本当ですか!嗚呼良かった。すみません、何処に仕舞ってくださったんですかねぇ」
「先生が差してお出かけになったよ。さっき下ですれ違ったんだが、気づかなかったのかい?」
「えぇぇぇえぇ?」

そう云えば、傘と同じく榎木津の姿も無かった。仕事に集中していて気がつかなかったのだろうか。益田は慌てて窓に張り付き、3階下の道を見下ろす。赤や黄といった色とりどりの傘が行き交っているが、生憎既に黒い傘は何処かに行ってしまった後のようだった。降り続く雨が窓を流れていく。

「榎木津さぁん」
「ちゃんと仕舞っておかないからだよ。走って帰るんだね」
「そんなぁ。こんな雨ですよ、ていうか和寅さんの傘貸してくださいよ!」
「あれはここの備品だからなぁ、買い出しには使うけれど君が持って行っていいかまでは先生に聞かなきゃわからんね」
「そんなバカな、僕をからかって」
「まぁ濡れて帰るのが嫌なら、先生を待っても良いと思うね。今から夕食の支度をするし、食べてる間にお戻りになればいいんだが」

和寅は益田につきあうのを止めて、勝手場に引っ込んでしまった。ひとりになった部屋の中には、雨の音がやたら大きく聞こえる。
益田はしょんぼりと肩を落とし、窓の外を見やった。雨が止む気配はまだ無い。

「まいったなぁ」

益田は着こんだ外套を、もう一度衣紋掛けに着せる。建物全体を濡らす水の所為か、僅かに肌寒さを憶えた。






骨だけになった焼き魚や、僅かな飯粒が付いた茶碗がテーブルの上に並んでいる。
くちた腹を撫でていた益田は、ふと辺りが静かになった事に気づいた。洗われた窓硝子の外には、どんよりと曇った夜空が広がっている。窓を開けて手を伸ばしたが、霧雨すらも感じられない。益田の顔がぱっと晴れた。

「あ、止んでる!良かったぁ、待った甲斐があったなぁ」
「飯に夢中で忘れていた癖に。食後の茶まで要求して、図々しいというか何というか」

和寅のぼやきは無視し、益田はいそいそと帰り支度を始めた。雲は未だに重く垂れ込めていて、すぐにも再び降り出しそうだ。急いで帰るに越した事は無い。上着に袖を通したところで、カウベルがからからと鳴った。

「帰ったぞ!」

扉から顔を出したのは、やはり榎木津である。栗色の髪に白皙の美貌は良いのだが、幼児が着る様な真っ黄色のレインコートが異様すぎる。こういった衣服にも大人用があるということを、益田は初めて知った。唖然と見守る益田と、慣れているのか片付けの手を止めない和寅の前で、榎木津はフードを脱ぎ去りふるふると頭を振った。犬に似ている。

「うはは、よく降ってた。おーい和寅、ご飯にして」

放り捨てたレインコートが益田に当たり、顔に飛沫がかかる。思わず「うわっ」と悲鳴が漏れたが榎木津はお構い無しで、既に席についている。益田は前髪を払いながらも、戸口を見渡し、改めて眉を顰めた。

「あれ?榎木津さん、僕の傘は?」
「カサ?」
「僕の傘持って行ってたんでしょ、黒い、骨が折れてるやつですよ。――ま、まさか」
「うん、そのまさか。珍しく察しが良いな」

榎木津は事も無げにそう云って、和寅は飯櫃から白米をよそっている。益田ばかりが悲しい声を上げた。

「ええぇぇぇ!置い、置いてきちゃったんですか!?」
「晴れてるし、邪魔になったし、いらないだろ。和寅、醤油取って」
「何処に置いてきたんですかぁ!」

益田の叫びには答えず、榎木津は味噌汁を啜っている。あったまるなぁ、と満面の笑みだ。花が咲いたような表情に一瞬ほだされそうになるが、ぐっと飲み込んだ。小走りで出入り口に向かい、ノブを引く。

「と、とにかくもう今日は帰りますけど、明日探しに」

カウベルの音はかき消された。どざぁっ、という轟音と、ばしばしばし、と硝子を叩く音に。
3人が見つめる窓は波紋に覆われてしまい何も見えないが、凄まじい豪雨が再び始まった事だけは誰の目にも明らかで。

「――あの、今日やっぱり泊まり」
「ばいばい」
「詰ったりしてすみませんでした!もう調子に乗りませんから、泊めてください!」

勢いよく頭を下げた益田の頭上で、雨音と呼ぶには酷すぎる其れに交じった「おかわり」という声に続き、「はいはい」という答えが返る。
上目遣いで榎木津を見上げると、湯気の向こうで彼はにやにやと笑っていた。

「すごぉく帰りたいみたいだし、いつでも帰って良いよ。今帰ると良いよ。すぐ帰ると良いよ」
「そんなぁ!いくら最近あったかいって云っても風邪ひいちゃいますよう」
「バカオロカは風邪ひかないから大丈夫。そんなに濡れるのが嫌なら、それを着て帰りなさい」

塗りの箸先が示したのは、濡れたまま床に打ち捨てられている雨用外套だった。夜目にも目立つ、真っ黄色の。益田は思わず後ずさったが、広がった水が靴の裏にまで着いてくる。

「それを着て、帰りなさい」

空になった茶碗を、榎木津の箸が合図のようにちん、と鳴らした。






「うはははは、面白いなぁ」

ビルヂングの中から、黄色い人影がゆっくりと出てきたのを見つけ、榎木津は指を差して笑った。奇妙なてるてる坊主のようになった益田が、雨の中からこちらを見上げ、榎木津が見ている事に気づいたのか慌てて走り去る。
眩しいまでに明るい其れは道の彼方まで良く見えていたが、やがて角を曲がって消えた。榎木津も満足して身を引く。目を閉じれば、世界を打ち鳴らす雨音が心地良い。和寅が煎れた珈琲の香りが、鼻腔を擽る。

「面白かったですが、似合ってませんでしたなぁ」

益田が立っていた場所には、水溜まりが出来ていた。大きなフードの中で、泣くわけにも怒るわけにもいかず、仕方なしに笑っていた表情を思い出すだけで、榎木津の口端にはこらえきれない笑いが浮かぶ。雨など構わず今すぐ外に飛び出して、黄色い背中を捕まえたいほどだ。

「あの服はマスヤマにあげようっと。面白いから」




――――
益田黄色似合わないだろうなぁーと思って。


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2009/04/27 22:57 | Comments(0) | TrackBack() | 益田

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