「うははははは、待たせたな、僕だ!」
スパァン!と景気のいい音を立てて襖の向こうから参上したのは、案の定はた迷惑な探偵だった。
同時に吹き込んできた乾いた風に頁を捲られ、中禅寺はいかにも不機嫌そうな顔をしている。
「待ってもいないし、そもそも呼んでもいないんだがね」
「うわっ、榎木津さん。今日は朝からお出かけだったんじゃないんですか?」
「む、そこにいるのはカマオロカだな」
「僕が呼んだんだよ」
本屋がカマに何の用事がある、と言いながら榎木津は座布団にどかりと腰掛けた。この座布団は益田がさっと置いておいたもので、中禅寺も「すっかり下僕が板について」とさも残念そうに首を振る。
本に囲まれた部屋の中で、3人が囲んでいる卓。常と違う箇所があるとすれば、中央に置かれた銀の箱だった。横文字でなにやらずらずらと書いてある、どうも菓子箱のようだ。
「洋菓子ですか?中禅寺さんのイメェジとちょっと違いますね」
「チョコレートだ。千鶴子が銀座で買ってきたんだよ。珍しいと言ってね」
「チョコレートって進駐軍が子供に撒いてたやつでしょ?随分出世したもんですねェ」
生憎僕はこう言ったものは食べないので、益田君に取りに来て貰ったんだ。薔薇十字探偵社ならば、ここよりは人の出入りがあるし、茶請けにでもしてくれるかと思ってね。そう言いおいて、中禅寺は茶を啜った。榎木津も、益田の前に置いてあった湯飲みを一気飲みしている。あああ、と情けない声がした。
「まぁそういうことだ益田君、持ち帰ってくれ。そこの探偵もついでに頼む」
「食べるぞ!」
「えっもう食べるんですか!? …ああ、もう開けちゃってますね」
遠慮も会釈もなくバリバリ開けられた箱の中には、見るも麗しいチョコレート達が鎮座している。褐色の表面は上品に照り輝き、口に入れる前からその口どけを想像させた。顔を寄せると甘い香りに交じって心なしか芳醇な洋酒の香りもするようだ。これを土産に選んだ千鶴子のセンスは素晴らしいが、唯一残念なことがあるとすれば、受取人にはやはりあまり似合っていない。
宝石でも見るかのようにぼんやりと見惚れていた益田だったが、視界に白い手が侵入してきたことで我に返った。
白い手―――榎木津は無造作に一粒つまみあげて、掌に乗せてちょっと弄んだ後一口でぱくりと食べてしまった。
「甘ァーーーーい!! うはははは、甘いぞ!とても甘い!あとちょっと苦い!」
「知ってるよ。君にとってはチョコレートなど珍しいものでもないんじゃないか」
「珍しいか珍しくないかはどうでもいい、大事なのはこれが甘いか!そして美味しいかだ!うん、これはなかなか美味しいぞ、さすが千鶴子さんだ」
「別にあれが創った訳でもないがね。…益田君、君も食べるといい。呆けていると、これが全部食べてしまうぞ」
ああ、はい、いただきます…益田も指先で一つ拾い上げて、口に入れてみる。やはり甘い。舌で頬の内側に押し付けると、あっけなく溶けて行く。口内でコロコロ転がすたびに、八重歯を掠めた。
「…益田君」
「…ああはい、わかってます。見えてます」
2人が見ているのは、目を輝かせて楽しげにチョコレートを口に運び続けている榎木津だった。
この色の濃いやつはちょっと苦いんだ、とか、これは中に酒が入っていて噛むと飛び出してくるぞ、とか言っているのは結構だが、その口の周りは茶色く汚れている。どんな食べ方をすればこうなるのか。
子供ならば微笑ましい光景だが、榎木津はいくら美形とはいえ三十路もいいところの、益田に言わせればおじさんだ。それが口と言わず頬と言わずにチョコレートを付けたままはしゃいでいるのである。あまり目に優しい景色ではない。
眉を顰めた中禅寺が無言で顎をしゃくっている。益田は榎木津に声をかけた。
「あのう榎木津さん、僭越なんですが。口の周り、ついてますよ」
「ん、どのへんだ」
「いやもうどのへんだっていう域じゃなくてですね」
舌で口の周りを舐めているが、だからどうなるもんでもない。まだるっこしいと袖で口を拭おうとしていたので、益田は慌てた。今日榎木津は白い服を着ている。チョコレートでどろどろの服を着せて帰ったら、また和寅に怒られる。想像しただけで溜息も出ようというものだ。
「ああもう、ちょっと待ってください。僕が取りますから」
スラックスのポケットから青いハンケチーフを取り出し、榎木津の口元を拭ってやる。
拭かれている間なにやらむーむー言っている様子は本当に子供のようで、益田はくつくつと笑った。
すっかり綺麗になったのを見て、やっと榎木津を開放する。何事もなかったかのように菓子に喰らいつく探偵を見てやり遂げた気分になっている益田を突き刺したのは、信じられないものを見るような中禅寺の視線だった。
「なんですか、中禅寺さん?どうです、綺麗になりましたよ。どうもうちの探偵がお見苦しいところをお見せしまして、なんて言っちゃって僭越でしたかね」
「いや榎木津が見苦しいのは今に始まったことではないがね、益田君」
「はい」
「下僕が板につくのは君の勝手だが、人前ではどうかと思うよ」
…何がだろう。
京極堂の座敷にはしばらく榎木津がチョコレートを噛む租借音ばかりが聞こえていたが、やがて益田の深い深い溜息とも嘆きの叫びともつかない声が響いた。なんなら、がっくり、という音もしたかもしれない。
子供のような男が口の周りをべたべたに汚しているのと、その口元を甲斐甲斐しく拭ってやる男。客観的に見て、どちらも尋常ではない。
そもそも益田に言わせれば、ハンカチで口を拭ってやるのは女の子であるべきなのだ。たとえば敦子のような可愛らしい女子が、「もう龍一君、だらしないんだから」とかなんとか言いながらやってくれるべきなのだ。そのハンカチは薄いピンクのレースがあしらわれていれば言うことはない。
状況設定嗜好の妄想か、年頃の男子の年相応の夢かは難しいところだが、とにかく益田は沈んでいた。
とほほほほ、とでも言いたげに落ち込んでいる益田の横顔を、じっと見つめるものがあった。
「…なんだマスヤマめ、お前もぼくのことを言えないじゃないか」
「なんですか榎木津さん、僕ぁ自分の存在理由について考えを巡らせているところなんですよ、チョコレートは僕の分まで食べていいですから」
「お前もついているぞ、そら、口の端のところだ」
「え、そうですか」
唇の右端に指を触れさせるや否や、いきなり顎をとられ、ごきりと音がしそうなほど首を捻られた。
「痛ッ!首の筋が!」
「そっちじゃない!こっち」
ぺろり。
唇に触れるか触れないかの辺りを、桃色の舌が掠めた。
「あっ広がった。まぁいいか」
ぱっと顎を離された益田は、そのままの勢いで背中から倒れこみ、書棚にぶつかった。
積み上げられた古書がばらばらと益田の上に降り注ぎ、中禅寺は「迷惑だなぁ」と言っている。
迷惑?何がだろうか?
本の山を崩したことがか?それもきっとあるけれど。
うわ、うわ、うわ ああああ 。
起き上がってこない益田の顔を、榎木津が見下ろす。一点の汚れもない白いシャツの襟元が、妙にまぶしい。
「なんだ顔が真っ赤じゃないか。チョコレートの食べすぎだな?鼻血が出るんじゃないか。おい本屋、鼻紙」
鼻血も出るかもしれません。
立ち上がれないまま見上げた拝み屋は、なんだかやけに大きく見えた。
「益田君、聞こえているか?
今さら言っても仕方ないかもしれないが、チョコレートは古来媚薬としての効力もあったというぞ。
まぁ精々頑張ってくれたまえ。無論、うち以外の場所で」
――――
チョコレート?チョコレイト?チョコレエト?
バレンタインは昭和30年代まで一般庶民には知られていなかったそうですが、きっと中禅寺ならなんとかしてくれる。