磐石と信じたこともない、ただ当たり前のように益田が立っていた場所は、深い雪に覆い隠されただけの薄氷であったらしい。
2度目に生まれた場所は、海の中だった。
漂っているのか、沈んでいくのかすら判然としない。水面も水底も遠く、濃紺の世界に取り残される。
2度目に生まれた場所は、あるいは空の上だった。
舞い上がるように墜落し、それでも浮遊している。いつも見上げた青が視界一杯に広がった。
どちらにしても、益田の居る場所はとても寒かった。呼吸が上手く出来ない。上か下か、右か左かも解らない世界で、益田は探した。胸を一杯に膨らませられて、暖かい場所をだ。
今まで乗っていた足場は全て崩れてしまった。違うやり方で探さなければならない。益田は、懸命に腕を伸ばした。泳いだものか飛んだものかも知らない。もう一度生まれたとはいえ、益田は依然つまらない人間のままであり、魚でも鳥でも無かったからだ。
益田は追った。僅かに差し込む光の線を、忘れがたい温もりを。
彼は生まれたばかりであったので、天空に燦然と輝く光球の名も知らなければ、無闇に近づいた者がどうなる定めかも知らなかった。ただ目指した。
鱗も翼も持たぬまま、ひとりの人間のままで。
■
「おお、赤ちゃんだ!赤ちゃんが通るぞ」
いつも通り退屈げに窓の外を見下ろしていた榎木津が叫んだ。つられて覗き込むと、はるか眼下を赤ん坊を抱いた母親が通り過ぎるところだった。横を見れば、榎木津が笑いながら手を振っている。数人の通行人が何事かと見上げてきたが、肝心の母子は全く気づかずに行ってしまった。榎木津はつまらなそうに窓から身を引く。
「榎木津さんホントに赤ん坊好きですねぇ」
「うふふ」
榎木津は含み笑いをして、探偵椅子に腰掛けた。左手で頬杖をついて、右手で空中を撫でている。其処に赤子の丸い頭があるかのようだ。林檎色をしたやわやわの頬、まだ生えはじめの頼りない髪。榎木津は赤ん坊のそんな部位をことさら好んだ。益田も子供は嫌いではないが、榎木津の溺愛ぶりは様子が可笑しいと思う。ただでさえ物騒な世の中で、子攫い人も横行しているという。人好きする美形であることはこんな部分でも得をするものか、と益田は内心溜息を吐いた。
其処へ箒を引き摺った和寅が現れた。掃除をしながらも、榎木津の狂態を見ていたらしい。
「そんなに赤ん坊がお好きなら、ご自分でお作りになればいいのに」
からかうような発言。きょとんとした榎木津を、益田は横目でちらりと見た。艶やかで柔らかそうな栗毛に、同じ質感の長い睫が飾る色素の薄い瞳。日本人離れした容貌に、透けるような白い肌。そうは見えないとは言え、30代も半ばの中年男だ。実際の子供ならば、どれほど愛らしいか知れない。益田はうっとりと目を細めた。
「和寅さん上手いこと仰いますねぇ。榎木津さんのお子さんならきっと可愛いですよ。男子でも榎木津さん似の男前になるでしょうけど、女児は男親に似るって云うし、女の子だったらいいなぁ、仏蘭西人形みたいなお嬢さんになりますよ」
薄桃色のドレスを身に纏い、榎木津から受け継いだ美しい髪をリボンでまとめて、花畑を駆け回る少女を想像する。乗馬鞭を両手で握り締めて何処か遠くを見る益田は、どう見ても遠くの世界に行ってしまっていた。
「長じて口が利けるようになったら、マスヤマ馬になりなさーい、なんて言ったりするのかなぁ。大きくなったらマスヤマとけっこんするーなんて云われちゃったりして、困るなぁ」
想像の中ですら「マスヤマ」なのが悲しい。
ともかく夢想に耽っていた益田を引き摺り戻したのは案の定榎木津で、未発達な顎骨から頬骨までに張り付いた薄い肉を左右に伸ばすことで成された。
「ひででっ」
口の端を引っ張られているので、変な声が出てしまった。八重歯が剥き出しになる。
益田の頬をぎゅうと抓んだまま、榎木津はじとりと黒い瞳を睨みつけた。
「そんなつまらない事考えてるから、お前は可愛くないんだ。バカオロカ」
「つ、つまらないことってなんですかぁ」
ぎりぎりと引き絞られる理不尽な痛みに耐えながら、益田はもがくばかりだった。
■
かくして目指す場所に辿り着いた益田を待っていたのは、薄氷を融かし尽くして尚余りある熱量だった。
其処はやはり物凄く眩しくて、益田の目を射抜き、吸い込む息は胸を焼いた。
けれど益田はただの人間であったので、乾いて剥がれてしまう鱗も、焼け焦げてしまう翼も持ち合わせてはいなかったから。
目を細めながらも、胸を痛めながらも、どうにかこうして触れられる。
シロさんにアドバイス頂いて書きました。全然違う内容になってしまいましたが…
いつもありがとうございます。
2度目に生まれた場所は、海の中だった。
漂っているのか、沈んでいくのかすら判然としない。水面も水底も遠く、濃紺の世界に取り残される。
2度目に生まれた場所は、あるいは空の上だった。
舞い上がるように墜落し、それでも浮遊している。いつも見上げた青が視界一杯に広がった。
どちらにしても、益田の居る場所はとても寒かった。呼吸が上手く出来ない。上か下か、右か左かも解らない世界で、益田は探した。胸を一杯に膨らませられて、暖かい場所をだ。
今まで乗っていた足場は全て崩れてしまった。違うやり方で探さなければならない。益田は、懸命に腕を伸ばした。泳いだものか飛んだものかも知らない。もう一度生まれたとはいえ、益田は依然つまらない人間のままであり、魚でも鳥でも無かったからだ。
益田は追った。僅かに差し込む光の線を、忘れがたい温もりを。
彼は生まれたばかりであったので、天空に燦然と輝く光球の名も知らなければ、無闇に近づいた者がどうなる定めかも知らなかった。ただ目指した。
鱗も翼も持たぬまま、ひとりの人間のままで。
■
「おお、赤ちゃんだ!赤ちゃんが通るぞ」
いつも通り退屈げに窓の外を見下ろしていた榎木津が叫んだ。つられて覗き込むと、はるか眼下を赤ん坊を抱いた母親が通り過ぎるところだった。横を見れば、榎木津が笑いながら手を振っている。数人の通行人が何事かと見上げてきたが、肝心の母子は全く気づかずに行ってしまった。榎木津はつまらなそうに窓から身を引く。
「榎木津さんホントに赤ん坊好きですねぇ」
「うふふ」
榎木津は含み笑いをして、探偵椅子に腰掛けた。左手で頬杖をついて、右手で空中を撫でている。其処に赤子の丸い頭があるかのようだ。林檎色をしたやわやわの頬、まだ生えはじめの頼りない髪。榎木津は赤ん坊のそんな部位をことさら好んだ。益田も子供は嫌いではないが、榎木津の溺愛ぶりは様子が可笑しいと思う。ただでさえ物騒な世の中で、子攫い人も横行しているという。人好きする美形であることはこんな部分でも得をするものか、と益田は内心溜息を吐いた。
其処へ箒を引き摺った和寅が現れた。掃除をしながらも、榎木津の狂態を見ていたらしい。
「そんなに赤ん坊がお好きなら、ご自分でお作りになればいいのに」
からかうような発言。きょとんとした榎木津を、益田は横目でちらりと見た。艶やかで柔らかそうな栗毛に、同じ質感の長い睫が飾る色素の薄い瞳。日本人離れした容貌に、透けるような白い肌。そうは見えないとは言え、30代も半ばの中年男だ。実際の子供ならば、どれほど愛らしいか知れない。益田はうっとりと目を細めた。
「和寅さん上手いこと仰いますねぇ。榎木津さんのお子さんならきっと可愛いですよ。男子でも榎木津さん似の男前になるでしょうけど、女児は男親に似るって云うし、女の子だったらいいなぁ、仏蘭西人形みたいなお嬢さんになりますよ」
薄桃色のドレスを身に纏い、榎木津から受け継いだ美しい髪をリボンでまとめて、花畑を駆け回る少女を想像する。乗馬鞭を両手で握り締めて何処か遠くを見る益田は、どう見ても遠くの世界に行ってしまっていた。
「長じて口が利けるようになったら、マスヤマ馬になりなさーい、なんて言ったりするのかなぁ。大きくなったらマスヤマとけっこんするーなんて云われちゃったりして、困るなぁ」
想像の中ですら「マスヤマ」なのが悲しい。
ともかく夢想に耽っていた益田を引き摺り戻したのは案の定榎木津で、未発達な顎骨から頬骨までに張り付いた薄い肉を左右に伸ばすことで成された。
「ひででっ」
口の端を引っ張られているので、変な声が出てしまった。八重歯が剥き出しになる。
益田の頬をぎゅうと抓んだまま、榎木津はじとりと黒い瞳を睨みつけた。
「そんなつまらない事考えてるから、お前は可愛くないんだ。バカオロカ」
「つ、つまらないことってなんですかぁ」
ぎりぎりと引き絞られる理不尽な痛みに耐えながら、益田はもがくばかりだった。
■
かくして目指す場所に辿り着いた益田を待っていたのは、薄氷を融かし尽くして尚余りある熱量だった。
其処はやはり物凄く眩しくて、益田の目を射抜き、吸い込む息は胸を焼いた。
けれど益田はただの人間であったので、乾いて剥がれてしまう鱗も、焼け焦げてしまう翼も持ち合わせてはいなかったから。
目を細めながらも、胸を痛めながらも、どうにかこうして触れられる。
お題提供:『ペトルーシュカ』様
――――シロさんにアドバイス頂いて書きました。全然違う内容になってしまいましたが…
いつもありがとうございます。
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